閑話 ある日の深彌草邸

 今、皇都こうとではある物語が大流行している。

 『しきみ物語』と題されたその物語の作者は匿名とくめいの女性である。継子ままこいじめにいつつも持ち前の聡明そうめいさでもって懸命に生きる一人の女性の成功譚せいこうたんで、起伏きふくに富んだ彼女の人生が涙あり痛快さありで読みごたえがある作品だ。しかし、この物語の流行のきもは他にある。主人公をめぐる幾人いくにんもの男性との恋模様が大変に、それはもう大変に素晴らしいともてはやされているのである。登場する若い貴公子きこうしたちは、それぞれに特徴的で多彩たさいな性格や外見をそなえており、読めば必ず一人は気に入りの殿方とのがたが見つかるともっぱらの評判である。主人公に辛辣しんらつな言葉を浴びせつつ時に優しい一面を見せたり、心を病むほどに主人公を愛してしまったり、身分違いゆえにじっと想いを心に秘めていたり、双子だったり、年下だったり、それはもう多種多様である。更に彼らの心情の描写が、やけに詳細だったり、あえて思わせぶりに目を伏せる描写のみであったりの絶妙な筆致ひっちで、世の華家かげの娘たちは胸をつらぬかれ、深いため息をき、顔をおおって天をあおいでいる。誰とも知れぬ筆者に多大な感謝を捧げながら。

 もちろん、深彌草ふかみくさていつとめる女子たちも例外ではない。彼女たちは、本人はあまり興味がなさそうな年若き主人に強請ねだって、全二十巻を手に入れてもらい、それはそれは大切に回し読みしている。おかげでここ最近、女官にょかんから女童めのわらわ下女げじょに至るまで、顔を合わせればその話題で持ち切りである。

「ねぇ、最後までお読みになった?」

嗚呼ああ、まだなの、最後の一巻がなかなか回ってこなくて」

「あなたはどの方がお好み? 私はね、夕凪ゆうなぎきみ。物静かでありながら、ふとした時に見せる情熱がたまらないの」

「私は名取なとりよ。主人公を幼い頃から見守っていた従弟いとこ殿なんて、それだけで心が躍るわ」

「あら、ちょっとお待ちなさい。容姿良し、身分良し、何事においても完璧な花房はなぶさ様を差し置いて、そんな」

 深彌草の一人娘、紅緒の自室では、数人の女官や女童が頬を染めて口々に『しきみ物語』に登場する好みの殿方を挙げては、分かり合ったり分かり合わなかったりしながら、優雅に、そして熱く語り合っている。

 そんな彼女たちにあきれた視線を送りながら、妻戸つまどをくぐって入ってきたのは玉露たまつゆである。さら柑子こうじを盛ったものを持っている。

「こら、あなたたち、少し声が大きいわ。はしたない……あら? 姫様はどちらに?」

 静かにさらを置きながら、はしゃぎ過ぎを軽くいさめた玉露たまつゆは、つい先ほどまで暇そうに琵琶びわいじっていたはずの主人の姿が見えないことに眉をひそめた。一般的な華家かげの姫とはまるで異なる気質を持っている紅緒である。部屋から急に消えたとて、玉露も基本的にはそこまで慌てることもない。しかし先日、珍しく宮城きゅうじょうからの帰りが遅くなった日があり、それ以来紅緒は、思い悩んでいるというほどではないが、時折何かをじっと考えていることがある。それに気づいた玉露は、主人が何を考えているかはあずかり知らぬが、それとなく彼女の言動に注意を払うようにしているので、少し敏感になっている。

