蛇と蜜、そして金剛石 参

 治見斎長はるみのときながの屋敷は修羅場と化していた。

「おい! 今すぐに止めないと、 衛官えかんを呼ぶぞ!」

 斎長が簀子縁すのこえん欄干らんかんから身を乗り出さんばかりにして叫んでいる。

「何故です。をどうにかするようにとおっしゃったではないか」

 涼しい顔で応える紅緒の口許には笑みすら見える。玄梅は、紅緒の隣ではらはらしながらその遣り取りを見守っている。

「しかしっ、そのようなことをしたら二の姫まで死んでしまうではないか! 本末転倒よ!」

「でもまぁ、お望みのとおり怪もきちんと消し飛びますゆえ」

 気でも違ったか……とびんを乱した斎長が呆然と呟いた。

みつ、中に戻れ!」

 樒姫は簀子縁まで出てきて、凛と背筋を伸ばして座っており、おろおろと泣きそうな顔の女官たちが身を寄せ合うように彼女を取り囲んでいる。一方、紅緒と玄梅は、柑子こうじの植わっている壺庭に降り立ち、二十歩程の距離を保って斎長らに対峙している。

 『蜂の猫』は今や完全に覚醒した様子で姫の肩に上り、その無機質な艶の無い複眼で紅緒や姫や斎長たちの様子を窺っているように見える。

 落ち着いた様子ながら白い顔から更に色を失くした樒姫が、斎長に向かって力なく微笑む。

「御父様、この怪を私から引き離せぬなら仕方ありせぬ。樒はどちらにしろもう長くはないのです。なればこそ、私が死んだ後この怪が他の者に取り憑いたりせぬよう、一緒にはかなくなるというのも悪い話ではありませぬ。人の役にたてるのですから」

「ばっ馬鹿を申すな!」

 斎長まで泣きそうになっているのを見て、玄梅はうめいた。完全に、見事なまでに我々は悪役だ。紅緒に、隣から何があっても動くなと言われているので黙って突っ立っているが、玄梅も彼女が何を考えているのかわかって悪役にくみしているわけではない。

 さかのぼること四半時前、樒姫の膝の上の怪を、紅緒はじろじろと観察していた。猫の顔に黒い複眼と耳のかわりの触覚、鬱金色の襟巻きのような毛、熊蜂の様相をてい した腹部に異様に短い猫の手足、そして毒でもありそうな黒い針があるのが見える。立ち上がって近寄ってきた紅緒を威嚇するように、カチカチと音を立てているが、どこからその音を出しているのかわからない。

はねがある……」

 少しの驚きを以て紅緒が呟いた。背に生やした限りなく薄く透き通った鼈甲鼈こう色の一対の翅は、やはり蜂に似ている。しかし、その薄い翅で果たしてこのずんぐりした怪が飛べるものなのだろうか。

「樒姫、もう少し前へ出てきていただけますか。そちらは暗くてよく見えないので、出来れば簀子縁すのこえんまで。これが飛ぶところを見たことがありますか?」

 樒姫は小さく首を傾げて思案しながら、紅緒のすぐ前まで膝行しっこうしてきた。室に籠もることの多い華家の女性は、室内では膝立ちで移動することが多い。

「初夏ころまでは、時々飛んでいたように思います」

「飛べるのか。初夏ころまではということはつまり、近頃はあまり飛ばない、活発に動かないということでしょうか」

 訊ねながら、紅緒は流れるように樒姫の頬に顔を寄せた。あまりの蛮行に玄梅は思わず声を上げそうになったが、口を手で塞いで何とか耐えた。病弱で可憐な深窓しんそうの姫君と、少し悪い笑みを浮かべた美男子が寄りそう図がそこにあった。女官たちは、すわ、一大事! と目を見開いてそれを凝視している。いい意味で。樒姫が頬を染めて狼狽えているのが、またよし、とか思っているご様子なので、玄梅は少し安堵する。

