第8話 神様はずっと見てきた

 七海は、恐る恐るお婆さんに近づいた。

 そっと隣に並びチラチラと何度も様子を伺うのだが、お婆さんは七海を気にも留めず、ぼんやりと歩き続けている。

 何と声をかけようか、七海は迷っていた。

 この人は、もしかしたら認知症なんじゃないかと思うのだ。一人で外出して、道に迷ってしまったのではないかと。

 前に、認知症のお年寄りがふらりと出かけて、遠くまで行ってしまって帰ってこれなくなる、というのをテレビで見たことがあったのだ。


「……お、お婆さん、こんにちは」

「…………」


 お婆さんは、七海の方を見ることなく歩いてゆく。


「あの……。そのカーディガン脱ぎませんか?」


 見ているだけで暑苦しいし熱中症の心配もしているのだが、カーディガンの裏側やパジャマに、もしかしたら連絡先や名前が縫い付けてあるかもと思ったのだ。首からネームプレートなどを付けているかもしれない。

 帰れなくなった時に保護して、家に連絡してもらえるようにと、服に名札を付けるというのもテレビで知った知識だ。


「ほら、暑いし、カーディガンは要らないかなって……」

「……居なくなったのよ、猫ちゃん」

「え? あ、あの……さっきの白い猫のことですか?」

「そう真っ白な猫ちゃん……」


 カーディガンのことは耳に入っていないようだ。

 どうやって脱いでもらおうかと悩みつつ、七海は話を合わせた。


「お婆さんの猫なんですか?」

「何言ってるの、お婆ちゃんは猫嫌いだったでしょ。知らない? あの子、何処にいったの?」

「え? え? ……すみません、分かんないです」

「ほらあの時も、お父さんが探したけど見つからなくて」

「は、はあ……」

「幸子も猫が好きなのに」

「そ、そうですか……」


 なんだか全然話が見えなくて、わけが分らなかった。ナッシーの話以上に説明が欲しいと切に思ってしまう。


「ところで、あの、カーディガン脱ぎませんか?」


 我ながら唐突だなと苦笑しつつも言ってみた。

 相変わらず、お婆さんは七海を見ることもなく歩いている。


「どうして? 早く帰らないといけないのよ……幸子がお腹すかせてるからねえ」


 きっと、七海の言葉をわざと無視しているのでも、話題を逸らしているのでもないのだと思う。ただただ、お婆さんはお婆さんの胸の中にある言葉を、口にしているだけなのだろう。

 途方に暮れて、七海はとにかくお婆さんが事故に遭わないように、転んだりしないように見守りつつ、一緒に歩くばかりだった。早く翔太たちに戻って来て欲しいと、心から思っていた。

 なんとかかんとか話を合わせているうちに、お婆さんはホホホと笑って、やっと七海を見た。皺だらけだけど、優しい笑顔だった。でも少し眠そうな目で、七海を通り越してどこか遠くを見ているようで、それからとても疲れているように見えた。

 そして七海は、お婆さんの話にでてきた幸子という子の友達だと勘違いされてしまった。

 お婆さんは、幸子にバナナを買って帰るのだと、何度も繰り返していた。


「幸子と約束したのよ。今日は買ってあげるって」

 

 フラフラ歩き続けるお婆さんと一緒に、七海も歩き続けた。

 自分の家の方向と同じだし、もう少し行けば交番もあるから、お巡りさんに相談してみようと思っていた。

 と、角から翔太がぬっと現れた。ナッシーは肩車したままだ。そして、腕には白い毛の塊。鼻の横に黒いブチのある、確かにさっきの猫又だ。

 ブニャーと不機嫌な声を上げているものの、観念したのか翔太の腕の中でじっとしている。


「あ! 捕まえたんだ!」

「すんげー苦労した……」

「そ、そうみたいね……」


 ハアハアと息を吐く翔太の頬っぺたには、赤い筋が何本も付いていた。

 ナッシーが肩から飛び降りて、エッヘンと胸を張る。


『わしが捕らえたようなもんじゃ』

「よく言うわ! 口出ししてただけだろうが!」

『あんまり悪さを重ねるようなら、神罰を当てるぞと言うたから大人しくなったのじゃから、わしのおかげじゃ。感謝せい』

「お、お前ぇ! お前が捕まえろって言うから、捕まえてやったんだろ! そっちが感謝しろよ!」


 ベタなコントを見ているようだ。

 七海が苦笑いを浮かべるその横を、お婆さんがすすっと前に出て、猫に近づいて行った。


「あ、危ないよ。コイツ引っ掻くよ」


 翔太は慌てて、猫を抱いた手を後ろに引いた。

 ふにゃにゃーん、と白い猫又は可愛い子ぶった鳴き声を上げた。


『ニャンは婆ちゃんを引っ掻いたりしないのニャ!』


 お婆さんは、翔太の声は耳に入らないようで、猫に真っ直ぐに近づいて頭をよしよしと撫でた。猫又の声は聞こえてないようだ。


「どこ行ってたの?」

『ウニャン……ちょっとこいつらに驚いただけなのニャ。婆ちゃんを置いていくつもりはなかったのニャ。ごめんニャ、心配かけて』


 お婆さんには、うにゃーうにゃーという鳴声にしか聞こえていたのだろうが、うんうんとうなずいていた。

 もしかしてこのお婆さんの飼い猫だったの、と七海は首をかしげて翔太を見た。


「いや、野良なんだけど、この人とは顔見知りだったみたいだな。さては懐いたフリして油断させて、さらって喰うつもり……」

『はニャ?! 喰うわけないのニャ! ニャンは化け物では無いのニャ、失礼だニャ!』

「じゃあ何しようとしてたんだよ!」

「そうよ、おいでおいでってしてたじゃない」


 猫又の声は聞こえないし、七海たちの会話にも無関心な様子で、お婆さんはニコニコと猫の頭を撫で続けていた。

 ナッシーはその周りをゆっくりと回り、お婆さんをじっくりと眺めている。


『婆ちゃんは家に帰りたがってるのニャ! ニャンは、婆ちゃんに餌を貰ったことがあるのニャ! 家と反対方向に歩いてたから、連れて行ってあげようとしてただけニャ! 早く、離すのニャ!』


