毒、滴る 弐
北の
妻戸に手をかけた
氷雨が無惨な御簾を腕で押し退けながら、音もなく中に滑り込み、玄梅が後に続く。すすり泣く女の声が大きくなり、小さく物音も聞こえるようになった。二人がこの建物に足を踏み入れたことは気づかれてはいないようだ。が、氷雨は自らの軽率さを少し後悔する。臭いがするのだ。例の、魂魄の
薄暗い中、二人が左右に目を走らせると、
「に……さま……やめて……さい」
玄梅は、嫌々ながらも慎重に寝殿に近づこうとしていた足を止めて、息を詰めた。女が何を呟いているのか聞こえたのだ。氷雨も眉間にしわを寄せて立ち止まっている。
「あぁ……もう、やめて。母様を」
――ちぎらないで。
「五辻殿、何を」
「たねを」
「たね?」
氷雨が目を細めて聞き返すと、五辻はおもむろに左手を
「まさか、母親の、指を」
「俺の血では足りぬので、母上の肉をもろうた」
淡々と言う五辻の目は穴のように虚ろで、母親の指を握る左手をよく見れば、昨日は巻いていた麻布は取り払われ、露わになった小指と薬指は深い傷が幾筋も口を開けており、赤茶色に乾いた血がこびりついている。
「宮城内に
ぽつり、と落ちた告白に、氷雨と玄梅は絶句した。聞くべきことが多すぎて、二人ともすぐに言葉が出てこない。
「な、何故」
やっと玄梅が絞り出したのはそれだけだった。
「
「奴? それは」
「だが、もう俺は恐ろしゅうなってしまった。だから何もしたくないと奴に言った。そうしたら、奴は、俺はもう心が鈍ってしまったから、供物にならぬと。死んだも同然なのだと。馬鹿な、俺は生きているのに」
氷雨の声が聞こえていない様子の五辻は、二人に聞かせているのか、独白なのかわからないほどに抑揚のない声音で続けた。
「昨日、奴が、おれをまろめにきた。供物がないなら、せめてたねになれと……」
そこで少し黙った五辻は、急に、ごとり、と母親の腕を放るように離した。
「嫌だ。いやだいやだ。おれは嫌だ。俺の血はやるが、にくもいのちも、やりとうない。だからかわりに、ははうえの肉とおれの血で、たねをつくる。いまから俺はこれをまろめてたねにする。それが終われば、おまえの番だ」
いまだ座り込んで動けずにいる女に、五辻の暗い目が、ひたり、と据えられる。変に声が裏返ったり、発音がたどたどしくなったり、五辻の言動が徐々に不安定になってきている。注意深く彼の言葉を聞き取っていた氷雨が、さりげなく女のほうににじり寄るのを、五辻は目ざとく見つけた。
「もうすぐ、奴がくる。やつがきてしまう。おまえ……おまえ、邪魔立てしてくれるな」
「五辻殿、今うたよみを呼びに
氷雨が静かに声をかけると、五辻はしばし口を
「無駄よ、むだ。うたよみなどでは到底かなわぬ。敵うものか。きのう、やつが言うておった。奴は、とつく、に」
不意に言葉が途切れた。気配を消しながら、女を助け起こそうとしていた玄梅が、さっと五辻を振り返る。様子がおかしい。否、昨日からずっと様子はおかしいが。急に黙り込んだ五辻の光のない黒目が、素早い
「きた。きた。きた。きた……」
ただ事ではない様子とはうらはらに、相変わらず抑揚の欠けた声音でひたすらに「来た」と繰り返している。その異様さに震える女の肩に手をかけながら、自身も青い顔をした玄梅。氷雨はその二人と五辻の間に立ち、薄暗い部屋の四隅に目を走らせるが、何の気配も感じられない。
「な、え!? な、何が来たんですか!?」
「わからない。
「何かと言われても……っ」
相手の姿が見えなければ、何をどこに向かって詠めばよいやら見当もつかない。氷雨も両袖の中に手を入れるが、
「ちょっと待ってください、これは本当に何か」
来ているんですか、と続く言葉を口の中で凍らせた。
五辻の祈りのような
静まり返った空気の中で、五辻が発する
「舌を、抜こうとしている……!」
「はぁああぁ!? 何故!!」
混乱と
「ひ、氷雨殿」
五辻の喉から悲鳴の代わりに、ごぼごぼという音が鳴り始め、氷雨は歯噛みした。舌の根元から血が
「氷雨殿」
「なんだ、鴫沼! 早く手を貸せ」
語気を荒げて勢いよく振り返った先で、玄梅が
「ああ、あ、あの、大丈夫なので、お、落ち着いていてくださいね。変に抵抗すると、自分で、け、怪我してしまうやもしれませんので。大丈夫ですから。大丈夫……大丈夫」
