第十一話

 窓の外が赤から青に変わる頃に彼は目を覚まし、それから私を一撫でして、「お腹は空かないかい」と、聞くのでした。

 夜通し思案していたせいかどうにも身体が変で、空腹どころか吐き気さえしたのですが、きっと彼は一緒に朝食を食べたいのだろうと考え、「空いています」と答えると、どうやらその予想が的中したらしく、「よし。食べに行こう」と笑って、彼は手早く用意をし始めたのでした。食欲がないのもありましたが、真新しいシャツに二着もコートを掛けている彼と違って私は化粧もできず、当然替えの服などもありませんでしたから、昨日の、皺だらけになってしまったワンピースをそのまま着るしかなく、気は乗りませんでした。


 宿から出ると山が近く、川が流れていまして、思っていたよりも遠くに来ているのが分かりました(私が住んでいた寮は駅からほど近い街中にありました)。懐郷に浸っていたのは過去の話で、簡単とはいえ働きもしていたわけですから、今更そのような景色を見て、望郷の念に駆られる事はありませんでした。けれど、どこか生家の情景を浮かばせる豊かな自然は、奈落へと吸い込まれそうな私の意気をより消沈させ、悲嘆しか生まない追憶へと駆り立てたのです。身体は固まり、ついには脚が動かなくなってしまいました。隣で歩く彼の鼻歌が止まったのは、私の先を二、三歩進んでからの事でした。


「どうしたんだい。随分、暗い顔をしているじゃないか」


 彼の声は心配してくれているようにも、不機嫌なようにも聞こえまして、いずれにしても、私が水を差してしまった事は確かでな事ですから、大変に心苦しくりました。ですが、お詫び申し上げようとしても、肝心の声がどうしても出せず、次第に息苦しくなって、呼吸が不善に陥ってしまって、返って彼の混乱を深めてしまう結果となってしまったのです。あぁ、やはり私は駄目な人間だなと、心底から嫌になりましたが、その時、彼は「大丈夫かい」と背中をさすってくれたのでした。その愛撫は細やかで慈しみがあって、彼の手の温もりが、とても至福に感じられました。そして彼の暖かさが、優しさが私だけのものであると思い上がってしまったのです(彼が私以外の人にも大層優しく、また、いい顔をしたがるのは後になって知った事でした)。私は涙を浮かべ、彼を見つめました。すると、そっと抱き寄せられて、また、薄い胸板を涙で濡らしてしまったのでした。けれど彼は気にもしない様子で昨夜のように頭を撫でてくれて、やはり昨夜と同じように「大丈夫だよ」と言ってくれたのです。私はもう、それだけで自分の生が肯定されたような気がして、幻滅していた事などすっかり忘れて、私は彼を愛していると確信したのでした。


「好きです。私、仰木さんが、好きです」


 病から生じる発作と同じく、私は告白を胸に留めておく事ができませんでした。喪失の痛みも窒息の苦しみも、その極めて衝動的で愚直な患いには敵わず、全てが彼によってもたらされた邪な情念によって覆されてしまったのです。


「冗談かい? いや、まいったな。昨日は悪かったよ。犬にでも噛まれたと思ってほしい。僕なんかじゃ、君を幸せにできやしないんだからね」


「そんな事ありません。私、貴方が好きで、貴方さえいれば、もう十分なんです。けれど、それが許されない事だって、分かっています。ごめんなさい。私なんかが、申し訳ありません……」



 卸したてであろう、しっかりノリの付いたシャツが雫に濡れて、彼の白い肌が目に映りました。薄氷が張った池のように青白い素裸は私の体温で溶けてしまうのではないかと思いました。その病的な色彩が私を虜にし、永遠に添い遂げたいと更に昂らせるのです。頭の中はもう、ひたすらに彼についての事しか浮かびませんでした。


「嬉しいよ。僕も、君が好きさ」


 それが彼の返答でした。


 天にも昇る気持ちでした。私はその時初めて恋をして、初めて愛してもらったのです。女として生まれて、これが幸福でないわけがありません。けれどその恋慕が、本当に純なる気持ちであるかと言われると答え難いもので、優しくしてくれる人であれば、そう、例えば、お歌の先生でも、私はよかったのかもしれません。しかし当時の私は、彼に抱いていた感情が絶対的なものであり、恋という果実が、瑞々しく甘いものだと信じて疑わず、物語のような幻想を夢見ていたのでした。




 彼はその後、三日ほど滞在しました。その間、夜毎にお酒に付き合わされ、肌を重ね、「好きだ」と、「愛している」と囁かれその気になって、私は潰れた床の中で淫奔となって彼を求めるふりをしました。夜のお相手をするのは、お酌もお床も苦痛でしたけれど、彼が私を必要としてくれる事が、それ以上に嬉しくって、幸せで、命が煌めいている気がしたのです。

 三日が経つと、朝早くから出立する彼を見送りました。その際、「また会いましょう」と言って誓ったのですが、その約定が何だか心細く、儚いもののようで、残された私は立ち尽くして雲を眺め、肩を震わせました。

 汽車が出ていくと、雑踏が私を呑み込んでいくばかりでした。

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