第9話 神様は少しだけ奇跡を起こす
「母さん!」
七海たちが歩道を歩いていると、不意に道路の向こう側から声が聞こえた。五十くらいのおばさんが、目を吊りあげてこちらを見ていた。汗だくで髪を乱し、肩で息をしている。とても痩せていて、顔色も良くなかった。
そして車の流れが止まるのを見計らって、こちらに走ってくるのだ。
お婆さんの家の人だろうかと、七海は翔太と顔を見合わせ立ち止まった。
「母さん! 探したじゃないの、もう!」
苛立った声でおばさんは、近づいてくる。でも、お婆さんは自分に声をかけられているとも思わないようで、ゆっくりと進み続けていた。
『……幸子さんニャ』
猫又も立ち止まって呟いた。
やっぱりなと、七海はおばさんを見つめて思った。お婆さんの娘である幸子さんは、家から居なくなってしまった母親をずっと探しまわっていたのだろう。怒った顔は今にも泣きだしそうだった。
でも幸子さんは、お婆さんの前に立つと、はあと大きなため息をついただけだった。その後、七海たちを見て、悲しそうに笑った。
「もしかして母を看ていてくれたの? ごめんなさいね、迷惑だったでしょ」
「いえ、そんなことないです。大丈夫です。……交番に行こうとしてたことで……」
「ありがとう。本当にありがとうね。もしも事故に遭ってたらどうしようかと……」
幸子さんは目を潤ませて、唇を震わせていた。そしてがっくりと肩を落とし、深く俯いてしまった。
無事にお婆さんが家族と会えて良かったと、七海が微笑みかけた時、顔が見えないくらい俯いた幸子さんの低い呟きが聞こえてきた。
「もう嫌……目を離した私が悪いって、いつもいつも言われて……でも、一日中つきっきりで側にいられるわけないじゃない。生活があるのに。他の家族の世話もあるのに。毎日ずっと見張るなんてできやしない。私は休んじゃいけないの? 鍵かけて、お母さんを部屋に閉じ込めろって言うの……?」
七海たちに聞かせるというより、ただ思いが溢れてきてしまった、そんな風だった。どんな顔をしているのかは分からない。少し白髪の混じった髪が、小刻みに震えていた。
『……随分疲れておる様じゃの……』
ナッシーは幸子さんに近づき、優しくその手を撫でていた。もちろん幸子さんがナッシーに気付くことは無かったが、ふと我に返り目をこすると、ニコリと笑った。それは、少し無理のある笑顔だったけれど。
幸子さんはもう一度ありがとうと言って、七海と翔太に頭を下げた。
「さ、母さん帰るわよ」
「……あの、あなたどちらさん?」
お婆さんの声に、思わず幸子さんも七海たちも固まってしまった。
チラリと隣を伺うと、翔太も目を見開いて息を飲んでいた。
お婆さんは、必死に自分を探してくれた幸子さんのことも分からなくなっていたなんて。記憶が過去に飛んでいるのは分かっていたが、今一緒に暮らしている娘のことも忘れてしまうなんて。
七海も翔太も、一言も言葉を発することができないで、立ち尽くしてしまっていた。
幸子さんの顔がカッと赤くなり、引きつった笑いを浮かべて、お婆さんの手を握った。そして、嫌がって振り払おうをするお婆さんの手を強く引っ張った。
「いいから、さあ、もう行くよ!」
「……いやいや、止めて。私は家に帰らないと……」
「母さん!! どうして分からないの!?」
幸子さんの声が悲痛で、七海は思わず目を背けてしまった。こんな時、どうすればいいのかなんてまるで分らない。
猫は、力の無い声でニャウと鳴きながら、お婆さんと七海翔太の間を行ったり来たりしている。そして、ナッシーはみんなから少し離れて、じっと見つめていた。
実の親に忘れられしまったことも悲しいだろうし、その現場を自分たち見ず知らずに子どもに見られてしまったことも、幸子さんにとっては辛いことなんじゃないだろうか。
