第七話
歌の先生はだいぶ優しく、また丁寧な方でした。素人の私に、手取り足取り教えてくれて、また、よく話してくださいました。
「もっと自信を持たなきゃ」
言葉の結びに、必ずそう言われていたのを強く覚えています。けれど、何もできない虫である私には自らを信ずる事などできるはずもなく、酷く、申し訳なく思いました。
けれど歌のお稽古自体は心から楽しく思えました。声を出すことで憂さが晴れただけかもしれませんが、スタジオでの時間は、長い梅雨間の
「栄香さん、とっても幸せそうに歌うんですね。それが一番、いいんですよ」
先生がそんな事を言うと、流石に恥ずかしくって肩を丸めてしまうのでしたが、それでも褒められ、認めていただけるのは大変恐縮かつ光栄で、後ろめたさと、呼吸がしたい欲だけで繋がっていた命の綱に、一房の
当時でも、手紙のやり取りだなんて幾らか時代錯誤な手段だったのですけれど、平素では未だろくに口が聞けない私が、面と向かって他人と話すだなんて到底無理でしたし、そも、どうしたら知らない人と交友を持てるのかも分からないものでしたから、顔も声も隠れたままで、人が勝手に届け進めてくれる仕組みは都合が良かったのでした(私自身の醜悪さも秘匿できるというのも勿論ありました)。 私は一通目の手紙を書き、投函しました。「始めまして。こちらは雨が続いていますが、そちらは如何でしょうか」といったような内容だったと思います。すると、幾日も経たず、すぐに返事が届いたのでした。
「こちらは良い日和が続いています。空がぐずるのは残念ですが、慈雨と思い、見守り待つと良いでしょう」
初めて戴いた、いえ、彼がくれた全ての手紙の内容は、はっきりと、鮮明に、今でも、一字一句間違えず、胸の奥に刻まれ、思い出す度に、懐かしさからか、それとも、愛憎からなのか、頰に、雫が一線、名残惜しく、引かれます。その人は、私にとって、特別な方となり、そして……
彼は本土の山間に住む人で、文中では物静かな、優しい方のように見受けられました。
よくお酒を嗜むようで、昨日は飲み過ぎたとか、今、酔った勢いで書いているから許して欲しいとか、手紙からでも、濃厚な酒気が漂ってくるような気がして、おかしく思いました。けれど彼の文章は正しく機知に富んでいて、かといって堅苦しいものではなく、一文一文全てが楽しくって、時には励ましてくれて、手紙が届くまで待ち遠しくなって、次第に、素敵な人だと思うようになりました。私は一生懸命可愛らしい字を書くようになり、また、昂ぶる胸の一端を僅かに記したりして、彼の中に女を残そうとしました。流れ込む恋という感情に踊らされ、カルメンのように情熱的に、卑劣に、艶かしく、けれど控えめに、ソプラノを無音で口ずさみながら私は彼を誘惑したのです。そして幸か不幸か、ついには、彼から逢瀬の言葉を賜ったのでした。
「君を見たい。落葉に儚む頃、きっとそちらへ向かうから、約束してほしい。会ってくれるね」
返事を書くのに戸惑いました。胸は高まり、頰は朱に染まっているのに、会いたくないのです。私は、まだ人の顔をした豚でした。彼と会ったら、きっと失望されるという考えに至り、白紙の便箋に、涙模様ができました。叶わぬ恋慕に、自身の醜悪さに、舞い上がっていた自分に、私は悔恨と憎悪の雫を落としたのです。
返事を保留にしていると、また新たに、手紙が届きました。彼からでした。
「こちらはもうすっかり寒くなってしまったけれど、そちらはどうでしょうか。先日の手紙は、忘れてください。酒に呑まれ、つい、自分の気持ちばかりを述べてしまいました。二人の間には、もはや隔てるものはないと油断して、礼を欠いてしまいました。貴女との文通は、私の全てです。それが絶えるのは、死ぬのと同じなのです。だから、どうか私の軽率を許してください。そうでないと、私は狂い、どうにかなってしまいそうなのです。始めにした、天気の話を覚えていますでしょうか。私にとって、貴女の存在こそが実りを結ぶ慈雨であり、また花を咲かせる太陽なのです。私から空を奪われないよう、どうぞ、ご容赦ください」
勝手な話だと思いました。そして、嬉しく思いました。この人なら私を裏切らないだろうと、都合よく合点していました。
手紙を書きました。ただ、「会いたいです」とだけ添えて、私は返事を待ちました。秋雨が過ぎた空が匂い立ち、高鳴る鼓動に、風が吹いていました。
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