怖い。尋常ではない様子で、まるで自分に言い聞かせるように「大丈夫」を繰り返す同輩を凝視する氷雨は、今こいつまでおかしくなったら俺はどうすればいいのだ、と絶望する。
「いや、実際、外すところまでは大丈夫なんです。本当に」
訳の分からないことを言い続ける玄梅の右手の親指から、銀色の環を外されるのが見えた。氷雨は、喉まで出かかった「おい」を飲み込んだ。玄梅から、何か、
「加減。加減さえ、できれば大丈夫。ひひ、氷雨殿、大丈夫ですから、ね? 無理に暴れたりしないでくださいね、えっと、ね、眠たく? なるだけですから、多分? あぁぁ、加減が……難し……」
怖い。何をされるんだ、と氷雨が身構えていると、玄梅の隣にいる女が、ゆっくりと前に倒れこんだ。それに続いて、氷雨の背後で五辻が崩れ落ちる音がした。意識を失って手足が
「あぁ、もも、申し訳ない。目の前が暗くなりますけど、大丈夫ですからね。た、多分目覚めますから、おそらく。だから安心し」
氷雨が聞くことができたのは、そこまでだった。
「お前、それ」
二の句が
「玄梅! 最高に毒々しいな!」
宇賀地の脇をすり抜け、
「紅緒……」
呆然と呟く玄梅の耳に、お前らついてくるなと言っただろう、と背後に向かって叱る宇賀地の声が聞こえた。姿は見えないが、おそらく
「うたよみ殿、ご覧になられたか、玄梅の
やや芝居がかった言い様で嬉々として言う紅緒に、宇賀地が「お、おう」と戸惑い混じりの声で答える。そのまま手際よく、血を流している五辻とその母の首筋に手を当てて脈をとった紅緒は、「このお二人は急ぎ手当てが必要です」とうたよみたちに告げた。彼女の平気な様子を見て、尻込みしていたうたよみたちと、ついでに日和と鴉近も、部屋に駆け込んでくる。それをぼんやりと見ていた玄梅の前に、紅緒は片膝をついた。ひたり、と二人の視線が合い、翡翠の目が少しだけ柔らかく細められる。
「氷雨殿も、そこの女人も、良く寝ておられる。流石は
「……いえ」
ぼそりと呟く玄梅の顔のどこを探しても罪悪感しか見当たらなかったので、紅緒は少し考えてから口を開いた。
「姉君のご結婚とご懐妊の祝いをしに伺ったとき、少し話をしたのだが」
あぁ、そういえば祝いの品を贈るとかなんとか、かなり前に言っていたような気もする、が、まさか直接会いに行っていたとは。初耳な話に、紅梅色の瞳が落ち着きなく揺れる。
「姉君は大層心配しておられたぞ。自分のせいでお前が
「いや、それは……」
違うとも言い切れず、
何も言わずにいる玄梅をじっと見ていた紅緒が、唐突に右手を頬に当てて少し首を
「もうもうもう! 玄梅さんたら、私はこぉんなに
「…………!?」
玄梅は素早く腰を浮かせた。紅緒の口から別人の声が出てくる。別人、というか自らの姉の声だ。仕草も表情も、ふわふわとした幼子のような声の抑揚も、柔らかでいて有無を言わせぬ声音も、
「私のことを負い目に思ってるのなら本当にやめて欲しいの。確かに少し血は吐いたけれど、すぐに治ったもの。与えられたものは使わないと、玄梅さんの謌の技量だけでは、うたよみになんてなれないわ」
「いやいやいや、え? 私のことそんなふうに思っていたのですね姉上、失礼な。あれ、姉上? 紅緒?」
脳が
「それにね、あのときの梅の花、見たことがないくらいに綺麗だったのよ」
「姉上……」
「と、姉君は
「……紅緒、二度と姉上の真似をしないでください。二度とです」
なんでだ、上手かったであろ、と口をとがらせる幼馴染に、上手いからですよ、と返しながらも、玄梅は白金の指環をやや呆然と見つめている。それを尻目に、紅緒が
「見事な紅梅だったそうだな。いつか私も見たいものよ」
「そう、ですね、前向きに検討します」
吐血する準備はしておいてください、と冗談とも思えぬ口調で呟いた玄梅に、紅緒が明るい笑い声をあげたところで、宇賀地が玄梅を呼んだ。
「鴫沼玄梅、聞きたいことが山ほどあるんだが、いいかな」
疲労とも安堵ともつかない息を浅く吐いた玄梅は、やっと口の端に苦笑のようなものを浮かべて立ち上がった。
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