トォイ 1

 昧爽の空気を水素エンジンの甲高い爆音がつんざいて空に抜けていく。丘を下った村落はまだ眠りの中にあり、ぽつぽつと建つコテージのような民家では村民が夢を見ているだろうに、イチマツさんはお構いなしに疾走する。駐屯地で側車に押し込まれたときに、ぼくは緑十字のマークが入った安全ヘルメットを拝借したが、イチマツさんはずっとノーヘルで運転している。公共のルールというものに憎しみでも持っているのだろうか。

 農村ではないらしく、夜明けとともに起き出した住民の姿など無く、サイドカーは我が物顔で広い林道を突き進む。

 ふと対物センサが遠方に障害物を感知する。しばらく走行して、その障害物の手前で爆音が静まった。

「また金網ですか」

 駐屯地の囲いよりも背が低いが、林道をはみ出して東西に延々と金網の壁が続いている。唯一の入り口らしき観音開きになる扉は、黒く錆びた南京錠と鎖で固く閉ざされていた。

「こっからは歩きだ。車は帰りの足だからな、パクられねえように燃料一本抜いときな」

 ぼくは言われるままサイドカーの燃料タンクに詰め込まれている水素ボンベを抜き取った。これでサイドカーは動かせない。

 側車の前部に装着されている四角い革鞄を取り外してボンベを中に仕舞った。革鞄の中には他に水の入った瓶と携帯食料、救急キットが入っている。ほぼ人間用の装備だ。これを預けられたぼくは、つまり荷物持ちということなんだろうか。いや、深く考えるのはよそう……。

「金網の向こうに行けばいいんですよね」

 下手な考えを捨て去り、金網に向かって片手を伸ばす。ガシャガシャと賑やかな音を鳴らしながら自重にひしゃげる金網を登り、頭上に張られた有刺鉄線を掴んで反対側へ飛び降りた。

 イチマツさんはステルスジャケットの袖から、以前にも見たワイヤロープのような銀色の棒を取り出して有刺鉄線に向けて振り下ろす。棒は剛性を弱めてしなり、鉄線に絡みつく。イチマツさんは手応えを確かめてから南京錠に爪先を引っ掛け、銀の紐を引いて飛び上がった。ふわりと優雅に宙を舞い、軽やかに金網を越えて着地。彼が手首をひと捻りすれば、絡んだ紐は解け、再び棒の形に戻って手に収まった。

 この技はぼくのコンバットシステムには無い。おそらく機械には一朝一夕に真似できないことなんだろう。使う道具も特殊だ。ぼくは一度あれに巻き付かれたから分かる。あの銀の棒は振ると何百もの節に分かれて紐状に伸びる。絡め取られた対象はその節に噛み付かれて身動きが取れなくなってしまう。

 要するにあのワイヤーのような棒は鞭なんだ。彼は指先の微妙な感覚で見事にそれを操っている。コンバットシステム頼みで動いているぼくには、逆立ちしたって真似できない。

 五十代後半にしてこの身のこなし。お祖父さんに劣っているだなんて思うことが卑屈なインフェリオリティコンプレックスではないかと疑ってしまう。

 正直、ぼくはこの人が怖い。すでに一度、素手の状態で敗北した経験もある。それでも仲間にいるうちは心強いことこの上ない。

「随分とあっさり危険地帯に侵入できましたね」

「危険地帯は毒の射程内だ。この金網も人を阻むもんじゃねえ。流れ弾を防ぐ壁だからな」

「レールガンですか……。勝てるんでしょうかね」

「知るかよ。俺、鉄砲とケンカしたことねえもん。くっちゃべってねえで行くぞ。国境線までまだ十キロはあるんだ。チンタラしてたら夜中に毒と鉢合わせしちまう」

 十キロというのは最短距離の話だ。国境線が定まらないうちに戦争が休戦に突入したせいで森の中は南北の境界が曖昧になっている。それにしても地図の上でのことだ。現実の森に線が引いてあるわけでも、その線上に毒がいると決まったわけでもない。

 だが国境付近では地形の起伏が少ない。超長距離狙撃を狙うならここしかない。

「不用意に進むのは危ないですよ。どこから砲弾が飛んでくるか分かったものじゃないんですから」

「安心しろ。俺はステルスジャケット着てるからな。鋼人の索敵にゃ引っ掛からねえよ」

「あの、それって……」

「おう。向こうには索敵支援が無い。鋼人の索敵範囲に注意すりゃ、レールガン自体の射程は怖くねえよ」

「いえ、そうじゃなくって、ぼく、そのジャケット着てないんですけど……」

「当たり前だろ。こいつはビンテージの一点物だぜ。予備なんてねえよ。あ、弾に当たるとアブねえから、飛んできたらよけろよ」

「嫌ですよ! なんでぼくにだけ何の対策も無いんですか!」

「そりゃ、いくらステルスっつっても反応を完全に絶てるわけじゃねえからな。てめぇがいなかったら、俺のほうに弾が飛んでくるじゃねえか」

「ぼく、弾避けに連れてこられたんですか!」

 これじゃ荷物持ちより酷い扱いだ。それでもイチマツさんは我関せずと涼しい顔で聞く。

「え、鋼人って弾丸をほいほい避けるもんじゃねえのか? 一昨日は拳銃の弾かわしてたろ」

 フロンの放った銃弾を避けたことだ。あれは相手がフロンで、間合いが近かったから使えた戦法だ。攻撃の方法やタイミングが理解できなければ、いかに鋼人といえども音速を超える砲弾をかわすことは難しい。

