母親 ペル 1
乾物のような女だという。昔付き合っていた彼氏にも、今の旦那にも、言われた。
いつも乾物屋の軒先に吊るされて、一体誰が買うんだと思って毎日店の前を通り過ぎるけれど、自分で買って口に入れてみれば、噛めば噛むほど味が出る。そんな女だという。
おそらくそれは正しいのだろう。けれどそれはわたしを選んだ男が、特徴の薄いわたしに付加価値を求めて探り出した言い訳でもある。こんな女を選んだ自分をそう言って慰めている。
自分を卑下してはいない。わたしは平凡な女だ。生まれたときから乾いた生き方をしていたわけではない。ただカサカサに乾いて流されるだけの生き方を楽だと感じてしまったのだ。
その流れのままにわたしは人を好きになって、結ばれ、子を生み、母になった。
あるがままの人生に不満は無い。同時に、期待も無い。
子育てに追われながら家事をこなす毎日を送っていれば、子供に密かな期待を寄せることはしても、自分自身の将来というものに興味など湧かない。
洗った食器を拭いたり、洗濯物を干したりするようなぼんやりした時間は、そんな枯れた思考に襲われる。でも、何もないところから何かが生まれるはずはない。枯れたわたしから湧き出るものなんて無いはずだ。そう思って、いつもその思考を消し去っていた。
今日もまた、一歳の次男に昼飯をやりながら、同じことを考えていた。
戸棚の上ではラジオがニュースを伝える。昨日、フリーマーケット会場のほど近くに建つ寺院に通り魔が現れたという報せだ。朝から同じニュースを何回聞いただろう。
しかし、うんざりすることはなく、同じ内容のニュースにわたしは耳を傾ける。捜査に何か進展は無いのか。新しい情報は入らないのか。強い興味を抱いていた。
なにせ昨日、そのフリーマーケットには、わたしも夫と子供二人を連れ立って出掛けていたのだ。二人の息子は新しいオモチャを与えられて喜んでいるけれど、危うく自分たちが被害に遭うところだったのかもしれない、という恐怖をわたしは拭えない。
「ちがうよー」
同じテーブルに着く三歳の長男が声を上げた。
「ウーくん、スプーンの持ちかた、ちがうよ。グーにしちゃダメなんだよー」
「いいのよ。ウーくんはまだスプーン持てないんだから」
「ダメなのー! ウーくんダメなのー!」
長男は次男がスプーンの柄を握るように持っていることを懸命に非難している。非難されている側は口の周りをリゾットでベッタベタにして、呆けた顔をしているというのに。
「お兄ちゃんなんだから、ズイくんがちゃんとしてれば、ウーくんも真似してしっかりできるようになるの」
「でも、ウーくんちがうもん。ちがうもん!」
長男の瞳が潤んでくる。主張が通らないことに腹を立てているらしい。理屈が通らないことを言っているのは自分のほうだということにも気付かない。
何と言って叱ってやればいいのか……。思い悩んでいたとき、ブーと玄関のベルが鳴った。
「はーい! ――ズイくん、ちょっとウーくんのこと見ててね。お兄ちゃんでしょ」
席を立ち、玄関へ向かう。廊下を進む短い時間、わたしは自分が緊張しているのが分かった。
さっきの長男の言葉に肝を冷やした。通り魔事件のことを考えていたときに「違う」と、考えを否定するようなタイミングで言うものだから、不意打ちを食らったのだ。
わたしは被害に遭わなかった。それどころか帰宅して、翌日のラジオで事件を知ったくらいだ。正直、恐怖など感じてすらいない。
ならばどうしてあの事件が気になるのだろう。もしかして、わたしは通り魔に遭いたかったのか。通り魔でなくてもいい。この人生が劇的に変化する刺激を求めていたのではないか。
「はーい。どちらさまですかー……」
下手な考えを打ち消すように玄関のドアを開ける。
チャイムを鳴らした相手は、まだ中等学校も出ていないような、リュックを背負った十四、五歳ほどの男の子だった。
初対面のはずの彼と相対して、わたしは一瞬、言葉を失った。
彼は息子たちと――いや、わたしと同じ形のアーモンド型の目をしていた。毎朝鏡で見るものと相似形をした目。何故だろうか、そこにはわたしと同じ乾きの色が混じっていた。
「あなたがペルさんですか」
「そうだけど……どちらさま?」
「なんていうか、そのぉ……他人、です」
わたしを訪ねてきた男の子は奇妙な自己紹介をして、理解できない要求を述べた。
「突然ですいません。ぼくを匿ってもらえませんか」
「はァ? どうしてうちが」
