第二章

白いひと 壱

 この世とは、不条理である。

 貧と富の間のみならず、貧しき者には貧しき者たちの間で、富める者には富める者たちの間での不条理がある。雨をすすり残飯をう乞食より、取るに足らぬ位しか持たぬ華家かげは幸せか、否か。

 答えは否である。

 ぎり、と奥歯を噛んで、男は知らず知らずのうちに、れた装束の袖を強く握った。

 物を乞うて生き長らえている者たちは、己を捨てれば、死にしか縛られない。己を捨てなければ生と死に縛られる。それはそれは人間の自然な姿ではないか。

 では、俺はどうだと、男は自問した。

 下位華族の子息である俺は。

 家に縛られ、勤めに縛られ、人に縛られ、位に縛られ、ただ、己を捨てることを強いられる、俺は。さげすまれながら目の前の下衆共げすどもに媚び続けなければならない俺は。

 家があるなら僥倖ぎょうこうか。着る物があればましか。食い物があるだけ幸せか。食い物など、あっても食えなければ意味がない。男の胃の腑は、この二年程はきりきりと痛んで、食物をわずかしか受け付けない。栄達えいたつに目がくらんだ父親が馬鹿な不正などしなければ、こうはならなかった。大して賢くもないくせに、家名をおとしめるだけ貶めて、さっさと死んだ父。老いてほうけ始めたせりがちの母。世を儚んで室に引きこもっている顔も忘れそうな妹。あるか無しかの財に、直すこともできずに傷んだままの屋敷。

 俺のせいではないのに。なぜ俺が。沸々ふつふつと腹の底が煮える。

 この世とは、不条理である。

 男は奥歯を噛み締めてへらへらと笑い、自分よりたった一つ位が上の華家におもねる。口からはおべっかばかりを垂れ流している。

 もう嫌だ。

「おまえ」

 もう嫌なのだ。

「おまえ、どうしたい」

 殺してやりたい。

「だれを」

 こいつらを。それから俺を。

「それは“復讐”か?」

 復讐?

「そうだ。そいつらになにかうばわれたか? こわされたか?」

 復讐……そうだな、そうだ。俺の人生を台無しにされた。その復讐だ。

「それはいい。では、ころそう」

 ……そう簡単にはいかない。

「なに、むずかしゅうない」

 そうだろうか?

「ああ、そうだ。てつどうてやろう」

 そうか、ならば。

「ああ、ころそう」

 ああ、殺そう。

「ころそう」

 殺そう。

 頭に響く声に従って、男は愈々いよいよ、笑った。




「というわけで、今日は今言った割り振りで実習。明日は久しぶりに全員で講義を受けてもらう」

 宇賀地うがちがいつもの寝惚ねぼけた半眼で、新人の面々を見回した。謌寮での職務にようやく慣れ始めた五人がそこにそろっており、初めに比べれば、その表情には少し余裕が見える。紅緒は最初から特に変わらない。

「といっても、実技的なもので退屈しないので、俺は途中で寝ない。安心してくれ。各々おのおの身随神みずいじんを披露してもらおうと思っているから、そのつもりでな」

 では解散、と欠伸あくびをしながらそう言うと、のそのそと長身を屈めて出ていった。今日は無精髭ぶしょうひげが伸びていっそう熊のようだった、と日和はるたかはその後ろ姿を見送る。

「み、身随神、だと」

 背後で、珍しく狼狽うろたえた声音で紅緒が呟いたので振り向くと、兄の氷雨が彼女に近寄っていくところだった。いつもどおり、極寒の表情である。

「……どうした、何か問題か」

「あ、ああ、氷雨様。特にどうというわけではないので、お気になさらず」

 すぐに笑顔に戻った紅緒が、おや、と氷雨の肩に手を伸ばす。氷雨の装いは七位を示す深緋こきひ真更衣まさごろもだが、肩のあたりだけ色が濃くなっている。そこをそっと撫でた紅緒が、わずかに柳眉をひそめる。

「濡れていらっしゃる。寒くはないですか?」

「今朝の初雪を、庭で眺めていたら濡れた」

 氷雨は特に頓着とんちゃくする様子もなく、寒くない、と答える。翡翠ひすい色の瞳を細めて、男装の麗人は、氷雨の頬にひたり、と手を置いた。

「まるで子供のようでおかわいらしい。ですが、咳気がいきなど患っては、心配です」

「……」

 氷雨のしばしの沈黙。それはつねのことなのだが、日和には分かる。今日の兄はいつもと別のことを考えている。どのようにして紅緒に気持ちを伝えようかと。多少わくわくしている日和の横で、玄梅は乾いた目で二人を眺めている。

