第九話

 緊張するばかりで、それ以降、喫茶店で何を口走ったかは失念してしまいましたが、ただ、彼が笑顔で聞いてくれていたのは、はっきりと焼きついています。


「君は実に可愛らしいね」


 喫茶店を出て、手袋越しに息を吐き掛けていると、またそんな事を言われました。きっと建前だけだろうと、中身のない、上部だけの言葉だろうと訝しんでみても、彼の賛美は私から正常な判断を奪い、身体中を火照らせる効果があるのでした。「そんな事はないですよ」といいながら真っ赤にした顔の、なんと説得力のない事でしょうか。自らを否定しながら他者からの承認を求めるという矛盾を、私は犯していたのです。




「ご飯まだかい? できれば、付き合ってほしいのだけれど」


 彼の問いに頷くと、「目星は付けてあるんだ」と、自然と手を引かれました。厚みと弾力のある暖かい男の人の一部が私の指に絡み、経験した事の無い程高く、心臓が躍動しました。私はそれだけでもう、参ってしまって、ただ、左手の感触に舞い上がるばかりの案山子となっていたのです。意識が薄れ、どの道をどのようにして辿ったのかも分からないまま、気が付いたら縄暖簾を潜っていました。





「好きな物をお食べよ。今夜は僕がお大尽なんだからね」


 見栄か男気か、彼は上機嫌に破顔しながら口上を述べました。すっかり酔っ払っているご様子で、私も何だか楽しくなってしまい、「頼もしいです」なんて軽口を叩きました。それから普段飲まないお酒も頂いた私は、この時初めて、食事の楽しみ方といいますか、憂慮のない食卓を知り、滅多に回る事のない舌の根を絶えず動かしたのでした。


「仰木さんは(彼は仰木 徹さんといいました)は、普段、一人でこういったお店に来られるんですか? いいえ、そんなわけありません。どうせ、女の人と一緒なんでしょう?」


 お酒の勢いに任せて、嫌な事を聞いたと思います。それは、わざわざ私なんかに会いに、遥々と海路を渡って来てくれた人に掛ける言葉ではありませんでした。彼はきっとその時、「つまらんない事を言う女だ」と、軽蔑したでしょう。しかし、言い訳のように聞こえるでしょうが、私は不安で不安で、堪らなく不安で、彼の純心が確かなものか、確認せずにはいられなかったのです。もし彼が、懇意にしているお店で「やぁ、なにがしちゃん。何を飲むんだい?」だなんてニヤついていると思うと、それだけで気がれそうな程に胸が騒めき、内に潜む真っ黒な情念が、衝動的に悪い言葉を掛けてしまったのでした。


「馬鹿を言っちゃいけないよ。もし、僕に良い人がいるのなら、君に手紙なんか出さないさ」


 その言葉は嘘かもしれませんでした。私をその気にさせる為のでまかせかもしれないと、一寸頭を掠めました。けれど、自分が二足で立つ豚であると思い出した私は、騙すのであれば、もっと美麗な女にするだろうとすぐに考えを改め、彼を信じました。彼は私と手紙のやり取りをして、私と会って、私に笑顔を向けてくれているのです。それだけで、信頼に足りると思いました。何より彼は、私を人として、女として見てくれたのです。彼の口から発する、私に対する好意的な言葉の数々が、たった一瞬で、どれだけ私の心を救ってくれたでしょうか。



「僕はね。君って人に、随分魅力を感じてしまったのさ。人の事をもっと知りたいと思ったのは、君が初めてだよ」


「素敵な人だね。もっとよく、顔を見せておくれよ」


「今日は酒が美味い。安酒が、こうも変わるとはね」




 歯の浮くような台詞を並べ立てる彼と、それを真に受けて吐息を漏らすばかりの私は、側から見たらどのような喜劇に、あるいは悲劇に見えたでしょうか。ろくに歌えもしないイザベラとリンドーロの一幕のようで、滑稽にすらならない演目の中、周りの人間は自然とムスタファとなり、皆パッパターチの儀式をしているように静まり返って、冷たい視線を寄せていた事でしょう。けれど、当人である私達は、少なくとも私は、彼に抱いた恋慕の情が真の情熱だと思い込み、踊れもしない舞踏に夢中となっていたのでした。




「少し、お酒を飲みすぎてしまいました」


 定かではありませんが、そんなような事を言ったと思います。事実、お酒なんて初めていただいたものですから、足取りは覚束ず、妙に面白くって、私は白痴のように薄い笑いを浮かべていました。彼といる事が、ただ楽しくて、幸せで、気が付いたら、笑ってしまっていて、時たまそれに気付いて、自分がだらしなく顔を崩している姿を想像してしまって嫌悪して、必死に口元を引き締めようとしても、やっぱり駄目で、遂には諦め、出来損ないの福笑いみたいなまま自棄になって、必要以上に明るくしてみせたのですが、それが薄ら寒くて、急に寂しくなって席を立ち、化粧室で涙を拭って戻ってくると、つい、彼の隣に座って、肩にもたれかかってしまったのでした。


「大丈夫かい?」


「私、仰木さんと一緒にいたい」


「馬鹿言っちゃ行けないよ。ちょっと飲み過ぎたね。お金をあげるから、タクシーでお帰り」


「嫌。私、貴方と一緒にいたいの。貴方のところへ連れて行って」


「こいつは困ったね。滅多な事を言うもんじゃないよ。僕だって男なんだ。あまりからかわないでくれよ」


「私、本気です。もう少し、貴方の側にいさせてください」


「そうかい。なら、どうなっても知らないんだからね」


 この時、私は彼のいう「男」の意味がよく分かっていませんでしたし、知っていたとしても、きっと、彼なら大丈夫とたかをくくっていたでしょう。私達はお店を出ると、タクシーを拾って、彼の滞在している宿へと向かいました。「やってくれ」と、彼が指図して出発するタクシーは随分ゆっくりと走りました。窓から見える赤提灯の光が、黄泉へと誘う送り火のようにぼぉと揺らめいているような気がして、はたとして隣を見ると、反対側の窓から、それを食い入るように見ている彼がいました。それが、車内での私の最後の記憶となりました。

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