 玉露の心配げな声音とは対照的に、一人の女官がのんびりとした口調で応じる。

「姫様は、山茶花さざんかを見てくるとおっしゃってお庭に降りて行かれました。念のため、ひとり御供おともしておりますわ」

「そう、ありがとう」

 一先ひとまず小さく息を吐いた玉露のもとに、すすす、と二人の女童めのわらわが膝を進めてきた。

「玉露さま、玉露さま」

「もう『しきみ物語』はご覧になりましたよね。どの殿方がお好みですか」

 つぶらな瞳をきらきらとさせて首を傾げている女童を無下むげにすることもできず、玉露はさして思い入れをもっていない物語の内容を思い出す。

 この物語の題名は、主人公の追いやられていたやしきすみ、狭く日当たりの悪い部屋から見えるしきみの木が由来である。そのしきみからとった毒を御守りとしてふところに忍ばせることで、継母ままはは対峙たいじする勇気を得るという一癖ある主人公が、持ち前の才覚をもって義弟や父親に様々な助言をすることでかたむきかけた家を救い、その間たくさんの男性となんやかんやあって最後には、外国とつくにに出て官吏かんり登用の試験に挑んだり、厳しい修行を経て武官になってみたり、急に神命を受けて打倒暗君を掲げて民を率いる反乱の女神と呼ばれたりする、なかなかに前衛的な物語である。この気宇壮大きうそうだいが二十巻に収まったということが、最も作者の手腕しゅわんすところと言えるのではないだろうか。

 正直、玉露はどちらかというと主人公の過激さのほうが気になってしまって、どの殿方が好みか、と問われてもぴんとこないのだが、「そういえば」と頬に手をやる。

「何といったかしら……あの、無闇むやみやたらに女をときめかせる言葉を口に出す、何故か途中から幼馴染おさななじみの男と怪しい感じになった顔の煌々きらきらしい殿方がいたでしょう」

花房はなぶさ様ですね! 流石さすがは玉露様、お目が高い」

 胸の前で両の手を握り合わせて嬉しそうに声を上げたのは、さきほど花房はなぶさという登場人物の名をげていた女官である。あぁ、そんな名前だったわ、と頷きながらも、玉露は首をひねる。

「その、花房様とやらが誰かに似ているようで気になって……」

「おや、たまは私ひと筋だと思うておったのに」

 不意に耳元でした甘やかな声に玉露が、びくり、と硬直こうちょくしている間に、衣擦きぬずれの音ともにその背後から現れたのは、彼女たちの主人、紅緒その人であった。恨みがましい言葉とは裏腹に、瑞々しい翡翠ひすい色の瞳は興味深げに輝いている。今日は青藤あおふじ色の男物の差袴さしばかまをつけ、内衣うちころもを何枚か重ねただけのくつろいだ姿であるにもかかわらず、そのしどけなさがむしろ洗練されてうるわしく、ついさっきもその姿を見ているはずの女官たちは、それでもうっとりと溜め息をかずにはいられないのであった。

 片手に斑入ふいりの花をつけた山茶花さざんかを一枝げている紅緒は、艶やかに笑うと少し首を傾げた。肩のあたりで緩く結ってあるだけの髪がさらさらと流れる。

「はてさて、花房とかいう男には心当たりが無い……私の大切なたまの心を捕らえておるのはどこの誰かの」

「ちちちち違います姫様、物語のなかの殿方ですわ!」

 清冽せいれつな香りのする小枝で顎先を辿たどられて、玉露は何ら生産性のないときめきを感じながら、小雀こすずめのごとくどもりながら弁解する。いや、弁解する必要などないのでは? と気付いたところで、紅緒が、あはは、とてらいなく口を開けて笑った。玉露は、途端にじっとりとした半眼になる。

「もう姫様、揶揄からかわないでくださいまし……あぁ、花房が似ているのは姫様だわ」

 驚きを含んだ玉露のげんに、片眉を上げながら腰を下ろした紅緒に全員の視線が集中する。

「た、確かに、そうかもしれません」

「お言葉の選び方や仕草しぐさもそうですが、御髪おぐしや顔立ちなんかの書きようもなんだか、ねぇ」

「それに、ご身分が高貴であるところも……考えれば考えるほど似ていらっしゃいます」

 女官たちが不躾ぶしつけにじろじろと眺めても、紅緒は特にとがめることもなく、女童めのわらわ山茶花さざんかを手渡しながら「お前によく似ておる」などと微笑んでいる。

「して、花房とかいう人物は如何様いかような男か」

 花房を推している女官は、急に紅緒に話しかけられて胸をとどろかせた。え、つまり私の推しは姫様ということ? という思考のもと、本人がすぐそこにいるという事実に、新しい喜びを見出しそうになっていたところで紅緒に話しかけられたものだから、ややしどろもどろになりながら答える。

「は、はい。高い位の華家の出で、近衛官このえかんを務める美男子でございます。初めは主人公に言い寄っていたのですが、途中から気弱な感じの幼馴染となんというかその……良い感じに……」

