第二章
白いひと 壱
この世とは、不条理である。
貧と富の間のみならず、貧しき者には貧しき者たちの間で、富める者には富める者たちの間での不条理がある。雨を
答えは否である。
ぎり、と奥歯を噛んで、男は知らず知らずのうちに、
物を乞うて生き長らえている者たちは、己を捨てれば、死にしか縛られない。己を捨てなければ生と死に縛られる。それはそれは人間の自然な姿ではないか。
では、俺はどうだと、男は自問した。
下位華族の子息である俺は。
家に縛られ、勤めに縛られ、人に縛られ、位に縛られ、ただ、己を捨てることを強いられる、俺は。
家があるなら
俺のせいではないのに。なぜ俺が。
この世とは、不条理である。
男は奥歯を噛み締めてへらへらと笑い、自分よりたった一つ位が上の華家に
もう嫌だ。
「おまえ」
もう嫌なのだ。
「おまえ、どうしたい」
殺してやりたい。
「だれを」
こいつらを。それから俺を。
「それは“復讐”か?」
復讐?
「そうだ。そいつらになにかうばわれたか? こわされたか?」
復讐……そうだな、そうだ。俺の人生を台無しにされた。その復讐だ。
「それはいい。では、ころそう」
……そう簡単にはいかない。
「なに、むずかしゅうない」
そうだろうか?
「ああ、そうだ。てつどうてやろう」
そうか、ならば。
「ああ、ころそう」
ああ、殺そう。
「ころそう」
殺そう。
頭に響く声に従って、男は
「というわけで、今日は今言った割り振りで実習。明日は久しぶりに全員で講義を受けてもらう」
「といっても、実技的なもので退屈しないので、俺は途中で寝ない。安心してくれ。
では解散、と
「み、身随神、だと」
背後で、珍しく
「……どうした、何か問題か」
「あ、ああ、氷雨様。特にどうというわけではないので、お気になさらず」
すぐに笑顔に戻った紅緒が、おや、と氷雨の肩に手を伸ばす。氷雨の装いは七位を示す
「濡れていらっしゃる。寒くはないですか?」
「今朝の初雪を、庭で眺めていたら濡れた」
氷雨は特に
「まるで子供のようでおかわいらしい。ですが、
「……」
氷雨の
たっぷり十数えるあいだ考えた氷雨は、ゆっくりと口を開いた。
「……お前の手は、新雪のように白くて冷たい。この手があれば、熱を患っても、たちどころに
玄梅が氷雨を二度見した。兄の
不意をつかれて目を
「そ、そうですか! では、明日も明後日もこうして、熱がないか確かめねば」
いそいそと今度は両手で氷雨の頬を、包み込む紅緒。
「……それは実に楽しみではあるが、相手がお前では、逆に熱があがるかもしれない」
無表情のままに紅緒の手に手を重ねる氷雨。
「それはいけない。ですが、大叢家の
翡翠色の瞳を伏せて苦笑する紅緒の顔を、氷雨はわずかに首を傾げて覗き込む。
「つまり……具合が悪いときは、お前を呼んでもいいということか?」
「氷雨様にそのように嬉しそうなお顔をされると、何事も断れませぬ」
言葉の殴り合いである。殴られているのは聞いている第三者の心だ。笑顔と凶相の実に
我関せずと、部屋の隅にいた高鞍鴉近は、嫌でも耳に入ってくる会話にドン引いていたが、はっと我に返り、盛大に舌打ちして大股で出ていく。
「あっ、高鞍殿?! 待ってください」
本日の鴉近の相方である日和が、急いで後を追った。一方、玄梅は、
「氷雨様、本日は私と薬草採りでございます。ささ、参りましょう。個人的にお話もございますゆえ」
「……ああ。待たせて悪い。
玄梅と氷雨が去った後、ぽつん、と一人残った紅緒は、ひとつ息を吐いた。彼女は先輩の謌生と共に職務にあたる予定であるが、その先輩がまだ姿を現さない。
取り敢えず、そっとその場に腰を下ろして、顎に手を当てて考え込む姿勢をとる。いつになくその表情は険しい。
彼女の目下の問題は、
それは、謌によって特別な契約を交わした神である。謌を詠むものであれば、必ずと言ってよいほど身随神をもっている。義務などではないが、身随神の格の高さはやはりうたよみの格の高さとも言えるうえ、いちいち謌わずとも使役できるのでやはり便利である。
そんなものおらぬからな……と、紅緒は板敷きの床を見つめて独りごちた。
彼女には身随神がいない。身随神をもつことができないと言ったほうが正しいだろう。とにかく、明日の講義はどうしたものか、と
そのとき、
「お前が今日の俺様の相棒か」
はい、と応えようとしたが、彼はそれを待たない。
「名は?」
「紅緒にございます」
「あ、そ。俺様は二年目の謌生、
紅緒の名をちゃんと聞いていたか怪しい様子で、黒羽司琅は
「しろちゃんと呼べよ」