「あなた以外に頼れる人がいなかったんです。ペルさん。ぼくの顔と指紋の半分は、あなたから提供された素材で造られたものなんです」
「造られた……?」
「ぼくは鋼人です」
「こう……あ、ロボット兵士」
思い出した。十年前、当時付き合っていた彼氏が軽いミリオタで、二人で鋼人の顔面素材の提供を申し出たことがあった。工科大学の片隅に用意された設備に映し出された、二人の顔を分配した完成予想図を見て、将来こんな子供を生むんだろうかと思ったものだ。
「どうしてわたしなの。顔を貸した人ならもうひとりいるでしょう」
「ご存じないんですか。もうひとりの提供者、ナブトさんはすでに亡くなっています」
「へえ、知らなかった。いつ?」
意外なほど冷静でいる自分に内心で驚いた。彼の死を知らされたことよりも、その自覚が膝の力を抜く。ぎらつく陽射しにあてられたように、今にも玄関先に崩れそうになる。
あんなに好き合っていたのに、わたしは彼のことなどすっかり忘れていた。忘れて、結婚して、子供を二人も生んで……。ゆるやかな変化を伴って、平凡な日常を過ごしていた。
「記録では五年前になっています。詳しくはぼくも分かりません。でも、だから今はあなたしか頼れるアテがないんです」
かつての彼と同じ形の濃い眉が不安そうに歪む。
「話くらいなら聞いてあげる。上がりなさい」
弔いのつもりはない。彼が死んだ後に母親になったわたしの感情が、目の前の男の子にちょっと手を貸してやりたいと思っている。せっかくわたしの些細な過去が、寄り道して帰ってきたんだから。
男の子を家に引き入れると、ダイニングのほうから喚き散らすような泣き声が響いてきた。これは次男の泣き方だ。元居た部屋に駆け込むと、次男は長男にスプーンを取り上げられて泣いていた。シミだらけの前掛けにダラダラよだれをこぼして、大音声で泣き叫ぶ。
「何してるの! お兄ちゃんが弟泣かせるんじゃないの!」
「ちがうもん!」
「違わない! どうして言うこと聞けないの!」
弟のスプーンを握り締めたまま、長男は唇を戦慄かせ、目の縁に涙を溜める。だがそんな姿は演技だ。信じてはいけない。子供なんて、わんわん泣いてもすぐにケロっとしている生き物だ。その涙を信用してはいけない。
「どうしたんですか」
厳格な追及の目論見は、うちに上がり込んだ男の子によってくじかれた。
「どうもこうも、上の子が下の子に突っかかって泣かせたのよ。スプーンの持ち方がなってない、って怒ってね」
「本当に怒ってたんですか?」
「え?」
「ぼく、落ちこぼれだから、気持ち分かるんです。鋼人はみんな同じ性能で生まれてくるのに、ぼくはどうしてか何をやっても飲み込みが悪くて、適性検査でも通信隊に判定が出ちゃうくらいなんです。だから他の鋼人には簡単な技能でも、ぼくは怒られながら覚えていくしかなくて、自分の出来ることを、他の子が出来ないときは手伝ってあげたくなるんですよ」
男の子は今にも泣きそうな長男の元にしゃがみ込むと、柔らかな笑顔を差し向けた。
「弟がお母さんに怒られるとこ、見たくなかったんだよね。えらいね。お兄ちゃんだね」
そう言って男の子は長男の頭を撫でてやる。当の本人はというと、わたしと男の子を見比べ、もしょもしょと口を動かしながら何かを思案して、わたしの脚へ飛びついた。
「知らないおじさん……」
「おじさんじゃない。あんたのお兄ちゃんよ。顔の半分だけね」
長男は目を丸くして弟と男の子の顔を代わる代わる覗いていた。
息子たちを寝かしつけて、本腰を入れて男の子に向き合う。
さっきは男の子の微笑に胸を衝かれた。柔和な笑みに昔の彼氏の面影が重なってしまう。
「あなた本当にロボットなの」
子供の心理を透かして見せたことや、人間としか思えない表情を見ると、彼が本当に自分とあの人の子供なんじゃないかと疑ってしまう。もちろん錯覚に決まっているのだが。
男の子は軽く挙げた右手を、手の甲側へと反らせた。それを合図に手の平の付け根、手首の内側から銀色の板が飛び出した。ばね仕掛けのように出現したものは刃渡り二十センチほどの鋭いナイフだった。切っ先だけが別の素材を埋め込んだように黒い色をしている。
「義手じゃないですよ。左腕には空気銃が装備されてます。武器はそれだけです」
刃を収めて腕を下ろすと、男の子は顔を伏せた。
「ぼくはその銃で人を傷つけてしまいました。それでそこから逃げてきたんです……」
「どうして……」
「分かりません。ひどく怒ることがあって、それがきっかけになって暴走してしまったんです。こんな欠陥品、助けたくないことは分かります。でも……」
