第十六話

 彼に手紙を出したのはその少し後の事です。

 ただ会いたいとだけ書いた一枚の半紙が彼の元へ届いたかは定かではありません。結局、私宛に彼から便りが届く事は、もうなかったのですから。

 桜が散った、梅雨の前。部屋には相変わらず何もなく、湿った枕が転がるだけで、やる事といえば、日に一食のご飯と水を胃に入れ、定食屋さんで怠惰に働き、行きたくもない、行ったところで、頭に何も入らない講義へ出席するくらいのものでした。その間、先生から幾つか書簡が投げ込まれたのですが、読む気にもなれず、もう自棄となって「辞めます」と書いた紙とお金を封筒に入れて、お稽古をしていたお家のポストへ投函だけして、後は知らぬ顔をしていました。後になって見にいくと、そのお稽古場の玄関には「差し押さえ」と書かれた書状が貼り付けられておりました。それが少しさみしいなと思えたのは、自分の愚劣さが感情として現れた結果なのだと思います。

 ともあれ、私はもう夢も支えもなく、意味も意義もなく生きているだけの、人形にも劣る人間のできそこないとして存在していたのです。死にたいとすら考えられない空白がありました。消えたいと願う事すら煩わしい堕落がありました。私には、もう何をやる資格もなく、何もできずに死ぬまで生きなければならないという地獄しか待っていないと確信しておりました。

 でも、それならば、最後にもう一目だけあの人に、仰木さんに会いたいと、もう一度、愛していると伝えたいと、最後にわがままを通したいと、内から湧き上がる妄執めいた情念が私の身体を動かしたのです。気付けばトランクケースに荷物を詰めて、本島行きの、最後の列車に飛び乗っていました。

 平日の夜深く。人はまばらで取り留めもなく、車内では皆が皆、好きに、自由に席での暇を潰していて、一車両一車両が異なる混沌を形作り、夜に輪軸の軋みを響かせていました。その場においては混沌ですから、私もまた、混沌の一部であり、歳も性別も、顔の良、不良も関係がなく、群像として存在する人間の一部でしかありませんでした。互いが互いを知らず、話す事も聞く事もせず、ただ同じ列車に乗り合わせただけで、とくに縁があるわけでもない者同士が一個の集団となり同一の方角へと向かっているのです。不思議な気分でしたが、人間というものは生まれ持ってそうした性質があり、赤の他人と、永久的に関わり合っていかなければならないものなのであると、哲学めいた夢想が繰り広げられました。そう考えると、私の人生も少しは救われるような気がしました。好きで選んだ道でなければ幾らでも諦めはつくと、世の不条理こそが道理と思えば、理不尽は許容できると達観できたのです。

 列車は私の意思とは無関係に進んでいき、まるで時の流れのように正確に、残酷に、皆等しく進んでいきましあ。にも関わらず、嬉しそうにしている人もいれば、死地に向かうように項垂れている人も見られます。同じ道を往くのにこれだけ面持ちに差異が生じるのは、やはり混沌の一端として、それもまた無常の理なのだなと、妙に納得してしまうのでした。






 終着したのは陽が薄く広がる時間でした。

 どことなく空気が違って、不思議な開放感が得られました。ポツポツと歩く人々に流され、また列車を乗り継ぎ、彼が住む土地へ足を踏み入れたのはもうお昼過ぎで、さすがに少しお腹が空いたので、近くにあったお蕎麦屋さんに入り、もり蕎麦を少し残して引いてもらい、お店を出てからは、手紙の内容を頼りに、ひたすらに彼が足繁く通うお酒を飲むお店を探したのでした(お店の名前は手紙の中で、木偶の棒。と、仰っていました)。すると、思いの外早くに、そのお店は見つかりました。まだ陽が高いというのに、やたらとお酒の騒ぎが聞こえるお店がそこでした。戸を引くのに一瞬迷いましたが、彼に会う為にはと意を決し、二つ並ぶ、灯っていない赤提灯の間ををすり抜けてみると、汚い。というと失礼かもしれませんが、他に言いようのない、清潔感のない、歯の抜けた、垢が浮いた、赤黒い人達が犇いて、コップに入ったお酒を煽り、唇の端に泡を出しながら唾を飛ばしていたのでした。その内の一人が私に気が付くと、「誰だい娼婦おんなを呼んだお盛りは」と囃し立てまして、羽虫が騒めいたみたいに、一斉に下品なお調子を合わせましたたから圧倒されてしまってのですが、店主の方だけが我関せずと紫煙を燻らせていましたから、虫柱を通りそこまで歩き、「仰木さんはいらっしゃいますか」とお尋ねしますと、訝しげに「あんた誰だい」と質問を返されたものですから、恥を忍んで「恋人です」と呟きましたら、途端に顔色をいやらしく歪め、一人合点がいったように私を見据えたのでした。


「なんだい。仰木さんが言っていた現地妻ってのはあんたかい。そりゃあ、遠いところから遥々ご苦労様。二階にいるから、よろしくやってくるといいよ」


 ニヤつきながら指された先には階段がありました。現地妻という言葉が酷く障りましたが、この先に彼がいると思えばそんなものは瑣末に感じられ、相変わらず続く下衆な音を背に、私はゆっくりと、薄暗い階段を登りました。


 登り切りますと、開けた、カビ臭い和室となっていました。置かれた膳を前に、惚けて座る人影が目に付きます。月明かりのない、一本の蝋燭が僅かに照らす寂しい部屋は、その人影が、ちびりと盃を傾けているというくらいしか分かりませんでしたが、それが彼だというのは確信が持て、思わず私は、薄暗い部屋を駆けて彼に抱きついてしまったのでした。


「仰木さん!」


 蝋燭の炎が揺らめき、彼の顔を映しますと、彼は困惑したように、迷惑のように眉の傾けていて、「やぁ」と、溜息交じりに吐き出して、お酒を飲みました。膳に、もう一つ盃があるのが見えました。その盃にはべったりと、紅の跡が付いていました。彼はそれを隠そうともせず、更には、その盃に干されたお酒を注ぎまして、「まぁ一杯やりなよ」と勧めてきたのでした。


 開いている窓から風が吹き、季節外れの風鈴が一鳴きしまして、酔いが覚めました。私はその時ようやく、全ての夢を諦める事ができたのでした。

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