第十七話

 差し出された盃を「結構です」と断りまして、儚火の中しずと対面しておりますと、彼はお酒を何度も干され、その度、「はぁ」とか、「ふぅ」とかわざとらしい溜息を吐いていました。その姿が何ともみすぼらしく、初めて顔を合わせた時の、あの小粋な印象から随分と懸け離れているのでした。


「出ようか。どうもここは、風情がない」


 よれた甚兵衛を正しもせず立ち上がり、彼は一人で、こちらに了承も得ず階段を降りて行きました。私がついて行かなかったらどんな顔をなさるだろうと細やかな悪戯心が芽生えもしましたが、そちらの方が帰って面倒になりそうでしたので、私も彼を追って、再びあの騒々しい俗物の巣窟へと降りていきました。相変わらず下品で野暮な酒宴は続いていましてので辟易していると、彼が何やら混迷した面持ちで店主の方に突っかかっていまして、「ふざけるな」と、声を荒らげたところで私と目が合い、バツが悪そうに乗り出していた肩を戻したのでした。少々気になりましたので、「いかがなさいましたか」と聞きますと、彼に代わって、店主が口を開いてくれました。


「お嬢さん聞いてくれよ。この男、あんたの事をパンパンだなんて酷い呼び方をしていたんだぜ?」


 嫌な微笑を浮かべてそう仰る店主に「おい!」と、再び声をあげて制したのですが、それでも話を続けようとした為か、彼は私の手を握り、足早に店をお出になりました。パンパンという言葉の意味は存じませんが、凡その察しはつきまして、この人も、私を真っ当な人間として見てくれていなかったんだなと残念に思ったのですけれど、自分でも驚くくらいに悲しみはなく、そんなものか。と、突きつけられた現実をまっさらに甘受できたのです。逆に、彼の方が慌てふためいていたのが不思議でしょうがありませんでした。どうせ使い捨ての女なら、黙ってそういう態度を取ればいいのに、どうして繕うような真似をするのだろうかと疑問に思いました。きっと、人傷付けることによって生じる後ろめたさに耐えられなかったのでしょうが、それを優しさと取るか惰弱と取るか、はたまた偽善と取るかは、見る人によって差異があるでしょう。私は、少なくとも今の私ならば、彼の自己愛に塗れた不断な態度は、薄弱な精神であると断言してしまうでしょう。



「まったく参った。君、あんな奴の言うことなんて信じないでくれよ。あそこの連中は人間性が俗悪なんだ」


 ご自分の事を棚に上げて、よくもそんな台詞が吐けるものだと呆れてしまいました。彼のこの言いようと比べると、思った事をそのまま口にする、あの掃き溜めにいた人達の方がよほど誠実ではないでしょうか。自身も同じ穴の貉だというのに、同族を嫌悪し悪態を吐くなどという醜態をどうして恥ずかしげもなくつけるのだろうかと、哀れみを通り越して、純粋な疑問が浮かぶ程に彼は無様でした。

 また、そうして、私自身も彼と、あの肥溜めに集る虫達と同じであるとその時に悟ったのです。幼少の頃から虐げられ、馬鹿にされ、笑われ続けてきたのは、日頃から他人を嘲りながらも、それに気が付かず被害者面をしていたからに他ならなかったからなのでした。


「偽善者」


 Aちゃんの言葉が反響します。私は確かに胸の中に偽善を飼っていました。私が、私だけが可哀想であればいいのだと、偽りの悲劇と自己犠牲に酔いしれ、考える事を止めていたのです。


「じゃあ、行こうか。近くにいい喫茶店があるんだ。舶来の逸品を出す洒落た店なんだ」


 急にお気取りになられた彼は私でした。皆の前で、不幸だ不幸だと振舞って、可哀想だと吹聴するAちゃんを嫌がりながらも、もっと私の不幸を広めてと内心で叫んでいた私の姿とぴたりと重なり合いました。彼は私と同じく惨めで、さもしくて、誰かに悪く言われないと生きていられない、矮小な生き物だったのです。


「えぇ。参りましょう。連れていってくださいませ」


 同情か、はたまた、突然湧いた親近感からか、あるいは、やはり片隅に愛があったからかなのか定かではありませんが、私は、滑稽に舞う彼の顔を立ててあげる事にしました。それが唯一、私に残された意地であり、下衆な愉悦であり、希望でした。


「よし。じゃあ行こう」


 当然だといった、無愛想な顔つきでした。私が断るとは露程も考えていない、自然な、地の表情でした。






「突然来られてもね。困るよ。僕だっていつも暇なわけじゃないんだから」


 小さな喫茶店で薄い色をしたコーヒーを飲みながら彼にそう文句を言われました。


「手紙のお返事をいただけなかったものですから」


 思ったよりもすると言葉が出てきたのは自分でも意外でした。それは彼も思ったらしく、突然の反に一瞬の戸惑いを見せたのですが、すぐにまた無愛想となり、また口を開くのでした。


「こちらも忙しいんだ。書いただろう。親父が、死んで。大変なんだよ」


 死という単語を誇張したのは、絶対的な不幸を盾にそれ以上の言及を防ごうと画策したからに違いありません。


 けれど、断言いたします。私は、お父様が亡くなられた彼よりも深く、重く悲しく、苦しんでいたという事を。地獄の底で、百獄の責め苦に耐えている方がまだ幸福であると、私はそう確信しているのです。


「ただ一通も、たった一節も書けないのであれば、愛してるだなんて言わなかったらよかったじゃないですか」


 滅裂な返事だと分かっていました。破綻した論調であると、重々承知していました。けれど、言わずにいられませんでした。彼中抱いていた、裏切られた気持ちを吐き出さないわけにはいかなかったのです。








「……君は、何か夢とか、目標とかはないのかい? 今なければ、かつて抱いていたものでもいいから」




 唐突にそんな事を聞く彼の目はいたって真面目でして、先までの無愛想が嘘のように感情のこもった眼をしておりましたから、正直に「オペラ歌手になりたかったと告白いたしますと、「それはいい!」と、薄っぺらく身を乗り出し、「是非に目指したまえよ」と安い激励を私に吐きかけてきたのでした。


「君は僕のような男に構っていちゃいけない。君は、君の夢を追うべきだよ」





 それは別れの言葉でした。


 最後まで彼は、私の為に傷付く事を恐れ、私に決断をさせるよう仕向けてきました。それがなんともおかしくって、私ったら、ついその場で吹き出してしまって、もう彼を、まともに見る事ができなくなってしまって、席を立ち上がり、帰る事にしたのです。


「おい、待ちなよ。どこへ行くんだい」


 呼び止める彼の声には怒りがこもっておりました。きっと、ご自分の中では綺麗にお別れるする算段ができていたのでしょう。おめでたい事です。


「とうに、夢は覚めています」


 私は最後に、そう言って喫茶店を出ました。彼は追ってはきませんでしが、去り際に、私に聞かせたのです。


「お高いね。夢なんて嘘だろう。どうせ、見せかけの夢に違いないんだ。君はずっと、恥ずかしくて、何もできなくて、夢をでっち上げたんだ」






 曇天がぐずり始め、駅に着く頃にはポツポツと雨が降り始めてきました。知らない土地の雨の臭いはどうにも馴染めず、かといって、寮に帰りたいとも思えず、悩んだ私は実家までの切符を買って、久方ぶりの、望まぬ帰郷を果たすのでした。

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