「そうじゃない。どうして逃げたのかって聞いてるの」
男の子はずっと背負っていたリュックを床に下ろした。ファスナーを開けると、中から金バケツを逆さにしたような機械が現れた。
「ぼくのシッターです。名前は――」
「――アンヘルよ。よろしく」
スイッチを切ったはずのラジオから、突然女の声が流れた。
「アンヘルはいつも無線で喋るから、こうして口を用意しないと普通の人とは対話できないんです。驚かせてしまってすいません」
「この子に逃亡を提案したのはわたしよ。この子は鋼人だけれど、まだ正式配備される前の機甲歩兵候補生なの。候補生は本来、武装を制限されているのに、この子はそれを起動させて、あまつさえ人を撃ってしまった。はっきり言って大失態。軍に連行されたら研究所でバラされて、最後は資源ゴミになる運命しか残ってないわ。わたしは彼の保護者。逃亡を提案したのはこの子を救うためよ」
アンヘルという金バケツの気持ちは分かる。わたしだって人の親だ。我が子は可愛い。
だが今までの話で引っ掛かることがあった。
「ねえ、人が撃たれた事件っていうと……もしかして昨日の……?」
「ニュースになってたのかい、アンヘル!」
「ええ。あなたが落ち込むと思って言わないでおいたのよ。ペルさん。あなたのお察しのとおり、フリーマーケットの通り魔は、ここにいるこの子よ」
「で、出ていこう、アンヘル。事件になってるなら、ここにいても迷惑を掛けるだけだよ」
「他に隠れられる場所なんてないでしょう。それにずっと厄介になるわけでもないわ」
「でも!」
男の子はバケツに喋り掛けるが、声は戸棚のラジオから返ってくる。奇妙な光景だ。
「あのさ。結局、わたしに何をしてほしいわけ?」
業を煮やして尋ねてみると、二人は口を揃えて答えた。
「充電」
アンヘルが言うには男の子の内部バッテリーがそろそろもたないらしい。これから逃げるにしても戻るにしても電池は必要なのだ。
うちにはそんなにでっかいコンセントは無いと言うと、そんなものは最初から期待していないという。生意気なバケツだ。
要求はたっぷりの飲み水と、うちの屋根。我が家は集合住宅の最上階に当たる。今の時季は屋根が焼けて部屋が蒸し風呂のようになるため家賃が安い。その上、バルコニーには屋根が無いので雨が降ると洗濯物がずぶ濡れになる。下の階のベランダには、上の階の床が屋根になっているので問題は無い。その間取りが重要なのだという。
鋼人は日光を浴びて自己発電ができる。その電力を特定周波数の電磁波に変換し、コアエンジンを振動させて発電量を増やす。その電気で水を分解し、メインエンジンにくべるとまた電気が発生する。それをバッテリーに蓄電するのだ。
完全充電まで二日間。休止状態で屋根の上に放置しておいてくれ、と二人は頼んだ。充電中は叩いても揺すっても何しても起きないから、何も気にしないでいいそうだ。
男の子は充電が済んだらすぐに出て行くと言ってまた謝った。
陽射しのきついバルコニーに出て、彼は短いひさしに指を掛け、身体を振って身軽に屋根へ上っていった。
「ねえ、まだ名前聞いてないんだけど」
屋根に向かって尋ねると、男の子は顔を出して名乗った。
「トォイっていいます」
そのとき浮かんだ笑顔には、昔の彼氏の面影など微塵も見つからなかった。
昼寝から起きた息子には、彼は帰ったと伝え、帰宅した旦那には何も話さなかった。
不安になるくらいうちの天井は静かで、家事を片付けていると、この上でロボットが充電していることを忘れそうになるくらいだ。
今の状況に、不思議と不安は感じなかった。通り魔を匿っているなんてご近所に知られたら明日からどうやってゴミ出しに行けばいいのか分からなくなるだろうに。いや、それ以前に国家権力のご厄介になるのか。
見つかったら警察にでも軍にでも突き出してくれ、とトォイから言われていたからかもしれない。でも、きっとそれだけじゃない。わたしは他の主婦にはちょっと出来ないことをやってるんだ。不道徳だろうと、反社会的だろうと、気分はいい。その爽やかな気持ちは、子供の寝顔を見たときに抱く安堵に似ていた。
全部、自己満足なのだ。わたしはそれを誇れる。例えそれが乾いた心をすり抜けていく風のようなものだとしても、確かにわたしはそれに触れたのだから。
乾くのも悪くない。
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