第六話

 生きていかなければという脅迫観念が私を動かしました。そうなると、やはりお金が必要となり、あちこち歩いて探しましたら、一軒だけ、私でも務まりそうなお仕事がありました。路地裏でひっそりと営んでいる、古い定食屋さんで働く事になりました。

 お店は今にも倒壊しそうな程頼りなく建ち心細く、くたびれたおばさんと愛想の悪いおじさんがいるだけの薄暗い空気をもった、理想とはかけ離れたあばら屋でした。人間誰しも身の丈というものがありまして、私にはその、昭和然としたボロボロの小屋が丁度いい具合の塩梅だったと今にして思うのですが、当時の私は自分が見えてなくって、どうしてこんなところで働かなくちゃいけないんだろうと、誰にも言えない、誰に向けるわけでもない繰り言を自分に聞かせていたのでした。お金が入り日々の暮らしの律が刻めるようになると、その声は段々と大きくなっていきました。日常で意味もなく憤慨したり、悲哀に落ちたりする事が昼夜問わず続くようになりました。精神が摩耗し荒んでいくのですが、そんな弱気をおくびにも見せるわけにはいかないと苦しみに堪え、人前では鉄の面を被っている風に振る舞いました。そうしていると、狭い部屋で、いつの間にか食べるものがなくなっているのに気づきました。お米が、野菜が、魚が、卵が、知らず知らずの内になくなっているのです。台所に残った調理器具と、醜く肥えた私の肢体が、消失した食材の在り処を物語っていました。私はいつの間にか、意識の範囲外で厨に火を掛けご飯を作り、貪っていたのです。気づいた時は笑う他なかったのですけれど、すぐに、鏡に写る自身を見て、その醜悪さに、その下品さに、堪らず悲鳴を上げてしまい、化粧室へ逃げ込んで、胃の中の全てを吐き出すのでした。えずきながら、額に触れる二の腕が憎く思え、弛みきった脂肪に嘲笑われているような錯覚に陥りました。こんな姿で外には出られないね。恥ずかしいねと、冷たく重いお腹が囁いてくるのです。けれど、自分の肉が削げ落ちたところを想像すると、それもまた、憂鬱を生み出すのでした。頰がこけ、骨と皮だけとなった私の姿は、母の面影が重なるように思えたのです。

 母の10本に対し殊更何か感情があったわけではありません。あの人が出ていこうがいこまいが私の所在は深い奈落の底にあり、彼女の不在の如何に関わらず泥を食む生き方しかできなかったでしょう。しかし、あの化け物じみた痩躯が絢爛に彩られているのは、ピラミッドに埋葬されたファラオのように不気味で、子供ながらに、あんな風にはなりたくないと強く思っていましたから、怪談めいた、枯れ枝のような母を見ないでよくなり内心安堵していたのは、偽りのない薄情でした。もし、私があのような、ミイラに薄く土を盛ったような怪物となってしまったらと考えると、舌が卑しくなり、飢えてもいないのに渇くのでした。しかし鏡の中に立っているのは足を揃えた養豚なのです。食べられる為に食べる不毛な生き物が、私だったのです。狂ってしまいそうになりました。いえ、既に狂っていたのかもしれません。食べる事も食べない事も、私には許されていないと思い、真剣にどうしたものかと絶望し、衝動的に何か口にしては吐き、また口にしては、胃液や、黄色い体液が出るまで内臓の汁を吐き出すといった、繰り返す愚行を止める事ができなかったんですから。


 それでもすぐに正気となったのは、私の中の、生物が持つ命に対しての執念が動いたからなのかもしれません。私は肥え太る道を選びました。一度食べてしまうと、止められませんでした。食べれば食べるほど醜くなる自分の体躯が憎らしくなり、恨みました。恨みましたが、どうしようもありません。少しでも胃に隙間ができると、それを埋めなければならないと強迫されていたのです。「また痩せてしまった」と、母の声が聞こえてくるのです。元来、私は卑しい人間なのかもしれません。母の幻覚は、その卑しさを考えない為に自ら生み出したのかもしれません。暴食が始まって三つ月が経つと、土偶のような姿になっていました。大学の人達は、口にこそ出さないものの「不細工」と、私を蔑んでいました。生きなければならないという気持ちが霞み、再び死を考えるようになるものの、食べ物を掴む腕は止まらず、ひたすらに口を動かすようになっていました。キャンパスで食事をするのは憂鬱でした。食堂や広間のベンチで飲食をする私は、餌を貪る動物園の豚だったのです。


 無気力な日が続きました。人目に晒され、見世物となるのも慣れてしまいました。生きるのも死ぬのも、どうでもよくなっていました。けれど、やはりどこか、小さな期待をしていたのでしょう。私は、程度のお金が手元にあるのを確認すると、歌唱のお稽古を始めたのです。

 今更になってオペラ歌手への夢が再熱したのですが、それは、どうにもならない生き方をしている自分への反発にしか過ぎなかったのだと思います。本当に夢を叶えたいのであれば覇気に満ち、俄然煌びやかに瞳を輝かせていたに違いありません。しかしその時の私は卑屈に背を丸め、泥のように濁った目をして、「夢のために」と虚偽の意気を発する、ただの愚者でした。

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