「あ……は、はい。秋口からはほぼずっと、このように私の膝の上に」

「ふむ。ときに、この怪、ずっとこちらを睨んでいるようなのですが、もしかして人語を解すのでしょうか」

「おそらくは。退治しようなどと口に出しただけで今のようにカチカチと怒ります」

 成程、と呟いた紅緒は、今度は樒姫のふわふわと波打つ飴色の髪を一房手に取り、自らの顔に近付けた。待雪と呼ばれていた女官が「ひぃっ」と小さく悲鳴を上げた。いい意味で。赤くなって固まっている樒姫がいっそ可哀想である。

「ときに樒姫、貴女からはとても甘い香りがしますが、肌や髪の香りではないようです。心当たりはありますか?」

「え? いいえ、甘い匂いの香はめておりませぬ。待雪、そうでしょう?」

「はい、樒姫様は天香てんこうをご愛用ですので。私共には姫様から甘い香りというのは感じられませぬ」

 天香は花のような香りの香だが、甘さより瑞々しさが勝る透明感のある香りで、玄梅も感じている樒姫から漂う甘い濃密な香りとは全く異なものである。

「天香か。樒姫によく似合っていらっしゃる」

 紅緒はにこりと片頬に笑みを浮かべてそう言うと、そっと樒姫から離れる。こっそりと小さく息を吐く姫をよそに、紅緒は玄梅にさっと目配せをした。お前は香りを感じるか? との目配せだ。玄梅も目で頷いた。それを受けて紅緒はしばし考え込んだ。この香りは、どうも樒姫の内からこぼれ出ているように思える。ということは、彼女の魂魄に関係している可能性が高いのではないだろうか。であれば、普段魂魄の存在をあまり意識しない常人には感知し難い。常に魂魄に触れて生きている者たち、つまり、謌を以て魂魄の遣り取りをするうたよみや、神や怪などのモノはそれを感じ取ることができる。

 紅緒は再び樒姫に訊ねる。

「他に、誰かから甘い香りがすると言われたことは?」

 樒姫には覚えがなかったのか、心許ない表情で待雪を振り向いた。待雪は眉根を寄せて、懸命に記憶を辿っている。

「……そう、そうです、確か姫様がお産まれになったときに、出産に際して怪除けの祈祷をしていたうたよみ殿が確か、そのようなことをおっしゃっていました。『甘露かんろの如き香りがする御子だ』と。その時は何かの比喩かと思っておりましたが……」

「そのうたよみは、何か姫に怪除けの謌を施したりはしなかったでしょうか? もしくは、護符のようなものを渡したりだとか」

 待雪は戸惑いながらも首を横に振った。紅緒は相変わらずにこにこしていたが、極小さな声で「職務怠慢よの」と独りごちたのを玄梅の耳だけが拾った。

「ありがとう、待雪殿。さて、玄梅、ちと耳を貸せ」

「はい?」

 紅緒が樒姫たちから離れ、無造作に欄干を越えて壺庭に降りた。不安そうにそれを目で追う女官たちに愛想笑いを残して、玄梅も慌てて後を追って庭に降りた。すぐに紅緒が頭を寄せ、声を潜めて問うてくる。

「どう思う?」

 どう思うって……。

 玄梅は顎に手を当てた。紅緒と樒姫たちの遣り取りを聞いて、何となく状況が読めてきた玄梅だが、紅緒がどうするつもりなのか、というか果たしてどうにかできるのかは全くわからない。

「やはり、一度寮に戻って状況を報告したうえで、宇賀地様にお伺いを立てたほうがいいのではと思いますが」

「それでは時間がかかる。樒姫はかなりの魂魄をあれに奪われているようで、もう限界であろう。できる限り早くあの怪を彼女から引き離さねば」

「ですが魂魄に取り憑いた怪を無理に剥がすと、その者の魂魄を損なうことに……」

 玄梅は不安げな顔でちらりと樒姫を窺ってから、紅緒に目を戻したところで口をつぐんだ。紅緒の翡翠色の双眸そうぼうがこちらをじっと凝視していたからである。

「……何ですか」

「お前、廿李ととりよな?」

 急に真顔で幼名を呼ばれて面食らったが、何とか「そうですが」と応える。途端に紅緒はいつものように破顔した。何だか嬉しそうだ。

「そうか。私がお前を間違うはずがないものな。幼い頃とは魂魄の印象が違うておったゆえ、一応確認をな。それに、お前、宇賀地殿の前で得意な謌を偽ったであろ。だから一応な」

