第21話 神様はお別れをする

「ねえミィさん。お詣りしたら、神様パワー溜まっていくんでしょう? 私、いっぱいお供え物も持ってくるよ? そしたら、消えたりしないんでしょう?」


 七海は水たまりの中のミィさんを覗き込んで必死に言った。

 毎日手を合わせるし、お供えだってする。学校の先生にも話してみようと思う。この古いお社をお祀りしないと、学校に祟りがあるかもって噂を流すのも案外いいかもしれない。ミィさんが消えてしまうなんて絶対に嫌だった。

 白蛇の目が少し細められて、もしかして微笑んだのかなと思っていると、つつっと近寄ってきてくれた。


『七海はええ子やなあ……。めっちゃサービスしてくれるやん』

「は?」

『胸の谷間、見えてんで』


 ミィさんは水たまりの中にいるわけで、七海は前かがみになっているわけで、つまり襟ぐりの開いたTシャツの中がチラ見えしているということだ。


「ちょ、ちょっと! 見ないでよ!」


 胸を押さえて慌てて立ち上がった。


「お前、エロ蛇か!」

『翔太! 懲らしめてやるのじゃ! けしからん奴じゃ!』

『なんでえな、七海がしゃがむからやん』


 翔太とナッシーが怒鳴ると、ミィさんはウハハと笑った。大きな声でいっぱい笑って、それから水面を尻尾でピシャンと叩いた。


『わいな、ちょっくら水脈を辿る旅に出てみよかって思ってんねん……』


 その声は小さな声だったけど、翔太たちの文句をぴたりと止めてしまった。

 すーっと、水たまりの中をミィさんはまた泳ぎ始めた。


『別に消えてまうわけやないから心配せんでもええで……。あんな、ご神体の鏡にでっかい傷が付いてもうたんや。せやから、悪神にならんうちにさっさと離れよかって思ってん』


 寂しそうな呟きに、ナッシーが静かになるほどなと頷いた。そして、すたすたと草むらの奥へとすすみ、すっかり泥に汚れ無数の傷と窪みの付いた金属製の神鏡を拾い上げた。神様の依り代が、なんとも無残な状態になっていたのだ。

 しんと静まり返り、七海は何も言えなくなってしまった。

 鏡の泥を袖で拭きながら、ナッシーは七海の隣に戻ってくる。彼の声も、少し寂し気だった。


『誰のせいという訳でもないが、寂しいものじゃの』

『な、そんなに傷んどる鏡にいつまでも宿っとたら、今のわいにその気がなくても、恨みつらみが湧いてきてなんか悪神になりそうやろ? わい、そんなんになりたないし』

『なるほどのお……潮時というものかもしれんなぁ。まあ、気ままな一人旅というのも、なかなか良いものじゃぞ。千年旅したわしが言うのじゃから間違いない』


 こしこしと指で鏡の表面をこすり、背面も同じように軽く磨いてやるのだった。


『わいは、名なしのお前とは違うて、アホみたいに彷徨い歩くんとちゃうねんで。またいつかどっかで泉になって湧いてくるんやからなあ』

『やかましいわ! 一言多いぞ、この落ちぶれ白竜が!』

『お? おお! それや! わい白竜とも呼ばれとったわ! そうやったわ!思い出した! 名なしでも、たまには役に立つことあんねんなあ!』

『そんなもの、こっちは最初から分かっておったわ! 真っ白いなりした竜神といったら白竜じゃろうが、アホらしい!』


 プンとナッシーがそっぽを向くと、白蛇のミィさんの身体がぽわんと光り始めた。それは初め小さな光だったけど、だんだんと大きく膨らんでいって、七海の背と同じくらいの光の玉になった。

 不思議な光だった。キラキラ輝いているのに、眼に突き刺さるような眩しさではない。優しい光だった。

 呆然と見つめていると、ゆっくりと光が収まってゆき、中から真っ白な竜が姿を現わしたのだった。


 鱗が一枚一枚濡れたような輝きを放ち、二本の長い角はクリスタルのようで、頭部の白銀の毛が風に揺れると鱗粉のような光の粉が辺りに広がっていった。

 堂々と美しいその竜に、七海は見惚れるばかりだった。隣で翔太もゴクリと唾を飲んでいた。

 ナッシーは斜に構えて、でも目を優しく細めて竜になった、いや戻ったミィさんを眺めている。


『この白竜は、忘れっぽいアホじゃの』


 小憎たらしいこと言いつつ、ほんのり笑みを浮かべていた。

 竜は身をくねらせ、大きく口を開いた。ワハハと笑う声はミィさんのものだけど、空気を震わせるほどの大きな笑い声だった。


『アホは余計や。忘れっぽいも、お前が言うなや。せやけど一応礼は言うとくわ。わいの名前はなあ……』

『これ、真名をそう簡単に口にするでない。思いだしたのなら大事にせい。通称、白竜大神でよいではないか』

『……おおきにな』


 前にナッシーが言っていた。神様の名前は、神としての本質や実体や能力を現わすものなのだと。単なる呼び名ではなく、神の存在の全てを現わしているのだ。名前を人の前で口にするということは、全てを曝け出すということで、強みにもなれば弱みにもなる。だから易々と他人に教えて良いものではないのだろう。

 ナッシーはなんだか悟り切った仙人みたいな顔で微笑み、ミィさんを見つめている。そしてミィさんも。竜の表情は分かりにくいがきっと笑っているのだろう。目が細められていた。

