閑話 ある日の深彌草邸
今、
『しきみ物語』と題されたその物語の作者は
もちろん、
「ねぇ、最後までお読みになった?」
「
「あなたはどの方がお好み? 私はね、
「私は
「あら、ちょっとお待ちなさい。容姿良し、身分良し、何事においても完璧な
深彌草の一人娘、紅緒の自室では、数人の女官や女童が頬を染めて口々に『しきみ物語』に登場する好みの殿方を挙げては、分かり合ったり分かり合わなかったりしながら、優雅に、そして熱く語り合っている。
そんな彼女たちに
「こら、あなたたち、少し声が大きいわ。はしたない……あら? 姫様はどちらに?」
静かに
玉露の心配げな声音とは対照的に、一人の女官がのんびりとした口調で応じる。
「姫様は、
「そう、ありがとう」
「玉露さま、玉露さま」
「もう『しきみ物語』はご覧になりましたよね。どの殿方がお好みですか」
この物語の題名は、主人公の追いやられていた
正直、玉露はどちらかというと主人公の過激さのほうが気になってしまって、どの殿方が好みか、と問われてもぴんとこないのだが、「そういえば」と頬に手をやる。
「何といったかしら……あの、
「
胸の前で両の手を握り合わせて嬉しそうに声を上げたのは、さきほど
「その、花房様とやらが誰かに似ているようで気になって……」
「おや、
不意に耳元でした甘やかな声に玉露が、びくり、と
片手に
「はてさて、花房とかいう男には心当たりが無い……私の大切な
「ちちちち違います姫様、物語のなかの殿方ですわ!」
「もう姫様、
驚きを含んだ玉露の
「た、確かに、そうかもしれません」
「お言葉の選び方や
「それに、ご身分が高貴であるところも……考えれば考えるほど似ていらっしゃいます」
女官たちが
「して、花房とかいう人物は
花房を推している女官は、急に紅緒に話しかけられて胸を
「は、はい。高い位の華家の出で、
幼馴染、と口の中で呟いた紅緒は、つい、と
やがて思考から
「
「えぇ、台詞ですか。少しお待ちになってくださいまし。今ひとつに
「できれば、幼馴染相手の言葉であればなお良い」
「でしたら、そうですね」
第五巻、宮中で
「『こちらを見ろ。お前の瞳が私を映していないことを、これほど辛く思う日が来るとは思わなかった』」
女官によって
紅緒はその台詞を何度か
「ありがとう。使うてみるとしよう」
え、いつ、誰に、と全員が心中
「ところで、玉露の気に入りそうな
揉み手でもしそうな雰囲気の紅緒が玉露の顔を覗き込む。女官や女童たちは新たな話題の
「姫様、私はそんなことよりもご自分の幸せをお考えあそばせと申しましたのに」
上機嫌な紅緒は、非難がましい言葉を無視して、
「
いや、「良し」でなくて。
「どうだ?」
いや、「どうだ?」でもなくて。
「
「
「おつとめからお戻りになったら、ぼくのところに来てくださるよう、きのうお願いしたではありませんか」
細い指で一房、柑子を
「参りましたよ。毬兎は可愛らしくお昼寝されていましたので、そっとしておきましたが」
「そんなの、おこしてくださいよ!」
遅れて姿を現した
「姫様、申し訳ありません、
「
髪を上げて成人するまでにはまだまだ間があるが、一応今のうちに言っておかないと、と紅緒に思わせる勢いが毬兎にはある。そして、言っても無駄なのではないだろうかと思わせる
「姉上は、お顔をかくさずにお外に出ていらっしゃるもの。男のかっこうをして。だから大きくなってからもお顔を見てもべつによいのです」
「……あ、はい」
特に何も言えなくなった紅緒は、何故か
「姉上は、ぼくのことがお嫌いですか? だからお戻りになっても、ぼくのことを起こしてくれなかったのですか? ぼくは姉上のこと大好きなのに」
桃のような頬を
紅緒は溜め息をひとつ
「わかりました。明日はちゃんと起こしましょう」
「ぐす……ほんとうに? きっとですよ」
はいはい、と応える姉を、母性と良心に訴えかける
「では、明日はいっしょにつれて行ってください……ぐす」
「ほらきた。駄目ですよ。嘘泣きも止めなさい」
途端に、
「だって、姉上にわるい虫がついたらいやです。いっしょに行ってみはっていないと、いつどこの馬のほねとも知れないやつにかっさらわれるか、わかりません」
「誰にそのような言葉を習ったのですか……」
「父上ですが」
子どもらしからぬ
すでに手遅れ気味な弟の行く末を
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