蛇と蜜、そして金剛石 壱
「蜂の猫が出る」
「蜂の……猫、でございますか」
相対する玄梅は眉をひそめかけて思い止まった。相手は自らよりも高位な身分である。隣では姿勢よく座った紅緒が、いつも通りにこにこと座っている。華家の男は、まるでそこにそれがいるかのように中空を見つめて、ぼそりと呟いた。
「否、猫の蜂か」
端正な唇に笑みを
「猫の蜂とは、それは一体どういった
「猫のような蜂よ。
口では依頼をしながらも、二人の謌生を
「では、これから二の姫様のお部屋に参っても?」
「致し方なし」
それでも不満そうに鼻を鳴らした斎長は閉じた扇をひらひらと振って、二人に退出を命じた。
「謌寮にも困ったものよ。うたよみではなく謌生なんぞを寄越すとは、まったく……」
背後で聞こえる大きめの独り言を、聞こえぬふりで、玄梅と紅緒は
歩きだしてしばらく経ってから、紅緒がくすくすと笑い出したので玄梅はぎょっとした。
「どうしましたか?」
「いや、なに。斎長殿、いや、斎長様が私に全く気づかなんだのが面白うて。先年、我が家で催した春の宴で話までしたのに」
「はぁ、まぁそれはそうでしょうね。大体貴女は元来人前に顔など絶対に出しませんし、斎長様程度の……斎長様の位では、お話をしたといってもせいぜい女官を介してでしょう」
途中で前を行く女官の様子を窺ってから、更に声を低くした玄梅に、紅緒は「確かに」と頷く。
やがて東の対に渡る
「それにしても蜂の猫とは」
玄梅が女官に聞こえぬ程度に溜息を吐いた。
「何なのでしょうね。斎長様ももう少し教えてくださってもよいのに」
「娘が妙な怪にとり殺されそうだ」と治見斎長が謌寮に訴えてきたのは二日前らしい。新人謌生たちは先日七日間の座学を終え、その退屈さに耐えかねた宇賀地の指導により、実習に移ったところだった。二人一組となり、謌寮への簡単な依頼を処理、もしくは調査するという実習である。因みに二人組は日替わりで組み替えられる。と言っても新人は五人であるので、余った一人は先輩の謌生と組むことになっている。
玄梅と紅緒は今日が初めての実習であるが、本件についてはとにかく斎長から謌寮にもたらされた情報が少なすぎるので、とりあえずの調査に派遣されたのだった。それ故に玄梅も紅緒も特に気負った様子はない。
「心当たりはないことはない」
呑気な口調で紅緒が言った。
「虫であり獣であるような外見の怪を見たことがある。が、猫や蜂に似てるかと言われると確信が持てんな」
「あまり聞きませんが、もしかしたら、見た目がそういった類の怪が何種か存在しているのかもしれませんね」
玄梅が顎に手をやって思案していると、ある
「姫様、謌寮より謌生が参りました」
案内してきた女官が、極小さな声で室内に声をかけると、さらさらという衣擦れの音の後に、更に小さな声で応答があった。紅緒たちには聞き取れないが、女官にはわかるらしく、少し渋ったあとに「わかりました」と応えると、静かに御簾の内に入っていった。ほどなく、するすると御簾が上げられ、奥の蔀戸も開けられようとしているのが見えた。御簾の奥には二人の女官が控えている。
ゆったりと、室内から甘い匂いが漂ってきたのに玄梅が片眉を上げた。
「……謌生さま」
蔀戸の奥には薄紅色の
「さま、と呼んでいただくような身分ではありませぬ。私は紅緒、こちらは玄梅。どうぞ、そのように」
紅緒が柔らかく応えた。几帳の奥から、息を呑む気配がした。几帳というのは外側からは奥が見え難いが、あちらからは案外こちらが見えるものだ。恐らく紅緒の美貌が目に止まったのだろう。手前に控える女官たちも、わからないほどさり気なく彼女を盗み見ている。
「紅緒、玄梅。どうか
許しを得て、御簾と蔀戸をくぐり、不満顔の女官の前に座る。男性をここまで
だが、ここまで近付いて几帳の向こうの二の姫は時折苦しげに細い息を吐いているのがわかった。思ったより深刻な状況なようだ。
姫様、と紅緒が呼びかけると、少し笑う気配がした。
「
勿論、
「姫様! 下々にそのように
また、か細い吐息が聞こえた。
「どうせ私はもうすぐ事切れるのです。私のために来てくれた者にくらい自由に名乗りたい」