 玄梅はピクリ、と目許を引き攣らせた。魂魄の印象だと? 最後に紅緒と会ったのは彼女がかなり幼い頃だ。その時すでに他人の魂魄のたちを読んでいたというのだろうか。謌の才能が発現しても、他人の魂魄を読めるようになるには、二、三年かかるものだ。一体彼女はいつ頃から……。

 すっと玄梅の目が細くなる。

 誤魔化せたと思ったのに。 

「まぁ、そう怖い顔をするでない。それで? それだけ綺麗に抑えているからには、自力ではなかろう。護符か、謌か。まぁ、謌だといちいち解くのが面倒だろうから、護符とみた……ん? どこだ?」

 若干殺気立った玄梅の雰囲気を毛ほども意に介していない様子の紅緒が、急に玄梅の装束の襟元に手を突っ込んだ。予測できない動きに玄梅は固まり、ひやりとした手がごそごそとうなじや鎖骨あたりを探り始めたのをうっかり許す。再び女官たちがざわつき始めた。色めき立つ方向に。

「おい、どこだ」

 さわさわと耳朶じだ探られ、二の腕と鳩尾みぞおちをなで上げられ、果ては腰回りを辿たどられて、はっと我に返る。

「ちょ?! やめてくださいっ、紅緒、うわっ! やめっ、吾丸様!」

「幼名はいいが様は止せ」

「はっ! すみません、幼少のころに貴女と遊んだ際の記憶が蘇って、つい」

「あぁ、あの遊びな。懐かしいのう」

 どの遊びだろう。二人以外の全員が知りたかったが、全員空気を読んで聞かなかったことにした。

「それより巫山戯ふざけている場合ではない。お前の護符はどこだ」

 じっと見つめてくる紅緒に、迷うように逡巡していた玄梅だが、やがて「あぁ……もう」と呟くと諦めたように首を左右に振って右手を差し出した。人差し指に、艶のある黒檀こくたんの環がはまっている。

「これですよ」

「あぁこれか」

 紅緒はそれを見るなり、なんの躊躇ちゅうちょもなく、予想外の素早さを以て至極しごく雑に玄梅の指から抜き取った。最早玄梅は声も出ない。途端に、彼は自身の内から慣れた気配がこぼれ出るのを感じた。どろりとした、生き物が本能的に避けたくなるような危険な色と臭気の気配。嫌で嫌で、自らふたをした己の魂魄の感触だ。

「おぉ! それよ、それ。お前らしくて大いに安心する」

「紅緒……」

 隠しごとを強制的につ無造作に駄々漏れにされた衝撃に、半ば茫然ぼうぜんとしている幼馴染をよそに、紅緒はちらりと猫の蜂を窺う。かの怪は、ざわざわと触角をうごめかせてこちらを食い入るように見ている、ように見えた。実際は視点の読めない複眼のせいででよくわからないのだが、紅緒は満足そうな様子で玄梅に向き直って再び声を落とす。

「いいか、私から二、三歩離れて立て。そこから絶対に動くなよ。何があっても微動だにするでないぞ。何があっても」

 これ以上自分に一体何が起こるというのだろうか。不穏な指示にも、やや自暴自棄気味の玄梅は素直に「はい」と答えて言われたとおりに紅緒から三歩離れた。紅緒はいつもどおり口の端に端正な笑みをのせて頷いた。

「よし、では……うぅむ! そうだなぁ、むを得ないな。魂魄を質に取られているのならば」

 急に大きめの声で言いながら、紅緒は、簀子縁に出てきている樒姫たちを振り返った。そして極爽やかにこう言い放ったのであった。

「樒姫ごと焼くしかありませんな」




 大体このように唐突且つお手軽に冒頭の修羅場に至るのであった。

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