薄幸

白川津 中々

第一話

 お前は不幸だと、確かに言われてきました。

 私自身もそう思いますし、また、仮にそうでなくとも、誰彼に顔を合わす度、不幸だ。不幸だ。と聞かされ続けておりましたら、誰しもが、自らの薄幸を嘆き、生まれを呪わずにはいられないでしょう。


 人の運命というものは、産まれ落ちた環境によって大きく左右されるものだと、私は信じています。そしてやはり私が不幸だと最初に言われたのは、迂闊にも、私の家の事を他人に話した事が原因でした。聞いてくれたのは、私が友達と、その時は思っていた女の人でした。彼女は話を聞いた後「大変な家に生まれちゃったね」と、あまりに軽く笑ったのを覚えています。その時の受けた薄情な憐れみは今でも忘れません。彼女に話した、私の家族の話も。



 私が住んでいた家は古く、影に隠れた陰気な一軒家で、住んでいた私自身も、まるで怪談に出てくるような不気味な造りだと怖れていました。そこに住んでいたのは、父母と私と弟と、そして祖父母の六人で、父母と祖父母。そして、私と弟でそれぞれ部屋が分かれているのでした。

 大人四人の配慮により与えられた一人部屋でしたが隔てる壁は薄く、個人の生活音など全てがどこにいても聞こえてくる有様で、大変、嫌な思いをしました。お酒に酔った父の痴態や祖父の痰を吐く音。酷い時など、排泄の音さえ響く始末で、それを咎めるにも、言葉に出すと自分が穢れていくような気がして、結局、部屋の中でいつも布団に潜っている事しかできませんでした。


 けれど、私が心胆を縮めていたのはそんな事ではありません。私が苦しく思ったのは、父母と祖父母の間に空いた溝でした。


 父は絶えずお酒を煽り、煙草を呑む人間でしたから、いつも夜遅くに帰ってきては、道理の通らない文句を声高に口にしていました。父の言い分はしようのないもので、己が怠惰と不出来を自ら宣言しているだけに過ぎず、幼い私にすら、取るに足らない戯言だ理解できるくらいには、どうしようもないものでした。だって、散々に喚く父の不満は、「辛い思いをしている俺に金を出さない世間は薄情だ」という、勝手な泣き事でしかなかったのですから。

 それを見て母はいつも「お金!」と、怒鳴りつけるのでした。「お金」という言葉の前後に何か説明があるわけではないのですが、それが何を意味するかは自明で、「また少ない稼ぎを使いましたね」という批難なのでした。父は一応働いてはいたのですが、頂けるお給金は然程多くなく、私も弟も、着るもの、食べる物に欠き、人より多く欲がありました。


 文句は一人前に言う母でしたが、母は母で、そうできた人間ではありませんでした。借金こそ抱えないにしろ、お金が浮けば、自分の服や装飾に回し、なければ一々洒脱の資金の為に貯め、やはり私達の生活は二の次三の次だったし、本人さえも、摂生だと言い張りろくに物を口にしない様子だったのです。食うもの食わずとはまさにその通りで、私から見れば母は骨と皮の妖怪のように見えたのですが、本人は「痩せている」と主張して憚らず、痩けた頬を撫ぜながらほほほと不気味に笑うのでした。


 祖父母はそんな二人を見て呆れるか怒るかのどちらかでした。元々「お金がない」といって住んでいた借家から引き上げてきた時もいい顔はせず、「人様に迷惑をかけるよりは」と、半ば体裁の為に受け入れたようなものですから無理はなかったのですが、たまに行われる父と祖父の罵り合いは、汚物を足す音よりも不快で堪え難いものでした。

 口汚い罵倒はおよそ血を分けた人間同士が交わす言葉ではありません。獣の方がまだ分別がつきましょう。


 祖父母は私と弟には優しく、たまに、いえ、ほぼ毎日食べ物をくれました(時には自分が食べる分さえも……)。だからこそ辛く、また、悲しかったのです。私達の存在が、祖父母の重荷になっているという現実が……




 祖父は昔大工をやっていたせいか職人気質で気難しいところはありましたが、普段は無口で温厚で、私や弟に怒った事は一度もありませんでした。父と同じくお酒は飲むのですが、お手製の升一杯に並々と容れた日本酒を、小さく、ゆっくり口に含み、たまに塩を舐めては、また、ゆっくり升を口に近付けるといった風に干していました。升に入った分がなくなるとそれ以上注ぐ事なく、「飲み過ぎたかな」といって寝るのが常でした。父と話さない祖父の顔は朗らかで、老後の人生を心底から楽しんでいるように思えました。


 祖母の方もこれまた静かなものでしたが、祖父と違って幾らか遊び心があり、近所の野良猫を捕まえては畑で採れた野菜をやって、「ええ子やねぇ」と撫でていました。その猫は燃え後のような茶色の毛をしていたので、「コゲ」と呼ばれていました。コゲは人懐こく、たまに私の指を噛んだりして、にゃあにゃあ鳴いていました。



 当時の二人を思い出すと、涙が抑えられません。祖父も祖母も、本当に豊な生活を送っていだのです。二人の、得難い穏やかな余生を奪ったのは、私達なのです

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