 たっぷり十数えるあいだ考えた氷雨は、ゆっくりと口を開いた。

「……お前の手は、新雪のように白くて冷たい。この手があれば、熱を患っても、たちどころにえるだろう」

 玄梅が氷雨を二度見した。兄の快挙かいきょに弟は「わぁ」と小さく歓声をあげる。表情と台詞せりふが全くもって一致していないが、いつもほぼ無言を通していた氷雨には大き過ぎる一歩である。果たして紅緒の反応は? と感情の異なる二対の目が、注視する。

 不意をつかれて目をみはっていた紅緒は、みるみるうちに嬉しそうな照れ笑いを浮かべた。

「そ、そうですか! では、明日も明後日もこうして、熱がないか確かめねば」

 いそいそと今度は両手で氷雨の頬を、包み込む紅緒。

「……それは実に楽しみではあるが、相手がお前では、逆に熱があがるかもしれない」

 無表情のままに紅緒の手に手を重ねる氷雨。

「それはいけない。ですが、大叢家の侍医じいであってもこの役目を譲るのはしゃくです」

 翡翠色の瞳を伏せて苦笑する紅緒の顔を、氷雨はわずかに首を傾げて覗き込む。

「つまり……具合が悪いときは、お前を呼んでもいいということか?」

「氷雨様にそのように嬉しそうなお顔をされると、何事も断れませぬ」

 言葉の殴り合いである。殴られているのは聞いている第三者の心だ。笑顔と凶相の実にたのしそうな口説き文句の応酬おうしゅうに、割り入るすきを見い出せない玄梅が口を開いたり閉じたりしている。

 我関せずと、部屋の隅にいた高鞍鴉近は、嫌でも耳に入ってくる会話にドン引いていたが、はっと我に返り、盛大に舌打ちして大股で出ていく。

「あっ、高鞍殿?! 待ってください」

 本日の鴉近の相方である日和が、急いで後を追った。一方、玄梅は、目許めもとを引きらせた笑顔を浮べて、氷雨の肩をがっちり掴んだ。

「氷雨様、本日は私と薬草採りでございます。ささ、参りましょう。個人的にお話もございますゆえ」

「……ああ。待たせて悪い。鴫沼しぎぬま、少し肩が痛いのだが」

 玄梅と氷雨が去った後、ぽつん、と一人残った紅緒は、ひとつ息を吐いた。彼女は先輩の謌生と共に職務にあたる予定であるが、その先輩がまだ姿を現さない。

 取り敢えず、そっとその場に腰を下ろして、顎に手を当てて考え込む姿勢をとる。いつになくその表情は険しい。

 彼女の目下の問題は、身随神みずいじんであった。

 それは、謌によって特別な契約を交わした神である。謌を詠むものであれば、必ずと言ってよいほど身随神をもっている。義務などではないが、身随神の格の高さはやはりうたよみの格の高さとも言えるうえ、いちいち謌わずとも使役できるのでやはり便利である。

 そんなものおらぬからな……と、紅緒は板敷きの床を見つめて独りごちた。

 彼女には身随神がいない。身随神をもつことができないと言ったほうが正しいだろう。とにかく、明日の講義はどうしたものか、とうなる。

 そのとき、ほとんど走っているような騒々しい足音がこちらへ近付いてくるのが聞こえた。思考を中断して背後を振り返ると、ちょうど、足音の主と思われる一人の男が姿を現したところであった。派手な色目の装束を着た砂色の髪の男である。おそらくは彼がくだんの先輩の謌生であろう、と紅緒が立ち上がると、彼は紅緒より少し小柄であった。彼の黒目がちの目が、ひた、と紅緒をとらえた。

「お前が今日の俺様の相棒か」

 はい、と応えようとしたが、彼はそれを待たない。

「名は?」

「紅緒にございます」

「あ、そ。俺様は二年目の謌生、黒羽くろばね司琅しろう

 紅緒の名をちゃんと聞いていたか怪しい様子で、黒羽司琅は尊大そんだいに胸を張った。

「しろちゃんと呼べよ」




 今朝は初雪が降ったが、今はもう止んで、多少地面が泥濘ぬかるんでいる程度である。とはいえ、晴れているわけでもなく、空は冬曇ふゆぐもりを決め込んで、鈍色にびいろに重くめている。

 その下で、黒羽司琅と紅緒は、地面を掘っていた。

 場所は、塀に囲まれた宮城内、謌寮から少し北に歩いたところにある朝源院ちょうげんいんという建物の前庭ぜんていである。ここは、がくや踊り、謌をまじえた演舞えんぶなどが催される建物で、前庭は言わばその舞台にあたる場所であった。石畳などで舗装されていない庭の、ある一箇所を、二人は掘っていた。掘ると言っても、司琅によって集められた、土竜もぐらによく似たが、掘り返していくのを、二人はただ見ているだけなのだが。

