第十三話

 一月も半ばが過ぎると、定食屋さんの仕事が始まりましたが、薄く暗かった気分はすっかりと晴れやかになり、未だお正月気分が抜けやらぬおじさんやおばさんの相手をするのも苦ではありませんでした。けれど、普段は朴訥な《ぼくとつ》な店の方が、そんな時に限っては妙に聡く、「楽しそうやけん、いい人でもできたっと?」なんて、隙間だらけの歯を見せてくるのですから、誤魔化すのに難儀しました。

 隠すつもりはありませんでした。ただ、恥ずかしくもあり、また、口にすると気持ちが消えてしまいそうで、憚られました。


 二月になりました。彼から一通。一通だけ、手紙が届きました。


「まだ忙しい。みんな僕に頼りやがるものだから何とも困っている。もう少しだけ、待っていてください。落ち着いたら、必ず会いにいく。君のDoudouより。Ma museへ」


 軽い、橙色の便箋に一通だけ入っていた手紙に書かれていました。本当に簡潔で、もっと、もう少し、ほんの僅かでもいいから、長く、一行でも長く筆を走らせていただきたかったのですが、事情が事情でしたし、いっても仕方がない事でしたから、無理はなさらぬようにと、障りのない挨拶と近況を添えてお返事を出しました。新年の舞い上がりは嘘のように消沈しておりました。それはもう、世界が終焉を迎えたかのような落ち込み具合だったと思います。また、元に戻ってしまいました。手紙が途切れ一人の時間が有り余ると、彼との距離が急に実感させられ、孤独が心を揺らしたのです。二人のえにしは、時流の揺らぎに悪戯された細い糸であり、手繰っても手繰っても、決してぶつかり合わぬ、出鱈目な結びから生じた悲劇であるのではないかと、嘆かずにはいられなかったのです。一緒にいたいという、それだけの望みが、手を伸ばしても触れられない霞のような虚を映していて、不味い戯曲のように思えてしまうのでした。


 また、一つ月が経ちました。

 彼から離れているのが当たり前となり、またお稽古が始まりました。


 やる気などとうになくなっていたのですが、「最近お顔を見せいません」と催促の便りが届きましたし、卑しくも「お金も払っているし」と貧乏な思考が働きましたので、無理に身体を動かして、再び歌いに行くようになったのです。すると一週間くらい経つ頃に個別で先生に呼ばれまして「録音してあげますから、私の知り合いの方の事務所へテープを送りましょう」と言われたのでした。最初は「滅相もありません」とお断りしたのですが、「絶対悪い結果にはならないから」と押し切られてしまいまして、渋々とスタジオへと入り、マイクの前で歌って、それで終わりだとおもったのですが、もう一と月が経つと、先生が「良い報せですよ」と息を弾ませて私を呼んだのでした。


「あちらがね、是非、貴女に会ってみたいと仰られているんですよ」


 先生はいつも以上に口角上がっていらっしゃいました。その表情は、能面のような不気味さがあり、私は身構えました。


「あちらとは、どちらでしょうか」


「いやね。以前録音したテープを送った方ですよ」


 悪い冗談かと思いました。けれど、先生があれやこれやと説明しながら資料を取り出して、「お洋服は準備しますね」とか、「御髪おくしも整えないと」とか、話を進めていくのを見ておりますと、それが虚偽でない事が明白となり、徐々に重圧と緊張に襲われ、先生の説明が終わる頃にはすっかりと怖気付いてしまっていたのでした。


「先生。私、怖いです」


 好き勝手に喋り続ける先生を制し、心中を吐露しました。確かに転機かもしれません。千載一遇の好機なのかもしれません。けれど、いざ目の前に夢が転がってきますとそれは絶対的な大きさで、恒星が如く輝いて見えるのです。直視すれば失明に至る程に、その揺らめきは眩しく、私には耐え難いものでした。


「大丈夫ですよ。そんなに弱気にならなくったって」


「いえ、やはり、過ぎたお話しです。それに私、別に歌手になりたいわけじゃないんです。普通に生きて、普通に結婚して、旦那さんに毎日ご飯をつくってあげるような人生が、丁度いいんです」


 先生にはオペラ歌手になりたいとは伝えていませんでした。本気ではないと、あくまで遊びであると念を押し、恥をかかぬよう矮小にお稽古を続けていたのです。その為に辞退する理由が成立し、容易にご破算になるだろうと腹積もりを決めていたのですが、先生の態度は一向に軟化する姿勢を見せず、ますます意固地になっていくのでした。



「貴女には才能があるんですから、それを潰すような真似は良くないですよ。お話しだけでも聞いてみたらいかがですか?」


「けれど、私は……」


「こんな機会、他の人にはない事なんですよ。それを無駄にするだなんて貴女、まったくもったいないし、とんでもない話で、そんな人

私は許す事ができません」


「でも……」


「いいですね。私が話しておいてあげますから、行ってきなさい」



 普段は聞かない声をして、普段は見られない顔をして、先生は詰め寄り、終いには私の意向など無視して、相手の方と取り次ぎをしてしまいました。

 先生は私に「行ってきなさい」と命じたのです。犬か猫に躾でもするかのように、冷たい目で命じたのです。昔の事を思い出しました。虐げられていた幼少の頃を、虫のように虐げられていたあの時の事を。


「偽善者」


 それはAちゃんの言葉でした。どうして分かりませんが、彼女の言葉が頭に浮かびました。封じ込めていた辛苦が溢れ、忘れ難い、いえ、あの時は感じられなかった、知らなかった怨嗟か、私の胸に犇いていたのです。


 ただただ難く、恨めしく思いました。けれど、その感情をどこに向けるのかは、私には分かりませんでした。

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