第十八話

 再び列車に揺られて一日が経ち、雨跡が消える頃に、車掌さんが「次は、やず」と二回繰り返して伝えますと、程なくして見知った、人の気がない寂れた駅へと到着しました。私一人しかいないプラットホームには不気味ささえ感じさせる無機物の塊でした。もう夜でしたので当たり前といえば当たり前なのですが、大学の近くの駅は夜遅くまで賑わい、朝まで喧騒が絶えぬものですから、思ったよりも静寂に響く虫の声が心細くさせたのかもしれません。

 改札には、私が子供の頃からいた、おじいさんが眠たそうに窓口に立っていました。白髪が斑らに生えた真珠頭で、その事を近くの悪童達にからかわれていたものでした。


「はい。遠いから遥々ようきんさったね。何もないとこやけんど、長ういさってくんさい」


「ありがとうございます」


 おじいさんは私を憶えてはいませんでした。特別親しかったわけでもなく、接点があったわけでもないので当然なのですか、生まれ故郷そのものから私の存在が忘れ去られてしまったように思えてしまいました。故郷に別段思い入れはありません。むしろ、嫌な記憶しか浮かんでこないのですが、自分がいなかったかのでは。と考えてしまうと、どれだけ惨めな時を過ごしていたとしても、寒心し、鬼胎を抱えてしまうのです。そうしますと、散々辿ったはずの道すら朧げとなり、私が帰ろうとしている家は、本当に私が生まれ育った場所なのかと疑心が募って、一歩を踏み出すのが恐ろしく、更ける夜の長さに声を上げてしまいそうになりました。けれど、進んでいる以上は距離が縮まるのは道理で、月明かりに何度か雲が通過しますと、十八まで過ごしました、畑に囲まれた土臭い家に到着したのでした。他にしようもないものですから玄関の前まで行きますと、戸を叩こうとした手が震え、そのまま駅へ戻って、寮まで引き返したくなりましたが、もはや動いている列車はなく、また、どうしても向こうでの生活に耐えられそうにもなかったので、意を決して、磨りガラスが挟まれた引き戸に、小さく握った手の甲を当てますと、すぐに「はぁい」と、おばあさんの声がして、古い玄関がガラガラと引かれたのでした。


「あじゃ。栄香ちゃん。どうしたん急に。ま、中いれーさい。なんあったか知れんけ、えらっしゃろ。風呂も湧かしたるけん、入っちゃーよ」


 おばあさんは大層驚いた顔をしましたが、一切の邪もなく、私を向かい入れてくれました。先までの不安がまるで馬鹿らしく感じるくらいの優しさが、私を包んでくれました。言われるがままお風呂に入り、部屋着に着替えますとご飯が用意されていて、「残りもんやけんど」と、箸を勧めてくれましたから、煮付けやおひたしや漬物をいただきますと、実に懐かしい気持ちがこみ上げてきまして、おじいさんやおばあさんに遊んでもらった事や、コゲに話しかけたりした事が巡り、感に入ってしまいました。良くない記憶しかなかったのは確かなのですが、その中で得た、かけがえのない出来事は確かに存在しており、それが脳裏に浮かびますと、一瞬、ほんの一瞬ですが、住み慣れたお家へ帰ってきたくなりました。この埃にまみれた古屋で、土弄りをするのも悪くないなと、つい考えてしまったのです。



 そんな風に感傷に浸りながら出された料理を食べていると襖が開きました。お酒を持ったおじいさんが、そこに立っていました。


「よぉ来たのぉ栄ちゃん」


 おじいさんは珍しく大層酔っていらして、顔が真っ赤になっていましたから、おばあさんに大丈夫かと聞きますと、「さもない」と一笑し、私にお茶をくんでくれました。


「じいなん、栄香ちゃんが来た聞いて、嬉しゅうて大酒を喰らいよったん。だらじっとーよ」


「えらん事言うねや。酒くらいって飲ませぇ」


 おじいさんは文句をつけましたが楽しそうで、お酒をガブと飲んでは、私をじっと見据え、「よく育っちゃのぉ」と嬉しそうに呟いていました。同じお酒の席なのに、彼がいた、あの場末のお店の中にいた人達とは違って頗る気持ちよく、嫌味のない飲み方をなされていました。


「大学はどうやね? 楽そうやっとんね?」


「はい。勉強もやり甲斐があって、進学してよかったなと思います」


 微塵も楽しい事なんてなく、勉学も捗ってはいませんでしたが、多少の方便は許されるでしょう。さもなければ、せっかく楽しくお酒を飲まれていたおじいさんと、もてなしてくれたおばあさんに申し訳がありません。ですから会話の中で、突然休校となり、一週間ほど暇になったと虚偽を披露したとしてもいったいどうして咎められる事がありましょうか。

 現実は、生きるという事は易くはなく、それを声に出すのは難く、人に弱みを晒すのは大変な無礼である気がします。恥多く、愚かに生きてきた私ですけれど、それを厚かましく口に出すのはやはり良心が痛み、苦しく感じるのです。例え、誰かに吐露したくなったとしても、それは許されざる悪徳で是非を問うまでもありません。昔から惰弱で、希望する大学にも落第し、あまつさえ堕落した生活を送っている私は、咎人以外の何者でもないのです。真っ当に生きていられない私が唯一できる罪滅ぼしといえば、無事に卒業し、働き口を見つけて、月に幾らかのお金を送る事くらいしかありませんでした。夢も何もかも失った私には、もう、贖罪に生きる道しか、残されていないのですから。

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