2章 舞花、仕事を始める

第5話 なんと、異世界です

 舞花は机に向かって仕事をしていた。脇に置いてある『未処理』ボックスには沢山の書類の束。それを恐るべきスピードで内容精査し、計算間違えが無いかをチェックし、『処理済』ボックスへ移していく。


「マイカさん、これお願いします」

「はいはい。あ、ウルロンくん。この前頼まれたのも届いてるよ」


 瓶底眼鏡にぼさぼさ頭の若手魔術師、ウルロンが薬草購入依頼の書類を持って来たので、舞花はそれを受けとってから『未処理』ボックスの薬購入のファイルに挟んだ。そして、前日にウルロンから頼まれていた備品の羽根つきペンを手渡した。


「ありがとうございます。いやー、マイカさんが来てから事務作業が無くなって大助かりですよ」とウルロンはポリポリと首の後ろを掻きながら微笑んだ。


「お役に立てて何よりです!」と舞花も笑顔で返す。


 そう。何を隠そう舞花は転職したのだった。なんと転職先は異世界の魔術研究所の事務員だ。舞花はここに来た日のことを思い返し、遠い目をした。


 ♢♢♢


 あの日、妖艶な占い師のお姉さんに『私の世界にいらっしゃい』と言われて頷いた舞花はそのまま異世界に拉致(?)された。


 手を引かれぐにゃりと空間が歪んだと思ったらいつの間にか居た場所は、コーヒーカップやらノートやら鞄やらがふわふわと空中に浮かび飛び交い、変な匂いのする薬草がぐつぐつと煮えたぎり、時々爆発音や奇声が聞こえたりするおかしな場所だった。夢かと思ってほっぺをつねってみたが何も変わらなかった。

 占い師は手品師も兼ねるのかと驚いた舞花が「私、やっぱり帰ります」とすぐに踵を返そうとしたもの無理は無い。ところが帰ろうとしたものの、帰り道がわからない。


「お姉さん、帰りたいです」

「あー、魔術師用の寮があるからそこに寝泊まりすると良いわ。あと、私はアナスタシアよ。寮へは後で弟子のナターニャに案内させる」

「いえ、アナスタシアさん。私は自分の家に帰りたいです」

「魔術師用の寮がマイカの家よ? あ、仕事はここの事務をしてね。私はここの所長だから人事権もあるの。助かるわー。ここの魔術師ってホント事務処理能力ゼロよ?それに引き換えあなたはきっと出来るって一目見た時から目をつけてたの。それにマイカは魔力も結構高いから治癒魔法を覚えるとか良いわ。治癒魔法は簡単だけどかなりの魔力を食うからなり手が少ないのよ」

「いえ、そうじゃなくって……」


 そんな噛み合わないやり取りを暫しの間続け、舞花はようやくここは地球ではないということと、目の前のお姉さんが占い師ではなく異世界から事務員兼治癒魔法師をスカウトに来た魔女であることを理解した。

 そして、お姉さんの言った「言質げんち」なるものがこの世界では立派な契約にあたることも初めて知った。なんと、舞花はいつの間にかお姉さんと労働契約を結んでいたらしい。口は災いの元とはまさにこのことである。


 そんなこんなで舞花は今、異世界の魔術研究所で事務員兼治癒魔法師候補生をしている。

 もとの仕事はというと、アナスタシアが一時的に日本に戻してくれたので退職届を出してきた。そして、アナスタシアが仕事で失敗すると予言した魔の一週間は有給休暇で乗り切った。

 ちなみに友人の惟子には、わざわざ六本木の裏通りにあるその道では有名なセクシーランジェリーショップにまで付き合わされた。そして、あーでもないこーでもないと熱い議論の後に購入した面積の少なさと透け具合が絶妙なバランスのセクシー下着で北海道出張に乗り込み、無事に運命の恋とやらを手にしたらしい。


 しかし、そこで舞花はふと気付いてしまった。


 仕事で失敗すると予言された魔の一週間を乗り切ったんだったら、異世界行く必要ないよね? 普通に転職活動すればいいんじゃない?? という至極当然のことに。ところがそうは問屋が卸さない。


 ミクナビNEXTに登録して返信のあった会社に面接に行こうと乗った山手線でうたた寝したのが運の尽き、気付けば舞花は魔術師用の寮でリクルートスーツのままぐーすか寝ていて本日に至る。


 ♢♢♢


 舞花は手持ちの未処理の事務書類を確認した。経理処理が3枚と、薬品使用の許可申請が1枚、必要な材料等の購入依頼が複数枚。今日は割と少ないのですぐ終わりそうだ。


 舞花が来るまで、この魔術研究所にはそもそも事務員と言うものがいなかったようだ。それ故に各々の魔術師達が必要な事務手続きを自分でやっていたようなのだが、未処理の貯め込みと書類不備で仕事の初日は酷い有様だった。何も難しいことはなく舞花にも問題なくこなせるような内容なのだが、いかんせん魔術師というのは事務仕事が苦手なようだ。

