第十九話

 悠々とした時間を過ごす内、父の帰宅が遅い事に気が付きました。時間は夜の十時を回っており、外でお酒を飲んでいたとしても、いつもなら帰宅して、一人飲み直している頃合いでした。それが、父の部屋はがらんと静まり、かといって玄関が開く気配もないのです。流石に心配となりおばさんの方を見ますと、どうやら察したらしく、目配せをして首を横に振るのでした。父は家を出ていったという意味でした。その話題が禁忌となっている事も、おばあさんの眼から語られていました。となれば、姿の見えない弟も、父と供に何処へと消えたのだと理解できます。あぁ見えて義理堅い性格でしたから、きっと父一人を見捨ててはおけなかったのでしょう。だからといって、特別何か思うところはありませんでしたが。


 居間でそこそこにお話を合わせて、私は寝支度をいたしました。思えば一日のほとんどを移動に費やしていましたから、足を伸ばして横になるだけで安楽となり、すぐに眠気が訪れ、フローリングにベッドの寮とは違って、畳に直に敷いた布団が心地よく、重い身体が包まれるように沈んでいきました。すぐにうととして微睡みに落ちるところでしたが、部屋の部屋襖を叩く音が聞こえまして、それが二度、三度続きましたから、やや眉間にしわを寄せ、目を掻きながら引きますと、おばあさんが青白い顔をして座っておりまして、その白雪の色をした人肌に、一瞬夢でも見ているのかと思いましたが、「栄香ちゃん」と呼ぶ声は確かにおばあさんのものであり、それを聞いている耳もまた、現実の私のものなのでした。


「今、えぇかい?」


 神妙そうにそう聞くので私は断れず、おばあさんを部屋へ入れ、欠伸を噛み殺して「どうしたの」と問いますと、「あんたのおとうの事やんけど」と、心底申し訳ないという風に顔を落としました。

 おばあさんが言うには、父はおじいさんが隠していたお金を横奪し、弟共々家を出ていったとの事でした。そして、そうなってしまった原因が、自分にあると自責しており、まるで罪状を告白するようにそれを吐露するのでした。


あんしがあれに、じいなんはあんたの娘、息子の為に銭貯めとるがや、あんたは何やっとーね。なんて言ってしもうたん。したら、あれが何やごそごそとやり始めて……」


 涙こそ落とさなかったものの、おばあさんは泣いていました。しきりに「あんたにゃ申し訳ない」という姿は痛ましく、どうしても直視できるものではありませんでした。

 肩身が狭く、罪悪感が生まれました。帰ってくるのではなかったと後悔しました。結局、私の居場所はどこにもなかったのです。私を取り巻く環境が、人々が、私を排斥しようと、帰る場所などないと嘲笑うのです。運命の潮流が私を難破させるのです。どこに居ても、どこへ行っても私は不純物でした。必要とされない海辺のかかしでした。


「おばあさん。大丈夫やから、今日はもう寝よ」


 尚も贖罪のように頭を下げ続けるおばあさんを慰し部屋に戻すと、私は明日には家を発とうと決心しました。しかし、その前に一つ厄介を抱えてしまっていました。元より予定があったわけでもなく目的も空でしたので惜別の感が挟まることはありませんでしたが、おばあさんが最後に言った一言に、難儀したのです。


「あんたのおかあの場所教えたるけん、会ってきんさい」


 おばあさんはそう言って一枚の紙を押し付けていったのです。渡された紙には、電話番号と住所が、震えた字で伸びていました。


 母に対して愛情はなく、それどころか、憎らしく思っていました。むやみに痩せているばかりで私を怖がらせていたばかりか、時折私の中に現れては「醜いねぇ痩せないとねぇ」と呪詛を唱える悪霊に、どうして子の親愛を寄せる事ができるでしょうか。私はかつて母より疎ましく思った人間はおりません。そんな人間と会って、いったい何を話せというのか。いったいどう接したらいいのか皆目見当がつきませんでした。けれど、震え伸びた文字が、おばあさんの小さな肩が思い出されると、その意思に添わねば不孝な気がして、然もありなんと、明日、電話だけでもしてやろうという心境に至ったのでした。

 あれだけ強かった睡魔が、もうすっかりと失せてしまっていました。自分を産んだというだけの存在である母に、どんな話をするのかさっぱり分からず、思案が閉眼を許さなかったのです。否が応でも考えさせられる両親について私はこれまで無関心でいましたから納得のいく結論も出せず、義理以外に母と会う理由を見つけられませんでした。そして勿論それは私の都合なのですから、向こうとしたらそんな消極的な理由すらなく、いきなり捨てた娘から「お久しぶりです」と連絡が着ても困惑の感情しか湧かないでしょう。もはやお互い血の繋がりのある他人なわけですから当たり前なのですけれど、おばあさんは未だ親子の縁が切れていないと勘違いなされていらぬお節介をなされたのです。この上ない迷惑を賜ったと、憂鬱となりながら、朝を迎えました。意識がない時間があったので恐らく眠れたのでしょうが、身体は重く、気分は地に落ちていました。

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