第十五話
松井さんの口元は溶けたようにだらしなく半開きで、澱んだ瞳をして私をみていました。何を言わんとしているのか理解するまで少々の時間を要したのは、私にそういった類の知識がなかったからなのですが、松井さんのだらしない顔は、仰木さんが私を求めていた時と同じで、熟れた柿を潰したみたいな気色の悪さが全てを物語っていたのです。あるいは彼と出会っていませんでしたら、分からぬまま、なすがままになっていたか、分かっていても、どうしようもないと、同じようになすがままになっていたでしょう。けれど、私は会ってしまった。そう、彼と、仰木さんと出会ってしまったのです。
彼以外とそういう事をするのは嫌でした。彼以外に裸を見られるのは嫌でした。彼以外に、愛する人はいませんでした。
「私、帰ります」
手を振り払いそう言うと、松井さん一瞬驚いたような顔をしましたが、すぐに舌打ちをして、すぐに元の不機嫌な相へとお戻りました。
「それは結構。だが、それでは君は永遠に
、夢描いた歌の道には進めないが、いいのかね?」
その一言に、僅かな動揺が生まれました。私は松井さんにも先生にも、オペラ歌手になりたいだなんて言っていないのに、どうして夢だなんて、歌の道だなんて言葉が出てきたのか不思議に思ったのです。
「あのやかまし屋が寄越した手紙によると、君はずっと歌手になりたいと言っていたそうじゃないか。それを、こんなところでふいにして勿体無いとは思わないのかね。確かに君の歌は
やかまし屋というのが先生を指しているというのは理解できました。そして、この場で何が起こりうるかも知っていたのだと思います。
全ては私の預かり知らぬ所で事は進んでいたのです。私はこうした人間で、こうした道に進みたたいので、こうした話をすれば何でもいう事を聞くと、二人の間で公然と、あるいは、暗黙の内に形作られ、共有されていたのでした。
松井さんも、先生も、悲しい人のように思えました。人を利用し、何でも思い通りになると、私ならどう扱っても子細ないと踏んでいたその浅ましさが、道徳と倫理観の欠落が、どうしても可哀想に感じて、自分の事を棚に上げ、哀れんでしまったのです。
その時の私をどう見たのかは知りませんが、どうやら堪忍したと合点したらしく、松井さんは再び気色の悪い顔をして「分かったかい?」と囁くのでした。ですから、「やはり帰ります」と口にした瞬間はとてもおかしな表情をされて、エレベーターに向かう私に向かって「不細工め!」だとか、「死んでしまえ!」とか、散々に喚き散らし、筋書きの違う舞台に文句を付けたのです。
人生という舞台に台本はありません。にも関わらず、松井さんも先生も、ご自身の人生を、ご自身が書かれたと思い違いをしている節がありました。私のような小娘が勝手に動く事は許されていないと、自分達の歌劇に出演する役者の一人でなければならないと決めつけていたのです。私は……私ははっきりと、それは違うと、自らの生は、例え泥を啜り続ける惨めなものであったとしても、人に踊らされるものではないと、その時に、先に用意された艱難辛苦を歌ってやろうと、安い言葉ではありますが、覚悟したのでした。
エレベーターを降りホテルを出て、タクシーを使おうと思いましたが停留所は空で、待てども待てども暗闇をライトは訪れず、漆黒があるばかりでしたので、私は歩いて帰ることにしました。花咲く季節といえど夜風が肌に触れるとぽつりぽつりと鳥肌が立ち、綺麗ばかりでちっとも暖かくならない上等なお洋服に「役立たず」と悪態をついてしまいました。
響く「役立たず」という言葉。それは、発した本人である私に返ってきたようで、酷く頭が重くなり、それが引き金となって、今更ながらに逃げてしまってよかったのかと、失われた機会に未練を感じたのでした。もうオペラなんて、輝く未来なん叶わなくていいと、彼と一緒にいられればそれでいいと思っていたはずなのに、どうしてか、美しい衣装に包まれた自分の姿がセピア色となり、もう二度と戻らない夢の一欠片が粉々に砕けてしまったようで、自分自身の一部が欠落してしまったようで、大切な何かが、壊れてしまったようで……
どれくらい歩いたか分かりません。けれど、いつの間にか見たことのある景色が眼前に広がっていました。そこは彼と愛を誓い合った、彼に純潔を奪われた次の日に訪れた、温泉街の一角でした。ちらほらと人がいまして、賑やかな、あるいは淑やかな会話が所々で聞こえていました。けれど、私は一人でした。隣に彼はいせんでした。たった一人で、愛を誓った場所に立ち、たった一人で、悲しんでいるのでした。
彼に会いたいと思いました。私は、彼を愛していました。だから、だから会いたいと、一緒にいたいと、共に生きたいと、そう思ったのです。
川に、桜の花びらが流れていくのが見えました。私もこの川に流れていけば、彼の元へとたどり着けないかと、他愛ない妄想を抱きましたが、現実は、幸せそうな人達に囲まれた一匹の虫がいるだけで、途方も無い惨めさが残るだけでした。
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