第二十一話
駅までの道中は誰とも会う事はありませんでしたが、さすがに駅前に着きますとちらほら人の姿が見えまして、皆、田舎育ち特有の目で私を見ては、何か言いたそうな、ニヤついた嘲笑を浮かべていました。よそ者を見ると、二人以上であれば誰だあれはと噂話を始め、一人ならば不躾に観察を始めるのが私の故郷の慣わしなのでした。約束した喫茶店に入っても当然それは続き、店員の人からは訝しげに見られ、散見される人の頭はチラチラとこちらに微動します。彼らにはデリカシーや配慮といった概念はなく、賢しい獣と同じなのです。しかし、やはりそれが、遠巻きではなく直接向けられると、参ってしまいます。席に座っているとやってきた店の方に、暖かい紅茶を頼みましたら、「レモンとミルクがございますが」と、愛想悪く威圧的に聞かれましたので臆してしまい、しっかりと声が出せず、「レモン」と何度も繰り返すはめとなり、陽に焼けた女給は終始不機嫌な目つきで見下ろして、ようやく意思の疎通が叶いますと、「とろいわね」と、私に聞こえるように独り言ち引っ込んで行ったのでした。
紅茶と母を待つ時間は長く感じました。
待てども待てども、どちらも訪れる気配は一向に訪れず、安いビニールのソファに座って晒し者になっていました。ふと奥の方に気を取られますと、私にオーダーを取りにきた女給が、他の女給と一緒に私を瞥しては冷血な微笑を浮かべているのが見えました。落ち込みましたが、どうしようもなく、小さな氷が浮んだ水を飲み紛らわせるしかありませんでした。その水を飲み終わる頃、カランと入口の扉が開く音が聞こえますと、「栄香ちゃん!」と人の名前を大きく、下品に呼ぶ声がしました。それが、母でした。
「久しぶりじゃない! 元気だったかしら! 私ったら、ずっと貴女に会いたかったのよ! 婆に連絡先を渡したのに、ちっとも電話がこないから、あの死に損ないが貴女に教えていないんじゃないかって、怒っていたのよ!」
母は喚き散らしながら対面に座り「冷コーちょうだい」と、無遠慮にオーダーをするとニコニコと気色の悪い顔をして私をじっと見据えました。それは娘の成長を確かめるといった類のものではなく、何か別の、もっと邪で悍ましいもののように思え吐き気を覚えました。
「それにしても、本当に綺麗になったわね! もう少し、痩せていた方がもっと綺麗だとは思うけれど……」
そう言う母は確かに細く枝のような手足をしていましたが、それはやはり昔と同じで、やつれているという方が正しい体躯なのでした。
「それにしても、貴女ももう大学生だなんて、時間が経つのは早いわねぇ」
中身のない、無意味な、一方的な話が続きます。声も、身体も、昔とまったく変わらない、私の中に現れては脅かしてくる、あの妖怪みたいな不気味さのまま母は私の前に存在していたのです。
「そちらは、どうですか。今の生活は」
「まぁまぁよ」
私が問うと、母はそれだけ口にしてまた無意味な話を始めます。きっと、悲惨な生活をしているのだと直感できました。母のわざとらしい上品ぶったお粗末な言葉遣いは不自然極まりなく、育ちの悪さが伺える所作や端々の台詞に、無理して美しく見せようとしている成金めいた下品さが垣間見えたのです。母はそんな人間性のまま生きていられる場所にいたのでしょう。それを隠す為に自分の話は聞かせなかったのでしょう。母は私に見栄を張ったのです。そして、きっと同じように他の人達のまえでも華やかなフリをしているのでしょう。だって、そうでなければ、皺だらけの、秋用のブランドスーツを着ているわけがないのですから。しかしその見栄はやはり見栄えでしかなく形ばかりのもので、母の精神性は粗野で下品な田舎者の薄汚さが露わとなった俗物の意気地が如実に反映されていたのでした。
「ところで栄香ちゃん。栄香ちゃんはいま、どうやってお金を工面しているの?」
期待に満ちた声が私の耳に弾んできました。母は乞食が物をねだるような、動物が餌を欲しているような、媚びた眼をしてお金の話をしてきたのです。
「実はね。お母さん、少し、お金で困っていて……」
そう切り出された母の話は、自分が如何に不幸で惨めで哀れかという、悲劇めいた一人語りでした。「貴女を産んだ時は本当に嬉しかった」「お金はなかったけれど私も苦心した」「稼ぎのない
「悪いけれど、少し、ほんの少しだけ、お母さんの為に工面してくれないかしら」
先までの悲壮な想は消え、いやらしい下等な人間の歪みが見えました。その歪みは彼や松井さんや先生が見せたものと似た醜悪なもので、穢れていました。
こうした不浄なる人達は私を、いえ、私を含んだ、弱く、脆い人間を探し、利用しているのです。弱い人間は、彼らの卑怯を前にして屈するか逃げるしかありません。けれど、けれど私は……
「ねぇ。お願いだから」
ヒビ割れたビー玉みたいな色をした両眼を据えて母は甘ったるい、気持ちの悪い声を出しました。
私は、壊れたオルガンのような癪に障る音を奏でる母を見据え、はっきりと、生まれて初めて、自分の為に、自らの感情を、凄むことなく他人に向けました。
「申し訳ありませんが、お断りします」
母はしばらく固まったままでした。きっと、私の発した言葉の意味が分からなかったのだと思います。それでも私はじっと母の
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