だから、早く立ち去った方がいいような気がして、七海は翔太に目配せした。
一瞬おどおどした翔太だったが、頭をボリボリと掻くと一歩前に出た。
いやいやと子どものように首を振っているお婆さん。それを強引に引っ張っていこうとしている幸子さんの肩を叩いた。
ギョッとして、七海は翔太のTシャツを引っ張った。帰ろうって合図だったのに、なんで幸子さんに近づくのよと、驚いていた。
でも、翔太は構わずに話かけた。
「あの、幸子さんっすよね?」
「え?」
幸子さんは、お婆さんを引っ張る手を緩めて振り返った。どうして、と言いかけて、ああ、と一人で納得していた。お婆さんが自分の名を言ったのだと気が付いたようだ。眉をしかめて、そうよと頷いた。
「お婆さん、幸子さんにバナナを買って帰るんだって、ずっと言ってたっす」
翔太が言うと、幸子さんの動きが止まってしまった。息までも止まってしまったかと思うくらい、じっと動かなくなってしまった。
そして、不意に幸子さんの目からポロポロと涙がこぼれた。
我慢していたものがあふれて、止まらなくなってしまったようだった。
「……子どもの頃、バナナが大好きで……遠足の日の朝に、バナナ持っていくって駄々こねて困らせたりして……。なんで、そんなことはいつまでも覚えてるの……孫の顔も分かんないくせに。私のことも分からなくなるくせに! なんでそんな他愛のないこと覚えてるの! どうして私を忘れちゃうのよ!」
両手で顔を押さえて、ついに幸子さんはわんわんと泣きじゃくってしまった。
通りすがりの人が、何事かとじろじろと見ている。でも七海と翔太に、幸子さんとお婆さんの壁になるように立つくらいしかできることが無い。
なんでバナナの話なんてしたのよと睨むと、翔太はまた頭を掻いた。そしてお婆さんの囁く。
「なあ婆ちゃん、バナナ買ってあげなよ。幸子さん泣いてっからさぁ……」
「翔太……」
『ほおほお、そうじゃの。そうじゃの。バナナ買って、二人で食べたらええ』
近づいてきたナッシーが、精一杯背伸びしてお婆さんの耳元にそう囁いた。
不思議なことに、七海にはその呟き声が虹色に輝いて見えた。一瞬、光の粉がお婆さんを包んだように見えたのだ。
そして、いやいやと頭を振り続けていたお婆さんが、ふと動きを止めた。それから目の前で泣いている幸子さんをじっと見つめた。
不思議そうに首を傾げ、目を瞬いた。
「どうしたの? 何泣いてるのよ、幸子」
「…………か、母さん?!」
お婆さんは、幸子さんの頭を撫でながら笑った。
さっき猫又を撫でていた時の笑顔とは違って、目に力強さがあるようで、七海はゴクリと唾を飲んで二人を見つめた。
「いやあねえ、いい歳して声上げて泣いたりして……」
「母さん……もう……母さんったら……元に戻ったのね?」
幸子さんはぶるぶると震えながら、お婆さんの腕を握った。気が抜けたのか、ガクリと膝をつき、縋るようにお婆さんに抱きついてしまった。
「母さん……どこにも行かないでよ……」
「あら……私、また何かやらかしちゃったのかねぇ」
「いいよ、もういいから……」
「いいのかい?」
幸子さんは泣きながら微笑んだ。そして、ほんの少し甘えた声で、子どもに戻ったような声で、お婆さんにおねだりした。
「うん……バナナ買ってくれたらね」
「あんた、小さい時からバナナが大好きだもんねぇ」
お婆さんがウフフと笑うと、幸子さんもアハハと笑ってゆっくりと立ち上がった。それから七海たちに軽く頭を下げ、じゃあ買いに行こうかと、二人は手を繋ぎゆっくりと歩き出した。
七海の目にもうっすらと涙が浮かんでいた。小さく小さく呟いた。
「ナッシーが思い出させてあげたの?」