 幼馴染、と口の中で呟いた紅緒は、つい、と虚空こくうを見上げ何やら思案している。物語の作者は名を明かしておらぬとか、と紅緒に尋ねられて、一同は頷く。

 やがて思考から帰還きかんした姫君は、端正な唇に悪い笑みを浮かべた。

成程なるほど、成程。では、その花房様のお前の好きな台詞せりふをひとつ教えてはくれぬか」

「えぇ、台詞ですか。少しお待ちになってくださいまし。今ひとつにしぼります」

「できれば、幼馴染相手の言葉であればなお良い」

「でしたら、そうですね」

 第五巻、宮中でもよおされた春の行事の席にて。舞姫に選ばれた主人公の美しい姿に視線がくぎ付けになっている幼馴染への言葉。嫉妬しっとを添えて。

「『こちらを見ろ。お前の瞳が私を映していないことを、これほど辛く思う日が来るとは思わなかった』」

 女官によって情感じょうかんをもって再現された台詞に、女童が黄色い声を上げ、玉露は少々呆れた様子で女官たちがきゃあきゃあと盛り上がる様を見ている。

 紅緒はその台詞を何度か反芻はんすうすると、にっこりと笑って礼を述べた。

「ありがとう。使うてみるとしよう」

 え、いつ、誰に、と全員が心中狼狽うろたえているのを知ってか知らずか、紅緒は嬉しそうな顔で別の話を始めてしまった。

「ところで、玉露の気に入りそうなうつつの殿方にすでに目星をつけておってな」

 揉み手でもしそうな雰囲気の紅緒が玉露の顔を覗き込む。女官や女童たちは新たな話題の投入とうにゅうに色めきだった。しかし、まさかその約束が生きていると思ってもいなかった玉露は、一瞬もくした後で眉をしかめる。

「姫様、私はそんなことよりもご自分の幸せをお考えあそばせと申しましたのに」

 上機嫌な紅緒は、非難がましい言葉を無視して、さらの上の柑子こうじに手を伸ばす。小振こぶりで酸味の多い柑子だが、庭に植わっているまだ細い木に、今年やっと実った食べられる程度に酸っぱい実だ。弟は実がなるのをとても楽しみにしていた。丁寧に皮をいていきながら、楽しそうに紹介を始める。

謌生うたのしょうの指導役を務めているうたよみ殿でな、宇賀地うがち殿といって謌寮うたのつかさではかなりの有望株ゆうぼうかぶとみえる。上背うわぜいがあって熊のようで無精髭ぶしょうひげを気にしていないようだが、そもそもの顔立ちは悪くない。良くも悪くもおおらかな性格だが、頼りになる。生家せいかは地方の社守やしろもりらしいが、弟が継いでいるらしいので、良し」

 いや、「良し」でなくて。

「どうだ?」

 いや、「どうだ?」でもなくて。

 がたいといった表情で米神こめかみに手をやりながら、かぶりを振った玉露が「姫様」と言いさしたところで、軽い足音が部屋に近づいてくるのが聞こえた。途端に、部屋に満ちるややくつろいだ雰囲気が霧散むさんし、女官たちは、さっと居住いずまいを正す。

姉上あねうえ!」

 けてきた勢いのままに几帳きちょうをめくって現れたのは、深彌草ふかみくさ家の長男、毬兎まりとである。よわい六つにして、すでに出来上がっている端正たんせいな顔立ちの中で、紅緒と同じ明るい翡翠ひすいの瞳には、険しい色が浮かんでおり、桜色のいとけな口許くちもとは真一文字に結ばれている。どうやら走ってここまで来たようだが、左右に振り分けて結っている母親譲りの白橡しろつるばみ色の真直まっすぐな髪が少し乱れているのも、実に可愛らしい。後から急いで追ってきている足音は彼付きの女官と乳兄弟だろう。

毬兎まりと、どうしました。かように急いで」

 柑子こうじ一房ひとふさ口に入れながら、のんびりと微笑むうるわしき姉に、毬兎まりとは恨みがましい視線を送った。そしてかしずいている玉露たち女官の間をって、紅緒の前まで来ると小さな体で胸を逸らして、きょとんとする姉を見下ろした。