「死にませぬよ。私共がさせませぬ、絶対に。な、玄梅」
にこにこと笑う紅緒に急に話を振られて、玄梅は
玄梅はとりあえず視線に『余計なことしないで』という訴えをのせて紅緒に送る。が、反応が無いので口に出す。
「紅緒、嫌な予感がするのですが、気のせいですよね」
「ですが、死なぬとはいえ、いただいた可愛らしい御名は返せと言われてももうお返しませぬよ、樒姫」
十人のうち十人が色めき立つような、艷やかな笑みを几帳の奥に向けた紅緒が玄梅を黙殺した。どうやら気のせいではないらしい。急に帰りたくなった玄梅は白目を剥いた。
一方、先程目くじらを立てていたはずの女官たちは「まぁ!」などと言って頬を染めたりしている。樒姫からも安堵したかのような小さな笑いが漏れた。
「さて、とはいえまずは怪がどういったものかを知らねばなりませぬ。樒姫、今そこに
「……はい。
「はい」
几帳の布を
「おや、これは」
紅緒の驚きの声にはわずかに笑いが含まれていたので、怪訝に思った玄梅はちらりと樒姫の方を見た。
果たしてそこには、小造りな
「あれは……猫?」
よく見ようと目を
「……いや? 蜂、かな」
今度は紅緒が囁いた。
今や完全に開いた怪の眼を凝視して、玄梅は小さく呻く。
その奇妙な怪は、穴のように黒い、大きな複眼を持っていた。
何故、こんなことになったのだろうか。
高鞍鴉近は、水が滴る髪を乱暴にかきあげた。仲秋の抜けるような青空の下、濡れそぼって氷のように冷えた衣が体に張り付く。手足の先の感覚は結構前から無い。目の前の寒々しい湖を眺めながら、一瞬、熱い湯を張った湯舟に意識を飛ばした。あぁ、一人で来ていたなら、こんなに苦労することはなかっただろうに。
「
鋭く呼ばれて我に返ると、心中で悪態をつき、口では謌を詠む。地響きのような不穏な音が湖から鳴り始め、徐々に大きくなっていく。水面にはざわざわと
『
対岸には派手な色目の装束を着た男が謌によって緻密に巨大な幕状の網を編み上げていくのが見えた。複雑に絡み合った
対岸の先輩がこちらを指差して何か怒鳴っているがよく聞こえない。どうせ「しくじったら殺す」とか何とか言っているのだろう。これが三回目なのだから、鴉近とてもう失敗したくない。失敗の原因は二人の呼吸がなかなか合わないことにある。まぁこの先輩と出会って開口一番に、自分一人で十分なので寮で待っていて欲しいなどと正直に言ってしまった自分が悪いのだが。あれから彼は鴉近のことを名ではなく宿能生と呼ぶ。能力を鼻にかけていけ好かない奴だと思われたのだろう。
しかし、
眼前に迫る銀色の
「よっし、大漁大漁!」
網を張っていた謌生が、ゆっくりと空を掴むような仕草をした。すると、網は魚を包み込むように隙間なく閉じた。鴉近は彼のもとに駆け寄り、大きく膨れ上がった網を見上げる。
「どうですか?」
「まぁ、待て。今探してやる」
「んー、来い来い来い来い来い来い来い……」
よくそんなことできるな、と生き物を苦手とする鴉近はげんなりした。
「来い来いこいこ、来たー!!」
叫んだ司琅が、ずぼっと勢いよく魚団子から手を引き抜き、黒いものを地面に叩きつけ、すぐさまその一部を踏みつけた。
果たしてそれは、
「これは……この小さな怪があの量の魚を操っていたのですか?」
「そう。こいつがみんなの目になっていたんだなぁ」
「はぁ」
よくわからないが、とにかく
「宿能生もまぁまぁ頑張ったじゃん。ほんとは一回で成功させてほしかったけど。ご褒美としてこの魚、持って帰れば。なかなか美味いから」
司琅が指を鳴らすと、均衡をもって張りつめていた網がくたりと張りを失い、はらはらと解けた。結果、中に詰まっていた
「全ては無理です」
「そ? じゃあまぁ残りは湖に戻すか……って、お前なんでそんなぐしゃぐしゃに濡れてんの?! 一緒に歩きたくないから今すぐ乾いてくんない?」
「……はい」
何故、こんなことになったのだろうか。
真面目な鴉近は、魚を拾いながら、深い溜息を吐いた。同時に火を
「早くうたよみになりたい……」
今日は高鞍鴉近の厄日である。
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