第八話

 二つ月程経ちました。乾いた風が木の枝にしがみつく葉を散らして、景色から彩りが抜けてしまう季節に、彼からの連絡がありました。


「来週の頭に会いにいく」


 たった一文だけの手紙が、大変に重く、また、尊いもののように思えました。たった一文が、募る恋慕を刺激しました。顔も声も知らないのをいい事に私は彼を好きに成型し、きっとこんな人だろうと過剰な期待を持ちながらも、いや、思ったよりも悪いかも知れない。もしそうだったら、どうしたらいいものだろうかと、自らの醜女を棚に上げて逢瀬の日を待ったのでした。その間お稽古では先生に「ちょっと上の空じゃないかしら」とお叱りを受ける日もあったのですが、失礼な話、それが気にならないくらいに私は彼との出会いを待ち望んでいたのです。普段読まない雑誌を読み、化粧を覚え、服を新調し、髪を整え、可愛らしいアクセサリーを付けました。しかし、そのどれもこれもが滑稽に映る程、私の身体は厚く、太くなっていました。痩せなければと考えましたが、摂生の思考が巡ると途端に「私みたいに痩せないてねぇ」と母の声が頭に響き、私の中の何かが、過剰な食欲をもってそれを封じようとするのです。こんななりで果たして女性といえるのだろうかと幾度となく涙を流しましたが、それ以上に、一目彼を見たいという想いが止め処なく溢れ出し、苦しくて、切なくて、それでもやはり食べる事は止められなくて、まるで罪人にでもなったかのような後ろめたさが消えないまま、日を数える指が折れていきました。


 寒く、また、風の強い日でした。

 学校を終えて、定食屋でお仕事をして、まだ時間があったので、喫茶店でお茶をいただいて、テーブルに並べた、彼からの手紙と時計の針を交互に見ては溜息を吐いて、温くなった紅茶を名残惜しくコースターの上に置いたまま、そっとカップを手で覆うと、思ったよりも頼りない厚さの陶器越しに、左右の指が震えているのを知るのでした。「あぁ、私は今日、あの人と会うんだ」と胸の中で呟くと、血が忙しなく巡り、心臓が痛みました。身体がおののき、まともにカップを持つ事さえできず、立ち上がろうとしても足に力が入らずにガタガタと椅子を揺らすだけで、何とも情けない有様を晒してしまうのです。どうしたものかとあくせくしては、どうにもならぬと首を落とし、仕方なしに彼からの手紙を一から読み直すしかありませんでした。

 そんな折、突如、テーブルを挟んだ対面の椅子に一人の男性が座りました。深い隈が印象的な、長身痩躯で色の白い方でした。

 あまりに自然に、楽な様子で現れたものですから、私はしばらくポカンと、だらしなく呆けていたと思います。突如として、知らない殿方が目の前で腰を落ち着けたんですから、それも無理ない事でしょう。しかし、そんな私とは対照的に男性は、にっ。と、慣れた笑みを浮かべ、少々の間を置き、こう言ったのでした。


「初めまして栄香さん。会えてよかった」


 何を言っているのか、最初は分かりませんでした。しかし、その男性が何者であるか判明し、すぐに合点がいきました。男性が胸元から出した一枚の手紙は、紛れもなく、私が彼に宛てたものだったのですから。


「手紙を広げている人がいるから、もしかしてと思ってね。覗いてみたら、案の定だったよ」


 彼は柔らかな口調で私をからかいました。思わず、顔が綻んでしまいました。決して目を惹くような端整な作りではありませんでしたが、それが愛嬌となって、愛おしく思えるのです。私は自分がこうまで惚れやすいと、驚きと同時に、浅ましく思いましたが、彼の、どことなく影のある瞳や、薄い唇が、とても愛おしくって、堪らなくって、抗えない感情の波に呑まれてしまったのでした。


「まだ時間があるけれど、急だったかな。ちょっと、観光がてら、その辺りを周っていたのだけれど」


 そんな事はないですと伝えると、彼は嬉しそうにはにかんでから、給仕を捕まえてコーヒーを頼みました。その一連の動作が、また妙にしっくりきて私の目を離しませんでした。けれど、それは好意ばかりではなく、むしろ悍ましい怨念めいた、悪徳が含まれるものでした。


 恋というものを知る時、人は幾らか悲哀を感じるものだと思います。好きと想えば想う程に、相手の気持ちが勝手に作られ、陰となるのです。この人は今、何を考えているのだろうかと。私の事を見てくれているのだろうかと、何かと疑念を抱き、いつの間にか想いは憤怒へと移り変わっていくのです。彼がコーヒーを頼んだ給仕は、枝のように細く、絹のような肌をした女でした。随分痩せて、美しい女です。それを見た途端、私は、私の劇が前触れもなく終幕を迎え、これから演じるはずだった、歌うはずだったステージから追い出されたような気持ちとなりました。 泣いてしまいたいくらい、惨めでした。

 けれど。


「しかし、栄香さんがこれ程可愛らしいとは、思いませんでしたよ」


 彼から出た、可愛らしいという言葉が、私の暗鬱なる心に明々たる光を生み出しました。単純だなと、自分でも思います。それでも、産まれて初めて言われた賛辞は、思った以上に愉悦的で、溶けてしまいそうな程、心地が良いものだったのです。一夏の枇杷びわのように香る甘言を受けた私に、先までの身勝手な怒りはもはやありませんでした。

 彼は私を見つめながらコーヒーを飲んでいました。私は頬を染めながら、見つめ返しました。一呼吸の間さえ、過ぎるのが、惜しく思いました。

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