「おつとめからお戻りになったら、ぼくのところに来てくださるよう、きのうお願いしたではありませんか」

 細い指で一房、柑子をまんで、毬兎の口許くちもとに持っていきながら、紅緒は心外だという表情を作る。

「参りましたよ。毬兎は可愛らしくお昼寝されていましたので、そっとしておきましたが」

「そんなの、おこしてくださいよ!」

 地団太じだんだを踏んで抗議こうぎする割には、差し出された酸っぱい果実を素直に口に含んだ弟に、紅緒は悟られないように浅く溜め息をく。昨日、紅緒の帰りがつねよりかなり遅かったせいで、こうなっている。元々、姉へのなつき方が異常な弟なのだ。まぁこうなるでしょうね、と言いたげな視線を女官たちから感じる。

 遅れて姿を現した毬兎まりとと同じ年頃の男子と毬兎付きの女官が、申し訳なさそうに紅緒に低頭ていとうした。

「姫様、申し訳ありません、前触まえぶれもなく……」

い良い。毬兎まりと、いくら身内であっても急に女性の部屋に入ってはいけませんよ。お前が大きくなればこのようにじかに対面してはいけないのですからね」

 髪を上げて成人するまでにはまだまだ間があるが、一応今のうちに言っておかないと、と紅緒に思わせる勢いが毬兎にはある。そして、言っても無駄なのではないだろうかと思わせるかたくなさもある。げんに彼は今、珍しい姉のお小言にも全くひるむことなく、可愛らしく口をとがらせている。

「姉上は、お顔をかくさずにお外に出ていらっしゃるもの。男のかっこうをして。だから大きくなってからもお顔を見てもべつによいのです」

「……あ、はい」

 特に何も言えなくなった紅緒は、何故かめるような視線を向けてくる玉露を見ないようにしながら、柑子を口に入れた。我が弟ながら頭と舌の良く回る子だな、本当に六つか、などとぼんやり思っていると、不意に目の前で毬兎まりとの顔がくしゃりとゆがんだ。

「姉上は、ぼくのことがお嫌いですか? だからお戻りになっても、ぼくのことを起こしてくれなかったのですか? ぼくは姉上のこと大好きなのに」

 桃のような頬を薄紅うすべにに染めて、色素の薄いまつ毛にふちどられた大きな目を、ろうかん翡翠もかくやというほどにうるませた毬兎が、姉の両手を握りながら切々せつせつと訴える姿に、場の空気は何となくしんみりとして、胸に手を当てて「まぁ……」などと感じ入っている者もいる。しかし、紅緒は冷静だった。だまされてはいけない。ここで口車くちぐるまに乗って下手へたを打てば、無理な要求を繰り出してくるのがこの弟である。きっと、一緒に謌寮うたのつかさに連れていけとか言いだすに違いない。あとあれは嘘泣きだ。

 紅緒は溜め息をひとついてから、苦笑を浮かべると、幼い弟の頭をそっとでた。

「わかりました。明日はちゃんと起こしましょう」

「ぐす……ほんとうに? きっとですよ」

 はいはい、と応える姉を、母性と良心に訴えかける上目遣うわめづかいで毬兎まりとが見つめる。

「では、明日はいっしょにつれて行ってください……ぐす」

「ほらきた。駄目ですよ。嘘泣きも止めなさい」

 途端に、庇護欲ひごよくをそそる泣き顔を引っ込めて、すんとした表情に早変わりした毬兎に動揺を隠せない女官たち。紅緒はそれを横目で眺めながら、毎回彼女たちを見事に騙す弟の力量に感服かんぷくする。彼は今、舌打ちでもしそうな顔をしている。

「だって、姉上にわるい虫がついたらいやです。いっしょに行ってみはっていないと、いつどこの馬のほねとも知れないやつにかっさらわれるか、わかりません」

「誰にそのような言葉を習ったのですか……」

「父上ですが」

 子どもらしからぬ台詞せりふを、すらすらと、しかも不機嫌極まりない表情で言っているあたり、意味もきちんと教え込まれているようだ。

 すでに手遅れ気味な弟の行く末をうれえた紅緒は、しばし笑顔のまま眉間をんでから、父親に話をすべく腰を上げたのだった。

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