第十話

 彼の泊まる宿に着いたのは、夜の十時になる前でした。

 無造作に置かれた鞄と乱れた布団があるだけの寂しいお部屋で、座敷牢と言われたら信じてしまうくらいに狭く、暗い場所でした。

 タクシーの中で夢現だった私は、起こされると訳も分からぬ内にその部屋へと案内されまして、ようやく目が覚めてきた時分に、半片の様な座布団を出されたので勧められるまま座ったのですがどうにも落ち着かず、意味もなく身体を揺すったり、手を揉んだりしていました。



「どれ。君と会う前に買ったんだ。一献どうだい?」


 酒瓶の首を持ちながら彼は湯呑みを二つ並べて、嬉しそうに笑いました。お店でしこたまお飲みになったはずなのにまだ入るものかと呆れていますと、私の答えも聞かず、勝手に二人分お注ぎになるものですから、仕方なくいただく事にしたのですがどうにも口に合わず、一口舐めるだけで、もう満足してしまいました。


「この辺りはいいね。暖かいし、空気が澄んでいる」



 歌のように陽気な口調でした。けれど、どこか無理しているような、痛々しさを含んだ欺瞞であるように思えました。



「そうでしょうか。私は、好きじゃありません」


 彼は黙ってしまいました。きっと、話を合わせる事もできない、下手な女と思った事でしょう。しかし、事実好きではないなものは好きではないのです。或いは旅行でしたら私も無邪気に「はい。いいところです」と飛び回って踊っていたかもしれませんが、元より望んで来た場所ではありませんでしたし、私の居場所はどこにもなかったものですから(私に要因があるのですが)、どうしたってその場所の美点は見出せず、つい、彼に反を示してしまったのです。


「君はどうも苦しむ癖があるね。いや、分かるよ。生きるってのは、辛いもんだ。何より

君は真面目だ。世の中ってのは酷いもんさ。真面目に生きる奴が、割りを食うようになっているんだからね」


 お酒を吞み干し、また注ぎ、ふぅと一息を吐いて、彼は私を見据えました。


「だからどうだね。少し、不真面目になってみないかい。存外、楽になるかもしれないよ」


 私は真面目なつもりだなんてさらさらありませんでした。ただ声が小さく、勉強ばかりしていたものですから、そう言われる事はありましたけれど、自分の中ではそれが普通で、殊更に規律や誠実に篤いというわけではなかったのです。もし、彼の言うように私が割りを食っているのだとしたら、それは真面目不真面目の問題ではなく、意志薄弱な心根が作用しているからに他ないのです。私は真面目だ真面目だと囃されるような生き方をしてきたつもりはありませんでした。ただ、何も言えず、抗いもせず、虫と同じように身を潜めていただけなのです。


 それを述べようとした時、私の唇は塞がれました。同時に、雪崩のように、狭い部屋の畳の上に倒れていきました。


「どうなっても知らないと、言ったはずだよ」


 接吻という行為に抱いていた特別な、神聖なイメージが、お酒のにおいによって穢されました。後はそのままされるがままに、嬲られ、弄ばれ、情緒も何もなく、私は花を散らしたのです。獣のように私を求めた彼は散々に動いて果てると、ふいごのように息を鳴らして寝入ってしまいました。会って間も無くこんな事をして、人は眠れるものだろうかと困惑しました。彼は私ではなく、女を求めていたのではないかと、疑心が浮かんだのです。


 狭い部屋は二人が横になるともう隙間はなくなり、互いの存在が嫌でも認められてしまいます。長く一人だった私は、それがどうにも馴染めなかったのでしょう。彼の肌の熱や寝息が感じていると、急に不安になって、遂には声を上げて泣いてしまいました。すると、いつから起きていたのか、彼の手が私の頭に伸び、そっと、自分の胸に引き寄せて「大丈夫かい」と慰めてくれたのです。貴方に泣かされているのに。と口から出そうなりましたが、そんな事は彼も承知の上でしょうし、何より彼に嫌われるのが怖くて、私はなすがままに、薄い胸板を借りて細い雫を流したのです。彼の身体のにおいを嗅ぐと、女の痛みが、酷く疼きました。





 朝を迎えたと知ったのは、小さな窓から射す、緩やかな朝焼けの余波が見えたからでした。

 夜中、彼の寝息は落ち着いたのですが、どうにも寝付くことはできず、狭い部屋の中で暗闇と混ざり、果たしてこれでよかったのだろうかと、雲を掴むような問いを繰り返していたのです。身体の関係を持った事。それ自体には、多少の喪失感はあれ、後悔はしていません。私など、普通ならば誰も相手をしてくれない人間ですから、むしろ、下衆な言い方ですが、貰って頂いてありがとうございますと、感謝を述べねばならぬくらいでしょう。しかし、彼が、憧れていた、好いていた、愛していた彼が、私などと行きずりの情事を起こしてしまったのは間違いだったのではないかと思われてしようがなかったのです。お酒を飲まれていたとはいえ、一と時の過ちとはいえ、私などに劣情を吐き出すような人を、私は軽蔑するのでした。私などを抱き、自らの価値を貶める男の人を、私は善く思えないのです。

 愛しているのに、愛してほしいのに、いざ愛し合うとなると途端に愛が欠けてしまうのは、賽の河原で石を積むようで、際限なく、無常に私を責めるのでした。再び頰に雫が流れます。彼はずっと起きません。寂寞が時の流れを止めたように思えました。目も耳も、捉えるものは静と闇から生じる無で、このままずっと虚無に引き込まれていたいと、彼の背中にそっと腕を回し、願いました。

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