第十二話

 彼がいなくなってしばらくは抜け殻のようでした。

 惰性で学校には行っていましたが学業に意欲など向かわず、歌の方もすっかりと情熱を失い、お稽古へは足が遠のいていました。

 自堕落となった私の願いは一つとなっていました。彼と共に人生を歩む事が目標となり、また最も幸福な道であると考えるようになっていたのです。

 一つ月が経ち、年を越えました。帰郷はせず、狭い寮で、定食屋さんから頂いた野菜の煮付けなどを食べて過ごしました。実家からは年賀状が届きました。近況などが綴られていましたが、私は、ろくすっぽそれを読まずに、「その内に帰ります」とだけ書いて返しました。


 どうしたって無気力でした。何をするにも億劫でした。それなのに、彼の事だけは休む事なく思案され、また、悲しむのです。あの日会って以降、めっきり届かなくなった彼の手紙に、私は翻弄されていたのです。

 不安だけが募っていきました。長い休みが延々と続くようで、与えられた時間を持て余し、憂鬱で、もう、どうしようもなくなってくると、とうとう私は筆と紙を取ったのでした。あれだけ重かった身体が、その時ばかりは、嘘のように軽く感じられました。




「仰木さん。覚えておいででしょうか。栄香です。 もし、私が既に、貴方の記憶に残っていないようなら、この手紙は読まずに燃やしてください。







 覚えていてくれているのですね。



 まずは新年となりました事をお祝い申し上げます。恙無つづがなく旧年を明けましたと存じます。けれど、私は本当に仰木さんが無事に年を越せたのかを知りません。何故なら私は、昨年貴方と別れてから、ただの一通もお手紙をいただいていないのですから。

 誤解しないでいただきたいのですが、この文は決して不平不満を述べ、憤怒を伝える為にしたためたわけではございません。本来であれば私などは一人果つる身なれば、それを相手にしていただいて、酷く申し訳なく、また、ありがたい事と存じています。それを承知した上で、読んでいただきたいのです。

 私がなぜ、堪え性もなく貴方へお手紙をお出ししたかというと、それは偏に、貴方が心配であり、気を揉んでいるからに他ないからでございます。こんな事を書くと、「いらない心配だよ」と、鼻で笑われるかもしれません。けれど、袖振り合うのも。ともいいますし、関係を持ってしまった以上、縁ができた以上、やはり無関係とは考えられず、おこがましくもお体、お心に大事はないかと日夜廻らせ無事をお祈りしてしまうのです。それに何より、曲がりなりにも愛を誓ってくれた人の事を、私は想わずにはいられませんでした。あの日、貴方が「愛している」と仰ってくれたのは、ひょっとしたら、ぐずる私をあやす為の、その場しのぎ放言だったのかもしれませんが、それはそれでかまいません。それでも、私は心底から貴方が、好きで、愛おしくって、仕方がないのです。貴方が無事なら、多くは望みません。ですから、ただ「無事」とだけ書いたものでもかまいませんので、どうか、お手紙をいただけないでしょうか。

 後生でございます。どうか、どうかお返事をくださるよう、お願い申し上げます。」



 伝えたい事はまだありました。書きたい事は星のようにありました。けれど、それ以上は無理でした。

 彼を想えばそれだけ憎らしくなってしまって、自分を抑えられなくなりそうで、取り返しがつかなくなってしまいそうで……

 恨み言ならば、紙とインクが切れるまで、幾らでも記せた事でしょう。それでも踏み止まったのは、それを読んだら彼はきっと、私を見捨ててしまうに違いなかったからです。彼にしてみたら、私などは道中すり寄ってきた野良猫みたいなもので、その場限りで愛でるにしろ、拾って飼うなど考えもしていなかったでしょうから、本来であれば、このような手紙でさえ手にした瞬間に辟易するかもしれないのでした。けれど、そうとは分かっていても、どうしても抑えきれないものが芽生え、少しでも吐き出さなければ、きっと私は居ても立っても居られず、彼の元へ飛んで行ってしまっていたでしょう。それを堪えたのは、僅かな理性と自制心がまだ残っており、また、多少拗ねてみせてもその中にいじらしさを匂わせれば、きっと私の方を向いてくれるに違いないという打算があったからでした。

 その哀れな策略が功を奏したのか、程なくして彼から手紙が届きました。薄青い便箋はちゃんと厚みがあって、持った瞬間、不安ながらも、嬉しさが込み上げてきたのでした。



「お久しぶりです。また、新年、おめでとうございます。

 寒い日が続いておりますが、元気そうで何よりです。一年の計は元旦にあり。早々に風邪など引かれては、計もなにもあったものではないですから、壮健であらせられる事が何よりの吉報でございます。

 さて、今日まで手紙のひとつも出さなかった事、深くお詫び申し上げます。あの日、貴女に会って、愛し合った事実は今も私の胸の中にしかと刻まれており、他愛なく退屈な日常において綺羅星が如く輝いておりますのは、しっかりとお伝えいたします。

 本来であれば、帰郷後速やかに筆を取り手紙をしたため、遠い貴女への想いに耽るところだったのですが、実のところ帰ってからすぐに父が亡くなりまして、急いで葬式を上げ、遺産について調べ上げて一働きしてしなければならなかったのです。母親並びに親族は皆白痴で使い物にならないものですから、拙いながらも私が金勘定を仕り、遺った雀の涙を猫の額に移す行事を取り仕切らなければならなかったのです。

 その間に、一言でも貴女に送ればよかったと、貴女の手紙をいただいて後悔し、反省をいたしました。愛を誓った女性を何ヶ月も放って置いて、忙しい忙しいと足りぬ頭を使っていては、きっと栄香さんは無事だろうと根拠なく合点してたのですから。こればかりは私の不徳の致すところで申し開きもできず、ただ、「悪かった」と頭を下げるばかりでございます。

 事は一段落つきました。また、きっとそちらへ向かいますから、その時改めて謝意を示したいと思いますので、どうかご容赦くださいますようお願い申し上げます。

 勝手ばかりでごめんなさい。けれど、僕が貴女を愛している事は確かです。それではMa muse。どうか、お元気で……」



 その手紙は確かに私に充てられたものでした。

 お父様の件は残念に思いました。けれど、非常に冷酷で、我田引水な事を述べますが、その時、彼からの手紙が届いたというその事実は胸を躍らせ、高鳴るばかりで、それまで抱えていた鬱屈が霧散していくのでした。

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