 猫又はガリッと翔太の手を引っ掻き、身体をひねって飛び降りた。慌てて捕まえようとする翔太の手をかいくぐって、お婆さんの足の間に逃げ込んだ。

 フーッと毛を逆立てるが、逃げる気はない様だ。


「痛ってーな! 七海、気をつけろよ」

「ねえ、乱暴しないでよ。本当にお婆さんの道案内してただけなの?」


 七海はしゃがみ込んで尋ねる。

 お婆さんもしゃがみ、嬉しそうにまた猫を撫でる。すると猫は喉をゴロゴロ鳴らし始めたのだが、金色の目は翔太のことはギンと睨みつけたままだ。


『乱暴なのは、そいつなのニャ! ニャンは婆ちゃんをお家に帰してあげたかっただけニャ。ニャンは人間を食べたりしないのニャ!』


 心外だとばかりに、猫は怒っている。

 確かにお婆さんとは顔見知りのようだし、襲いかかっていた訳でもない。自分たちの早とちりだったのかなと、七海は首をかしげる。

 助けを求めるようにナッシーに視線を送ると、ふむふむと頷いていた。


『うむ、確かにその婆さんを喰うつもりはないようじゃな』

『当たり前ニャ。そんな気色の悪いことしないし、したことないニャ』

『そうか、そうか。人間を喰うつもりだ、なんて言いがかり、誰が言ったんじゃろうなあ。酷いヤツらじゃのう』


 非難めいた目で、ナッシーは七海と翔太を見つめてくる。


「ナッシーでしょう! 二、三人ヤッたことのある顔だって、言ったじゃない!」

『人食い猫又じゃとは言うとらんもん』

「じゃあ何をやったって言いたかったのよ!」

『はて? 最近物忘れがひどうてのぉ』

「……こ、この野郎……」


 ふるふると握りこぶしを震わせる翔太の気持ちは、七海には痛い程わかる。

 ナッシーはふてぶてしく勝ち誇った顔をしていた。なんて性質が悪いんだろうと思う。その上、忘れん坊の神様は軽い挨拶するみたいに猫に尋ねるのだ。


『人さらいはするんじゃろ?』

『フニャ! それもしニャいわーー!』

「やっぱり言いがかりつけてるの、お前ぇじゃねえか!」


 拳を振り上げるを翔太。いっそ、その拳をゴチンと頭に落としてもいいんじゃないだろうかとも思うのだが、ここで喧嘩しても仕方ない。

 鼻息の荒い翔太の肩をポンポン叩き、ため息をつきつつ交番にお婆さんを連れて行くことを提案した。

 猫又にお婆さんを食べる気がないのだとしても、道案内はまだ信用できなかった。




『あんたさん、本当に神様ニャのか?』

『そうじゃ。とっても偉い神様じゃから、お前もわしを崇め奉ればきっと良いことがあるぞ。呼び名はナッシーじゃ』

『…………ニャ、ニャー、ナッシー神様』


 お婆さんをそっと誘導しながら歩く七海と翔太の前を、人ならざるものたちがペチャクチャおしゃべりしながら歩いている。


『婆ちゃんは本当に家に帰りたくて帰りたくて堪らないのニャ。ニャンにはその気持ちが良く分かるのニャ……』

『その様じゃな。バナナ買うて帰るとさっきから何度も言うとるの』

『婆ちゃん、ずっと家を探してるのニャ……』

『……もしやその家とは、今住んどる家ではない、のかの?』

『そうなのニャ。もう無いのニャ……むかーし昔に住んでた家に帰りたがっているのニャ。可哀想なのニャ……』


 前を行く二人の会話を、七海は黙って聞いていた。

 なんだか切なかった。お婆さんは、七海をことをまだ幸子さんの友達だと思っていて、いつも遊んでくれてありがとうねとか、今度家に遊びにいらっしゃいとか言うのだ。

 きっと幸子さんというは、このお婆さんの娘なのだろう。お婆さんの年からすると、幸子さんは七海のお母さんよりも年上かもしれない。でもお婆さんの中では、幸子さんは今でも小さな子どものまま。猫が好きでバナナが好きな、小さな女の子のままなのだ。


「……ま、とにかく交番に行くしかねえし」


 七海は、翔太の声に黙って頷いた。

 ニャーンと鳴いて、猫が振り返える。猫の顔もなんだか悲しそうに見えて、また胸がキュッと苦しくなった。

 お家の人が迎えに来てくれたら、お婆さんは家に帰ることができる。でも、お婆さんが本当に帰りたがっている、記憶の中の家には決して帰れないんだなと思うと、切なくてたまらなくなるのだった。

 同じく振り返ったナッシーの顔からは、無邪気な子供の表情が消えていて、七海はドキリとした。

 お婆さんを見つめるナッシーは、なんだか憐れむような慈しむような目をしていた。ここにいる誰よりも、大人びた顔つきだった。そして何も言わずにまた背を向けて歩いていく。

 ああ、やっぱりこの子は本当に千年以上の時を生きて、ずっと人間の世の中を見つめてきたのだなと、神様なんだなと七海は思うのだった。

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