 自らの眷属けんぞくである銀灰色の毛の怪が、もぞもぞと踏み固められた硬い地面を掘り進んでいく様を、半眼で眺めながら、司琅が口を開いた。

「それで、お前、男なの女なの」

 穴を挟んで向かい側に立つ紅緒もまた、うっすらと笑みを浮かべたまま足許あしもとを凝視している。

「どちらだとお思いになりますか?」

 ふん、と鼻を鳴らした先輩謌生は答えなかった。

 二人は向かい合って立っているが、互いの顔を全く見ずに、只管ひたすらに足許の穴を見つめ続けている。

「ところで、今日は素敵な装いですね」

 紅緒が褒めた司琅の今日のいでたちは、淡藤あわふじの衣に、紺桔梗こんききょう張衣はりぎぬを重ねて、真っ白な飾りひもを掛けている。多少派手であるが、すっきりとしていて趣味は良い。出仕の際、二年目からは衣の色は位階に準じていなくともよいとの決まりがある。その代わり、位階を示す玉佩ぎょくはいげることになっているので、司琅は八位の瑪瑙めのうを腰にいている。

「馬鹿野郎。昨日も明日も素敵だ、俺様は」

 真剣そのものな司琅の返答に、馬鹿野郎などと暴言を受けたにもかかわらず、紅緒は明るい笑い声をあげた。何笑ってんの……と少し苛立いらだちを含んだ声で司琅が呟く。

「ときに、しろちゃんはお若く見えますが、おいくつなのでしょうか」

 怪のひらたい手によって、奥からき出された土が、穴の入口付近にもこもこと盛り上がっていくのを面白そうに見つめながら、紅緒が尋ねた。

「三十五」

 眉一つ動かさず、また目線も地面の穴から離さず、司琅は答えた。

 紅緒は、穴を注視する目を少し見開いて、片頬だけでにっこりと打ち笑んだ。

「へぇ、随分と若作りでいらっしゃる」

 言い終えないうちに、突如として地面の穴から目にも止まらぬ速さで何かが飛び出し、紅緒の右手が宙を横薙よこなぎに素早く動いた。「あっ」と司琅が声を上げる。優雅に袖をひるがえして、握りしめた右手を顔の前に掲げた紅緒は、やっと地面から司琅へと視線を転じた。

「その程度の嘘では動じませんよ、しろちゃん」

 にこにこと笑う麗人の手には、今とらえた肉色の何かが握られている。海鼠なまこに近い姿形すがたかたちのそれは、拘束から逃れようとしているのか、実にいやらしい動きでうごめいている。

「ちっ、全敗じゃん。お前の目はどうなってんの」

 紅緒が差し出すそれをひったくって、謌によって怪封じの効果を施した巾着袋に、乱暴に突っ込む。

 今紅緒が捕らえたのは、誰かが誰かを害すために埋めた、呪いの謌が込められた怪の肉塊である。怪をにえとして作られるこの呪物じゅぶつが、ここ最近、宮城内で多く見つかっているとの報告があり、二人は調べて回っている。ここ朝源院ちょうげんいんでは二匹捕えた。宮城内の他の場所であと五匹捕らえている。それらが入った巾着袋は、外から見ても、もぞもぞと不穏に動いている。

 司琅の眷属けんぞくが肉塊を掘り当て、逃げ出そうとするそれを、穴の出口で二人が捕えるというごく単純な仕事であるのだが、この肉塊の動きが非常に速い。穴から出てくる瞬間を逃すと非常に面倒なことになるので、確実に捕えるために司琅と紅緒はどちらが先にこの肉塊を捕らえるか競っていたのだが、結果は紅緒の圧勝であった。動体視力が良すぎて、はしで泳ぐ金魚を捕まえる特技を紅緒が持っていることを司琅は知らなかった。

「それにしても多いですね。先日、この前庭で舞った者がこの辺りで倒れたと聞きましたが、これのせいでしたか」

「あー、あの主上しゅしょうの御前でやっちまったやつ。あの華家、ここで倒れたっきり酷い疱瘡ほうそうがでて、今も床から出られないらしいが、死ぬかもしんない、多分」

 なんとも軽い言い方をしているが、司琅の表情は険しい。このような呪物は、対象の者の屋敷の敷地や、通り道に埋められたりすることはあるものの、皇帝のおわす宮城内に埋められているとなると由々ゆゆしき事態である。それに、この手の呪物にしては珍しく、どうも特定の相手ではなく無差別に作用するように埋められているように思える。

