第二十二話
母は硬直から解かれると、「え?」と、小さく疑問符を打ちました。きっと断られるだなんて夢にも思ってるいなかったのでしょう。彼女の頭の中では、娘の前で自らの半生と現実での苦難を涙ながらに語る悲しき女として振舞っていて、さらに、その悲哀に同情しない、助けようとしない人間などいないはずだったのですから。けれどその演目は台本も役者も下手の一言に集約され、一度幕が上がれば、血に飢えた聴衆によって非難の的となるのは自明なのでした。
母の悲劇には独善しかありません。己が選んだ道にも関わらずその責を一つも背負わず、自己の正当化と安楽の為の逃避を、さも世の理不尽として歌い連ねるのですから心に響くわけがなく、身勝手が招いた道理に憐憫の情を抱く者などもいるはずがないのですが母にはその理屈が抜けているようで、己の猿芝居を芸術と勘違いしておりましたから、それに沿わぬ聴衆に対しては、先まで見せていた薄汚く邪悪な微笑は振りまかれません。固まっていた顔は徐々に形を変え、橋姫となっていました。
「どうして? お母さん、困っているのよ?」
低く唸る母の形相は獣のそれと同じでした。牙を剥き出し、喉元を喰い潰さんと睨む野獣の眼光を効かせていて、それまで繕っていた似非の貴婦人っぷりは、まさに化けの皮が剥がれたといった表現がしっくりとくるのです。
「貴女は私に死ねっていうの? 血を分けた家族が不幸な目に遭っているのに貴女は何も感じないの?」
同情を引こうとする台詞を並べる割りに、声には怒気が含まれていました。それは思い通りにならぬのが我慢できず、駄々をこねる子供と同じ、障る声でした。
「貴女はいいわ! 大学までいって、さぞや楽しい人生を送っているのだから! でも私は違う! 貴女と違って、一人で生きて! お金を稼いで! 必死で毎日を過ごさないといけないのに! 貴女は自分さえよければそれでいいの!?」
どうやら母の中で私は順風な生を謳歌しているようでした。立派な学び舎でノートを取り、一度学校が終わればお仕事や学友とのお遊び笑いが絶えず、時には恋の炎に燃え盛り、青春に咲く花としてさぞかし眩しい世界で生きていると思っていたに違いありません。私の事なんか知りもせず、勝手に幸せだと決めつけて、自分の薄情と恥知らずは棚に上げてなお、母は私は不幸だから労われと、施せと鳴くのです。電話の向こうで間抜けを晒しておいて、喫茶店で図々しい態度をとっておいて、まだ自分が虐げられていると、一番の被害者だと宣うのです。
許せませんでした。
殺してやろうかと思いました。
そう頭の中に浮かんだ瞬間、狂ったように言葉が溢れ出てきました。
私がどれだけの苦労を、不幸を、理不尽を受けてきたのか。どれだけの裏切りに遭ってきたのか。どれだけの辛苦を耐えてきたのか。どれだけの涙を呑んできたのか。何も知らないくせに、何も知らないくせに、何も知らないくせに! そうやって人より不幸だ不幸だと喚いて、集って、下品に笑って! そのくせつまらない見栄は一人前に通そうとして! 何もやらないくせに誰かに何かを求めて! それが叶わないと知ったら文句ばかりで! そんな鬱屈とした人生ならいっそ……いっそ死んでしまった方がまだマシじゃないですか!
その時の、しんと静まり返った喫茶店の空気はよく覚えています。浮かんだものが、知らぬ間に声に、いえ、叫びになっていたのです。
静寂の一間に母はどこからか煙草を取り出して火を着け、「灰皿」と、指図し女給に持って来させると、興が冷めたような白けた顔をして紫煙を燻らていました。
「貴女、子供の頃から変わってないのね」
「私の事なんて、知らないくせに」
「知ってるわ。なんなら、教えてあげましょうか?」
「いらないです。貴方なんかに、分かるわけないんですから」
「そう」
一口、煙りを含んで吐き出し、その勢いで、吐き捨てるようにして母は私に言いました。
「幸の薄い女……」
母はそれから一瞥もせず二人分の会計を済ませて出て行きました。残された私は、まるでピストルで撃たれたかのような衝撃を味わい頭が真っ白になっていたのですが、例の女給が早く帰れと言わんばかりに卓に残ったグラスや灰皿を下げ始めたものですから、程なくしてお店を出て、切符を買って大学の寮へと戻りました。
列車の中では、ずっと、母が最後に言った言葉が巡っていました。あの時の、あの暗く荒んだ顔には人を欺く装いが感じられず、人の持つ本性そのものが現れていたように思えます。そして、その母が見せた本性は、どこか、鏡で見る私の姿と似ていたのでした。体躯は正反対で、生き方も、考え方も違う私と母が、まるで生き写しのように重なっていたのです。とすれば、母はやはり不幸であり、そしてその合わせ鏡である私もまた不幸なのだと、不思議と受け入れられました。
その瞬間。私は初めて、自分を認められた気がしました。初めて、自分が許されたような気がしたのでした。
車掌さんの案内が流れ、駅に着きました。長く短いと旅はようやく終わりを迎え、私には再び、無色透明な日常が与えられるのでした。
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