今朝は初雪が降ったが、今はもう止んで、多少地面が
その下で、黒羽司琅と紅緒は、地面を掘っていた。
場所は、塀に囲まれた宮城内、謌寮から少し北に歩いたところにある
自らの
「それで、お前、男なの女なの」
穴を挟んで向かい側に立つ紅緒もまた、うっすらと笑みを浮かべたまま
「どちらだとお思いになりますか?」
ふん、と鼻を鳴らした先輩謌生は答えなかった。
二人は向かい合って立っているが、互いの顔を全く見ずに、
「ところで、今日は素敵な装いですね」
紅緒が褒めた司琅の今日のいでたちは、
「馬鹿野郎。昨日も明日も素敵だ、俺様は」
真剣そのものな司琅の返答に、馬鹿野郎などと暴言を受けたにも
「ときに、しろちゃんはお若く見えますが、おいくつなのでしょうか」
怪の
「三十五」
眉一つ動かさず、また目線も地面の穴から離さず、司琅は答えた。
紅緒は、穴を注視する目を少し見開いて、片頬だけでにっこりと打ち笑んだ。
「へぇ、随分と若作りでいらっしゃる」
言い終えないうちに、突如として地面の穴から目にも止まらぬ速さで何かが飛び出し、紅緒の右手が宙を
「その程度の嘘では動じませんよ、しろちゃん」
にこにこと笑う麗人の手には、今
「ちっ、全敗じゃん。お前の目はどうなってんの」
紅緒が差し出すそれをひったくって、謌によって怪封じの効果を施した巾着袋に、乱暴に突っ込む。
今紅緒が捕らえたのは、誰かが誰かを害すために埋めた、呪いの謌が込められた怪の肉塊である。怪を
司琅の
「それにしても多いですね。先日、この前庭で舞った者がこの辺りで倒れたと聞きましたが、これのせいでしたか」
「あー、あの
なんとも軽い言い方をしているが、司琅の表情は険しい。このような呪物は、対象の者の屋敷の敷地や、通り道に埋められたりすることはあるものの、皇帝のおわす宮城内に埋められているとなると
「……取り敢えず燃やすか、これ」
お前、やれ、と差し出された巾着を紅緒が受け取ろうとしたとき、背後から声が掛かった。
「紅緒さま」
「紅緒さま、何をなさっているの」
鈴を転がすような軽やかな声に、振り向けば、出仕初日に
「これは、お二人とも。春の女神がもうお見えになったのかと思いました。ですが、何故このようなところへ?」
宴などが催されていない朝源院は、人気もなくうら寂しい雰囲気で、女官が用もなく来るような場所ではない。
「紅緒さまがここにいらっしゃると、別の者が噂しておりましたの」
「それで、急いで参りましたのよ」
わずかに頬を
「こちらは謌生の
「怪を? その袋に入っているの?」
「まぁ、見てみたいわ」
怪の入った袋に興味津々の様子の二人だが、それを持っている司琅がやけに静かだ。彼はどうやら女性への耐性がないらしい。耳が異様に赤い。私のことは何故平気なんだ、と純粋に疑問に思いながらも紅緒はそっと耳打ちする。
「しろちゃん、見たいそうですが」
「あ、あぁ」
妙にギクシャクした動きで、口を開けた巾着を差し出す。恐る恐るその中を覗き込んだ二人の女官は、ぴたりと黙り込んだ。
巾着の中は、割と
さっ、と何か視界を遮った。
「魅入られてはいけませんよ」
暗闇の中、
「しろちゃん、袋の口を閉めてください」
紅緒が背後から抱くようにして両手で二人の目を覆っている。
「貴女たちは、感じやすい質のようですね」
さらさらと衣擦れの音を立てて紅緒が離れると、女官たちはあたふたと意味も無く
「か、感じやすいだなんて……」
「あぁ、そ、そうです! 私たちこれを紅緒さまにと言われて持ってきたのでした」
萌黄の髪飾りのほうの女官が、
「ど、どうしたのです、こんな……」
紅緒が
「お似合いですわ!」
「流石ですわ!」
「それでは、わたくしたちもう戻らないと、叱られてしまいますの」
「紅緒さま、また遊んでくださいませ」
声を
紅緒は二人を呼び止めようとした手をゆっくりおろした。首回りが
無言のまま、ちら、と司琅と目が合う。
「もらっとけば。誰からかわかんないけど。暖かそうだし」
「他人事だと思って」
半眼で司琅を睨んだ紅緒は、次の瞬間、真顔になって司琅の耳許に口を寄せる。
「しろちゃん、今のお二人、決まった殿方はいらっしゃらないみたいですよ」
「はあぁ?! だから何?!」
「お気に召した様子でしたので」
「お気にッ、ばッ、お前」
顔を赤くしている先輩に、片眉を上げて微笑んだ紅緒は、怪を燃やすための謌を口ずさみ始めるのだった。
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