第二十話

 荷物をまとめて、お昼頃にはもう家を出ました。

 おばあさんとおじいさんにもう帰ると言いますと、「急に来たと思ったら急に帰るっちゃ、どしたね」と心配をされまして、「もっとおったらええじゃろ」と引き留められましたが、友達と遊ぶ約束がある事にしてお断りしたのでした。つまらない嘘に罪悪感を覚えながら田んぼと畑しかない道を辿りますと、公衆電話が見えてきまして、ポケットに入れた、母の連絡先が書かれた手紙が重く、石のような質感で己の存在を誇示しているかのように思えました。このまま連絡せず、全てをなかった事にすれば、誰もが一切の憂慮も不愉快も感じずに済むのでしたが、一度決心した以上はおばあさんの意を汲まねばならないと立ち止まり、受話器を持つも、それまでで、ダイヤルを回す手は凍りついたかの如く冷たく動きません。昼過ぎなのに人影一つない田舎道の公衆電話の前で、身動きすらせず一人佇む私は、きっと木偶の田舎娘みたいなタイトルがつけられるような画となっていた事でしょう。そう考えると、無性に動かなければならないと焦燥し、急いで固まった指を動かして電話をかけるのでした。呼び出す音が何度か続き、諦めようかと思った矢先、受話器がプツンと音を立て、「もしもし」という声が聞こえてきたのでした。その声の主は、時折私に呪詛を唱える、あの母で間違いありませんでした。


「どなたかしら。あけちゃん? かすみちゃん?」


 知らない名前を羅列する母の声には一切の陰りがなく、気にも止めていなかったとはいえ、子を捨てた親がこうも溌剌はつらつとしているものかと驚きました。


「違うの? ねぇ、どなた?」


 ハキハキとした口調に少しばかりの怒りを、自分だけ幸せそうに、私の知らない他人の名前を呼ぶ声に憎しみを覚えましたら、忘れていた言葉がすっと口から滑り出し「お久しぶりです」と、発する事ができました。


「どちらかしら。ごめんなさい。お名前を教えてくださる?」


「私ですお母さん。栄香です」


 名乗っただけで自分が偉大な事をやってのけたような錯覚に陥りました。未だ不倒の秘境に足を踏み入れ自国の旗を立てたような気になりました。私にとってはその瞬間は、先延ばしににしていた難題をようやく解決した時の達成感と同じでした。けれど母は、、そんな私の偉業など瑣末であると言わんばかりに大声を上げ、歓喜の台詞を吐いたのです。


「あら久しぶりじゃない! 元気だったかしら。声が聞けて嬉しいわ」


 思わぬ反応にすっかりと毒気を抜かれてしまいました。母の声は心底明るく、負い目も罪悪感もまったく伝わらずに、こちらが一抹の憎悪を抱き始めたのが馬鹿らしくなるくらいな楽天を示したのでした。そして、矢継ぎ早の質問攻めも、私を辟易とさせました。


「幾つになったの?」


「何してるの?」


「どこに住んでいるの」


「お金は大丈夫?」


 閉口し、押し黙ってしまいました。

 ようやくの思いで声が出たというのに母は私のその決意を知らん顔し、あっけらかんと無意味な質問を繰り返したのです。

 きっと母は私の気持ちなど微塵も考慮しなかったのでしょう。私がどれだけの葛藤を経て自分に連絡をしたか蚊ほどの思案すらしなかったに違いありません。母は、私達を捨てた時と同じように、自分の事だけ、自分の幸福だけを考えて、自分が幸せなら他人の苦しみなどどうでもいいと、きっとそういう風に戯けながら私からの電話にお間抜けな挨拶を返したのです。母にとっては私など道端の石に等しく、また、石に抱く愛も憎もなかったのです。石は所詮石。私は、道に落ちている希薄な存在なのでした。

 それだから、軽々しくも簡単に、不用意な一言を放でたのでしょう。まったくの悪意も善意もなく、いとも容易く、無意識に。


「今から会いましょうよ。今、近くにいるんでしょう?」


 正直に告白しますと、母と対面したいという気持ちはありました。それが愛情かといえばまた別なのですが、好奇心というか、一種の怖いもの見たさで生じた粗悪な感情は、確かに持っていました。持ってはいましたが、こう簡単に事が運びますと、幻滅というのか、失望というのか、それとも、単なる拍子抜けなのでしょうか、ともかく、母に何かしらの負い目がなければ私の自慰的な、他害的な嗜虐満たされなかったのです。母には私を邪険にするか、そうでなければ、自責に押し潰されそうな後ろめたさを感じていてほしかったのでした。



「どうかしら」と急かす母の誘いを受け、私は「分かりました」と承諾し、駅の近くの喫茶店で会う約束をしました。

 不本意でしたが、毒を食らわば。もしくは、乗りかかった船。といった心境でした。自棄といっても誤りではなかったでしょう。事実どちらでもよく、またどうなってもかまわないという気持ちではありましたから、恐れる事なく向かう事がでました。


「それじゃあ、また後でね。楽しみね」


 軽薄な言葉を吐いて母は電話を下ろしました。受話器越しに聞こえる電子音が耳に波打つ度、ふつふつと、えも言われぬ情動が私の胸を打ち、持っていた鞄を地面に叩きつけ、蹴り飛ばしてしまいました。

 我に帰ると後悔し溜息を吐きました。周りには誰もいませんでしたが、誰かに見られているようでバツが悪く、急ぎ足で、約束した喫茶店へと向かいました。自分がなぜこの時に鞄を蹴ってしまったのかは、今でも分からずにいます。

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