「……取り敢えず燃やすか、これ」

 お前、やれ、と差し出された巾着を紅緒が受け取ろうとしたとき、背後から声が掛かった。

「紅緒さま」

「紅緒さま、何をなさっているの」

 鈴を転がすような軽やかな声に、振り向けば、出仕初日に麦湯むぎゆを振る舞ってくれた二人の女官たちであった。そろいのとき色の装束を着て、結った髪には萌黄もえぎ浅葱あさぎのかわひらこの髪飾りをそれぞれ着けている。紅緒は彼女たちとはあれからも何度も顔を合わせている。

「これは、お二人とも。春の女神がもうお見えになったのかと思いました。ですが、何故このようなところへ?」

 宴などが催されていない朝源院は、人気もなくうら寂しい雰囲気で、女官が用もなく来るような場所ではない。

「紅緒さまがここにいらっしゃると、別の者が噂しておりましたの」

「それで、急いで参りましたのよ」

 わずかに頬を上気じょうきさせた二人には、司琅のことはまるで見えていない様子なので、紅緒はすぐに先輩を紹介する。

「こちらは謌生の先達せんだつ、黒羽司琅殿。今日はこの方とともに、この辺りの怪を捕まえていたのです」

「怪を? その袋に入っているの?」

「まぁ、見てみたいわ」

 怪の入った袋に興味津々の様子の二人だが、それを持っている司琅がやけに静かだ。彼はどうやら女性への耐性がないらしい。耳が異様に赤い。私のことは何故平気なんだ、と純粋に疑問に思いながらも紅緒はそっと耳打ちする。

「しろちゃん、見たいそうですが」

「あ、あぁ」

 妙にギクシャクした動きで、口を開けた巾着を差し出す。恐る恐るその中を覗き込んだ二人の女官は、ぴたりと黙り込んだ。

 巾着の中は、割とおぞましめの有様ありさまで、女性であれば悲鳴のひとつもあげそうなものだが、何故かそれらから目が離せない。肉色のうごめくものたちからは、人間のありとあらゆる嫌な部分の気配がする。それは嫌悪感をもたらすと同時に、あらがい難い興味も抱かせる。ブヨブヨとした肉塊に目など無いというのに、これらがこちらに意識を向けているのを感じて、首筋がざわめいた。見ていたくないのに、視線を縫い止められたが如く、目を背けられない。今にも、それを、袋の中から掴み出して……。

 さっ、と何か視界を遮った。

「魅入られてはいけませんよ」

 暗闇の中、耳許みみもとで柔らかく静かな声がして麝香じゃこうに似た香りに包まれた途端、我に返った。たった今微睡まどろみから覚めた心地である。いつの間にか呼吸を止めていたらしく二人とも大きく息を吸う。

「しろちゃん、袋の口を閉めてください」

 紅緒が背後から抱くようにして両手で二人の目を覆っている。まぶたに感じているのは、麗人の冷たい掌なのだと認識して、二人の女官は別の意味で息を止めた。

「貴女たちは、感じやすい質のようですね」

 さらさらと衣擦れの音を立てて紅緒が離れると、女官たちはあたふたと意味も無く身繕みづくろいした。

「か、感じやすいだなんて……」

「あぁ、そ、そうです! 私たちこれを紅緒さまにと言われて持ってきたのでした」

 萌黄の髪飾りのほうの女官が、黒貂くろてんの美しい毛皮のたっぷりとした襟巻えりまきを、持っていた包みの中から取り出した。

「ど、どうしたのです、こんな……」

 紅緒がどもる程度には高級な品である。それを「まぁまぁ」と言いつつ、にこにこと二人で紅緒の首に巻いた。

「お似合いですわ!」

「流石ですわ!」

「それでは、わたくしたちもう戻らないと、叱られてしまいますの」

「紅緒さま、また遊んでくださいませ」

 声をそろえて褒めたたえると、止める暇もなくあっという間に二人は小走りに去っていった。

 紅緒は二人を呼び止めようとした手をゆっくりおろした。首回りが矢鱈やたらと暖かい。このような高価な品は、一介の女官から贈られることはあり得ないし、二人も「紅緒にと言われて持ってきた」と言っていたので、他の誰かのお遣いだったのだろう。とにかく、得体のしれない高価な贈り物ほど気持ちのおちつかないものはない。

 無言のまま、ちら、と司琅と目が合う。

「もらっとけば。誰からかわかんないけど。暖かそうだし」

「他人事だと思って」

 半眼で司琅を睨んだ紅緒は、次の瞬間、真顔になって司琅の耳許に口を寄せる。

「しろちゃん、今のお二人、決まった殿方はいらっしゃらないみたいですよ」

「はあぁ?! だから何?!」

「お気に召した様子でしたので」

「お気にッ、ばッ、お前」

 顔を赤くしている先輩に、片眉を上げて微笑んだ紅緒は、怪を燃やすための謌を口ずさみ始めるのだった。

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