第四話

 自分には無理だと思いつつも、あらぬ夢を捨てきれず、恥ずかしながら、どうすればあの芸術の海に飛び込む事ができるのかを紙に書いては、胸の律動に、あの時聞いたアルミーダの独唱を重ね、私は踊るのでした。


 いつかは歌劇の演者に。


 そう思うと、霧が晴れたような、この先の運命が祝福されているように思えたのです。自分があの舞台でアルミーダとして立つ幻覚を捉え、甘い感嘆を吐いては、砂漠を進む十字軍の騎士に恋をしているような気持ちとなるのでした。

 その途方も無い渇望は夜を過ごす度強く、鮮やかに彩りを増して、熱が籠り、狂おしくなるのです。歌いたい。演じたい。私の声を数多の人に聴かせたい。排斥されてきた人間が灼熱の電光の下に艶めく瞬間を、世界に残したい。そのような情念は際限もなく、理想の私を作り出す夢の水源は枯れる事を知らないのでした。救いようのない夢想家であるのを、人知れず誇ってさえいたのです。

 けれど、後にも先にもこの恥ずかしい夢を語ったのは一人だけでした。父には勿論の事、祖父母にさえ、私は私の気持ちを隠し通したのです。それは姑息で矮小な保身でした。どうせ反対されるし、言ったら引き返せなくなる。今は黙っておいて、お金を稼ぐようになったら、自分の力で勉強しようと自身に誓いを立てたのでした。誰にも語らず、誰も知らない間に、私は歌劇の姫となり、時に悲恋を、時に情熱を、時にサロメが如く悪女を魅せてやろうと、浅はかな意気を込めていたのです。もっとも、その夢を話した人には、私の醜悪な打算を見抜かれていたのですが……


 ともあれ私がそんな皮算用をしていたのは、偏に勉学の成績が秀でていたからでした。とはいっても、特別に何か想いがあったわけでも、また、優良であろうとしていたわけではありません。ただ、一人遊びに飽きたらノートを広げ、持て余した時間の慰みにと教科書に書かれた問題を解いていただけで、無理に修めていたわけではないのですが、その時の私は、「勉強をしていてよかった」と、即物的な言葉を声に出さず呟いたのでした。

 元よりそんなものだったので、学業に対して探究心や目的など皆無だったのですが、先生方は皆口を揃えて進学を勧めてくれたものですから、大学生というのも悪くないなと思いましたし、父も祖父母もその気になって「それくらいの金は工面してやろう」と、妙に力を入れていましたから、私は存外あっさりと、進学しますと人々に伝えたのでした。

 お金がないのは重々承知していましたが、奨学金も借りられると聞きそれほど心配はしませんでした。いえ、寧ろより楽観的なで、呆れるほど短慮でした。アルバイトもして、空いた時間で歌の稽古をしよう。私の過去や事情を知らない人とならきっと友達になれるだろう。ひょっとしたら、素敵な人との出会いもあるかもしれない。そうだ。断然、今より楽しく、幸せになれるのだ。私は、ようやく人生の春を迎え、若さを謳歌できるのだ。と、根拠もなく舞い上がっていたのでした。しかし、それは空想の中だけで完結する虚無でした。十八まで付いて回ってきた影が突然離れ、自分の立つ場所が、陽の当たる世界へと勝手に変換されるなど、あるはずがないのです。私を待っていたのは、後悔と恥辱でした。


 学舎で私が難関といわれる学校を受けると先生が発表なさいました。すると人達は、妙に優しく、また厳しく、私に近付いてくるのでした。




「凄いね」


「勉強だけはできるもんね」


「羨ましい」


「勉強教えてくれない?」


「どうして黙っているの?」


「お高く止まってるんだね」


「貧乏なくせに」





 


 いずれの声も苦しく、辛く思いました。毎日嘔吐をするようになりました。息ができず、何も考えられなくなり、夜も眠れなくなりました。




 試験の際、私は白紙で答案を提出しました。



 身体が痙攣し、眼に見えているものが一片の塊のように映り、聞こえてくる音は全て、非難するシュプレヒコールの幻聴となったのです。


 恐怖でした。何処か分からない場所へ突然引き込まれたのかと思い、平静を保ってはいられませんでした。試験の時間中、獣が徘徊する檻の中に閉じ込められている錯覚に陥り、ずっと身を縮めて、荒く吐き出したい息を抑えていました。そうして、何もできないまま、全ては終わったのでした。


 落第したと知ると、人達はまた、知らない顔をして私をいないように扱いました。影で話の種にされる事は少なからずありましまが、表では皆、かつてのように畜生を見る目で私を据えるのでした。

 他の大学に合格こそすれ、極めて平凡な、少し聡いか、並に勉学に明るければ誰でも門を叩ける一般的な、誇れも妬まれもしない場所でした。そこへ身を寄せると思うと、ただそれだけで、抱いていた憧れや目標や望みが絶たれてしまったような、そんな気がしたのでした。そしてその予感は無慈悲にも的中するのです。私に用意されていた道はやはり、それまでと変わらず、暗い、ジメとしたものだったのです。

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