『声をかけただけじゃ。他は、なんもしとらん……なんもできん』
さっきの虹色に輝いて見えたナッシーの呟き。意図してやったのかは分からないが、あの呟きがお婆さんの記憶の混乱を少し和らげたように七海には思えた。
「すごい……神様の奇跡だよね」
『まぐれじゃ。一時の気休めじゃ』
「…………」
お婆さんは幸子さんを思い出すことができた。でもそれは今日だけ、今だけかもしれない。ナッシーの力は弱いのだから。
明日は、また忘れてしまうのかもしれない。幸子さんはこれからもまた何度も忘れられるのかもしれない。そう思うと、七海は胸が苦しくなってしまった。
『切ないのぉ……』
呟くナッシーの声も寂し気だった。
そっと会釈する幸子さんに、七海と翔太も頭を下げた。帰る方向は同じだったけど、親子の邪魔をしないように、遠回りして帰ることにした。そして少しだけお婆さんたちを見送っていた。
お婆さんの少し楽し気な声が、風に乗って聞こえて来た。
「さっきねえ、幸子のお友達に会ったわよ。カーディガン脱いだらって何度も言っててねえ。あら、私カーディガンなんて着てたのねぇ」
七海はクスリと笑った。まだ友達と間違われていたが、別に悪い気はしない。
お婆さんは何もかもが分らなくなる訳じゃないらしい。猫のことも覚えていたし、七海の言ったこともちゃんと分かっていた。ただ、その時その時で理解できたりできなかったりするのだろう。
お婆さんはカーディガンを脱ぎながら、七海たちを振り返り手を振ってくれた。
「えっと……ショウコちゃんとナナオくんだったかしら?」
翔太がブフッと吹き出した。七海もアハハと笑った。そして大きく手を振り返す。
微妙に間違えていて、性別が反対になっていたけれど、お婆さんは七海たちが勝手に喋っていたことも、ちゃんと聞いていたのだ。なんだが、してやられたような気分で、でもそれが愉快だった。
「きっと、大丈夫だよね。何もかも忘れるなんて、無いよね」
「ん、まあ、そうかもな……」
七海に同意しながらも、歯切れの悪い翔太だった。なんなのよと、思っていると、不貞腐れているナッシーが目に入った。
――しまった……何もかも忘れているヤツがここにいたんだった……
ナッシーはこれでもかというくらい、プクーッと頬を膨らませて睨みつけて来た。
全て忘れるなんて無いよねっと言ったのが、相当気に入らなかったようだ。でも、それはお婆さんを見ての感想だったわけで、七海はナッシーのことをとやかく言ったわけではない。だから、そんな恨めしそうな顔で睨むのは筋違いというものだ。
「そ、そんな顔することないでしょ」
「そうだぞ! 忘れたのはお前の責任だろうが!」
ナッシーは、腕を組んで思い切りフンッとそっぽを向いた。
『あの婆さんに向けた同情や労わりの百万分の一でも、わしにも向けてみたらどうなのじゃ! わしには、忘れるなんておかしいだのなんだと言って、バカにしおってからに!』
プンスカ怒りながら、ナッシーは歩いていく。
すぐ横でフニャニャと笑った猫又の頭を、小さな拳で殴りつけて八つ当たりしていた。
なんの焼きもちなんだと、呆れてしまう七海だった。お婆さんとナッシーでは、事情が全然違うと思うのだ。
第一、名前探しを手伝ってあげているんだから、怒ることないのだ。そんなに年寄り扱いして欲しいなら、してあげなくもないが。
「ま、ひがみ野郎は放っておいて、取りあえずもう帰ろうぜ。今日はもう疲れた」
ひょいと猫又を抱え上げ、翔太はナッシーを見下した。
「それに、こいつに聞きたいことがあるんだろう? それが初めの目的だったんだし」
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