 なので、魔術研究所の人たちは皆、舞花のことを大歓迎してくれた。


 舞花は事務仕事をひと段落させるとふうっと息を吐いた。


 ここで働き始めて3週間が経つが、この魔法がある不思議な世界にはまだまだ慣れない。アナスタシアは時間があるときはまわりをみて回っていいと言っていたので、よく舞花は魔術研究所の魔術師さんに付き合ってもらったり、一人でぷらりと散歩に行っていた。

 窓の外に視線を投げれば外はよく晴れていて散歩日和である。時計の時間を確認すると、治癒魔法の練習時間まではまだ間がある。


 よし、散歩に行こう!


 そう思い立った舞花はお散歩に付き合ってくれそうな人はいないかと魔術研究所内を歩き始めた。


 最初に辿り着いた研究室にいるのは先ほど書類を出しに来たウルロンだ。彼は何やら黄土色の怪しい液体を試験管に入れてブツブツ言いながらノートに走り書きをしている。どうやら忙しそうである。

 次に覗いた研究室にいたのは長い三つ編みがよく似合う女の子、ノンシャの部屋だ。ノンシャは魔方陣の真ん中に胡座をかき、目を瞑ってめい想していた。こちらもどうやら忙しそうだ。

 その後も舞花は次々と研究室を覗いていったが、皆一様に忙しそうに仕事をしている。最後にたどり着いた部屋で舞花はナターニャを見つけた。


「ナターニャさん。治癒魔法の練習まで時間があるのでお散歩に行ってきてもいいですか? 皆さん忙しそうなので一人で行こうかと思います。」


 ナターニャは舞花に気付くとチラリと時計を確認してから澄まし顔のまま舞花に向き直った。


「そうですか。鍵がかかった場所と結界が張られた場所には近づかないで下さいね。まあ、そういう場所にはそもそもマイカは近づけないと思いますが。ほかの場所は自由に見て回って大丈夫です。帰り道が分からなくならないように腕輪をつけて行ってください」

「はーい。ありがとうございます」


 舞花はナターニャにお礼を言って部屋を出た。


 ナターニャはアナスタシアの一番弟子らしく、異世界から来たときから舞花のお世話役のようなものをしてくれていた。黒髪に黒目のツンとした雰囲気の女の子だが、見た目に反して結構親切である。

 ただ、彼女はとても忙しい。いつも舞花の散歩に付き合わせるのが申し訳なかった舞花は、あるときに散歩は一人でも大丈夫と伝えた。すると、ナターニャはお守り代わりにと希望の行先を教えてくれる携帯ナビの様な魔法の腕輪を作ってくれた。

 この魔法の腕輪は一般的には子供が迷子防止に付ける物らしいのだが、異世界で迷子になったら死活問題の舞花には大変ありがたいものである。


 舞花は早速自席に戻るとナターニャに作ってもらった銀製の腕輪を右手に嵌めた。一センチくらいの幅の銀の腕輪に何やら魔法の言葉が書いてあるが、舞花には当然読むことは出来ない。


 そうして意気揚々と魔術研究所から外に出ようとした時、「ちょいとお待ち」と呼び止められて舞花は足を止めた。振り向くとトカゲを肩に乗せたアナスタシアがいた。


「マイカ、どこに行くんだい?」

「あ、アナスタシアさん。治癒魔法の練習の時間まで少し間があるのでお散歩に行こうと思います」

「じゃあこれも持っていきなさい。あと、その腕輪は効果が薄れているわ。これも嵌めておいて」


 アナスタシアが手のひらを上にかざすとブーンという鈍い音とともに、何かが現れた。舞花に渡されたのはナターニャに作って貰ったのと同じような魔法の文字が書かれた銀製の腕輪とピンク色の弓矢だった。


「何ですか、この弓矢?」

「恋に効く弓矢よ。素敵な恋が出来るように手助けするって言ったでしょう?」


 ピンク色の弓矢には一本のオモチャのような矢が設置されていた。矢軸もピンク色で普通なら矢の羽根になっている部分にはキラキラクリスタルのハートがついている。

 舞花の手にすっぽり収まるサイズで、弓矢というよりはクロスボウと言った方が正確かもしれない。


 これはいわゆる恋のキューピッドが持っているような、当たるとその射手を好きになっちゃう弓矢だな? と舞花は1人納得した。


「へえ! こんなものがあるんですねえ。ありがとうございます」

「いえ、良いのよ。うふふっ。この私の特別製だから」


 トカゲを撫でながら妙に愉しげに微笑むアナスタシアに見送られ、舞花は1人散歩に出掛けたのだった。

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