 ミィさんは空中に浮かんだまま七海たちの周りをぐるぐると回り、それからまた水たまりの上に戻った。


『七海、翔太、元気でな』

「う、うん……。ミィさん、本当に旅にでちゃうの? ここに居てくれないの?」

『七海たちに会われへんようになるんは寂しいけどな……。さっきも言うたけど、わいのここでの役目はもうとっくに終わっててん。田んぼも湧き水もあらへんのやし……誰も覚えてへんし』

「でも、私が覚えてる! ちゃんと毎日会いにくるよ。ちゃんとお祀りするよ!」

『ありがとな。せやけど……七海は、人間はわいらみたいに長生きでけへんやん』


 ミィさんが言うまでもなく、もう七海にも分かっていた事だった。

 もしも一生ミィさんを祀ったとしても、七海の寿命が尽きたら、その時はまたミィさんは一人ぼっちだ。いつかは去っていくことになるのだろう。


『壊れた社やご神体にしがみついとっても、未練たらしいだけやん? 寂しいのん拗らせて悪神になってもうたら、この竜の姿にも戻れんようになるかもしれんやろ? それだけは絶対嫌やねん。自分で言うんもなんやけど、わい、めっちゃカッコええやんかぁ。せっかくのイケメンを台無しにするわけにはいけへんしなぁ』


 目がじんわりと熱かった。

 ふざけた物言いだけど、竜のミィさんは本当にカッコいいと思う。こんな美しい竜を見ることができて、とても幸せだと思う。この美しさを、悪神になることで失わせてはいけないとも思う。でも、無性に寂しいのだ。

 ミィさんにとっても、多分これは縁の巡り合わせなのだろう。きっと自分たちと出会ったことで、この地を去る決心がついたのだと、七海は思う。


『いっぺん地下水脈をどこまでも流れてみたかってん。めっちゃ気持ちええやろなぁ。わいは水の竜やから、流れていくうちに力を貯めることもできるし、いつかどっかで泉になって顔出すわ』

「……じゃあ、心配いらないのね」

『せやで。消えるんとちゃうねんから。……ほんなら、そろそろ行くわな』


 ミィさんは水面ギリギリまで、ぐっと頭を下げた。この水たまりから地下水の流れるところまで潜っていくのだろう。

 本当に行ってしまうのか、もうお別れなのかと、グッと唇を結んで見つめていたら、ミィさんはふと視線をこちらに戻した。


『ところで名なし。七海や翔太みたいに、わいらを見ることのできる人間を見つけられたっちゅうことは、名前に近づいとんのと違うか。知らんけど』

『そ、そうか? そなたもそう思うのか?』

『なんで、七海はお前を見ることができるんか、それをよう探ってみいや。お前にしかでけへんことやで? まあ、わいに言えるんはそんくらいや』


 ミィさんはじっとナッシーを見つめ、それから今度こそ本当に水の中に頭を突っ込んだ。水面はまるで鏡のようだった。

 大きな竜が入れるはずもない小さな水たまりなのに、長い胴がするすると吸い込まれてゆく。

 地面の下から、ミィさんの声が静かに響いてきた。


『ありがとな。ほな、さらばやでぇ』


 あっという間に竜のしっぽ先まで、全て水たまりの中に消えてしまった。

 不思議なことに、雨水でできた茶色く濁った水たまりだったのに、いつの間にか底が見えるくらい透明な水に変わっていた。そして、その水はどんどんと地面に吸い込まれていくのだった。


 しんと静かになった。

 やたらと、虫の声が大きく聞こえる。風が草木を揺らす音や、自分たちの呼吸の音さえも。

 先ほどまで間近に感じていた神々しい力は、もう去っていったのだなと、しみじみと思った。


「ミィさん、行っちゃったね……」

「別にそんなに急がなくてもいいのになあ。社、俺が作ってやるって言ってんのに……」


 翔太も少し残念そうだった。引き止めても無駄だったろうし、引き止めたいという思いは自分たちの我がままなのだと、なんとなく分かっていた。

 自分たちに出来ることはやった。でもこれ以上のことはできないのだ。

 立派なきちんとした社は作れないし、皆にミィさんの存在を知らせるのも難しいし、冷静に考えてみれば一生お祀りできる自信もない。ここでの役目を終えたミィさんを、無理やり引き止めるのはやっぱり我がままでしかないのだ。無いとは思うが、彼がもしも悪神になってしまった場合、何の責任も取れないのだし。


 それでもやはり、寂しいものは寂しい。

 神様相手に不謹慎かもしれないけど、友だちになれたと思っていたのだ。こんなにあっけなくお別れがくるなんて、七海は想像していなかった。


『翔太に任せると、社というより巣箱になるがのぉ』

「おい、こら! なんか文句あんのか。お前の段ボール巣箱、ぶっ潰そうか?」

『これ! なんという罰当たりなことを!』

 

 睨み合う二人を、七海がまあまあと宥める。すぐに人を煽るのはナッシーの悪い癖だと思う。まったく口の減らない呆れた神様だ。


「ミィさん、本当に大丈夫かなあ」

『全く心配いらん。そもそもアヤツが力を失くしたのは、自分で自分自身でもある水源を枯らすという、考えなしのアホをやらかしたからじゃと、わしは思うぞ』


 七海と翔太は顔を見合わせて苦笑した。他人をけなす言葉はそのまま自分に還ってくるんだということに、ナッシーはそろそろ気付いたほうがいいんではないかと思うのだった。

 ミィさんが消えた水たまりはもうお椀一杯くらいの水しかなく、三人はそれをじっと見つめるのだった。

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