「でも、索敵支援が無いっていう情報は大きいですね。それなら射程は目一杯広げても光学センサが届く地平線までの距離です。地形に起伏が無ければ約四・五キロですね」

「国境の一番狭いとこで一キロねえから、南北をカバーするために括れた地形のどっかに陣取ってるっつーわけか」

「もっと絞れます。鋼人が完調で動くためには水と日光と少しの有機物と微量の重金属が必要です。このうち重金属は使い回しができますし、有機物はそのへんの木の根でも囓ってれば最低限度は足ります。どうしても補給が必要なものは水と光です。出来れば真水が望ましい」

「水源のある場所で、狙撃に適していて、上空からの索敵を受け付けずに日光を浴びられる位置……となると、とんでもなく限定されるな」

「川べりを捜索しますか」

「俺なら川には陣取らねえ。考えてもみろ、使う武器が電磁投射砲だぜ。漏電でもした日にゃ武器も本体もおじゃんだ。川は凍らねえが、増水の危険がある。このへんじゃ冬も水が凍るほど気温は下がらねえだろうがな」

「それなら窪地で雨水を貯めてるんですかね。射程が四キロ以上もあるなら、狙撃だってセオリー通りに高所から狙いをつける必要はありません。顔を覗かせたところをフッ飛ばしておしまいです」

「該当する地形は探せるか」

「地図のデータが幾分古いですけど、このまま道なりに北に進んで、少し西に入ったところですね。近くに沢もあります。水の心配はありません。航空映像や衛星写真の手持ちはありませんけど、これだけ森が広がってしまえば、上空から捜索することは困難でしょう」

 そもそも半端に空など飛ぼうものなら一撃で撃墜されるだろう。

「道なりって……その道ってのは、残ってんのかねぇ……」

 イチマツさんのぼやきはもっともだ。戦場でなくなって四十年。人の往来が耐えて久しい森は、すでに緑に侵され尽くされているように見えた。毒に辿り着く道はあまりに遠い。でも無いわけじゃないんだ。

「目的地は決まったんです。行きましょう。日が暮れちゃいますよ」

「言うじゃねえか」

 亡命者たちが辿った獣道へ揃って足を踏み出す。まだ途切れてはいない。


 ざくざくと下草を踏みしだくように進む二人きりの行軍。森の木々は鬱蒼と生い繁り、青天井に蓋をする。漂う風はぬるく、空気は湿り気を帯びている。時折、昔の兵士か亡命者の成れの果てらしき白骨死体がセンサの端っこに引っ掛かってくる。

 閉ざされた森は不快指数を高め、並の人間なら黙々と歩くことに極度の苦痛を覚えるだろう。ぼくはファジィ集合論を用いて暑さ寒さを判別できるが、それによって生じる精神的圧力に苦痛を感じることはない。

 一方のイチマツさんは長袖のライダースジャケットを纏っているにも関わらず、涼しい顔ですたすたと先を行く。その背中が不意に尋ねた。

「おまえ、これが終わったらどこに行く」

「それはまあ、帰れるものなら帰りますよ。服とかヘルメットも借りたままですから」

「それ本気で言ってたのな……」

 呆れを含んだ声を引き締め、彼は自身の話をする。

「俺はな、北に抜ける」

 横に並べば、イチマツさんは薄い眉をカミソリのように尖らせて正面を睨んでいた。

「孫がいるんだ。北の国に残した息子夫婦に出来たばっかりの子供が。男か女かも分からねえ。こないだ運良く手紙が届いた。だがそれっきり音沙汰なしでな……」

「北にご家族が? イチマツさんってこの国の人じゃないんですか」

「俺は北のスパイだ。いや、俺の家業がスパイなんだな。生まれた国はこっちだが、休戦してからは北で過ごした。祖国はどっちか聞かれりゃ、北だと答えるだろう。向こうで宗家に決められた嫁を取って子供も作った。だが南のスパイも同時にやってる。ちょいと複雑な仕事なんで、息子が生まれてからは、俺はこっちに移った」

 複雑とは言うが、要するに二重スパイなんだろう。祖国のためにスパイ行為をしているわけでなく、表立って流通させられない情報を南北で交換する、裏の外交官といった立場にあるのだと思う。

「人形屋をやりながら右から左へ情報を流して、ときどき亡命を手伝う。そんな毎日に突然、孫ができたなんて言われりゃ、顔も見ねえうちに死ぬわけにはいかねえよ」

「ぼく知ってます。映画で見ました。戦う前に家族のこと喋ると死ぬんですよね」

「死ねないって言ったそばから縁起の悪いこと言うなよ!」

「くだらないジンクスだと思いますけど、ぼくは喋りませんよ」

「家族がいたのか……?」

「ここにいます。大事な人が」

 頭のヘルメットをこつりと叩いて示す。ヘッドギアには凍りついたように無反応なアンヘルが固定されていた。ケーブルで繋がっていても、声が聞こえない。

「安心しろぃ。てめぇは死なねえよ」

「イチマツさんが守ってくれるんですか」

「馬鹿。俺が毒とやり合うから、てめぇはトンズラこけって言ってんだ。元々、鋼人の索敵範囲と接近手段が知りたかっただけだしな」

「ぼくだって戦えます」

「てめぇじゃ毒には勝てねえ」

 突き放すように断言された。ぼくはそんなに頼りないんだろうか。

「相手は四十年間整備無しの鋼人だ。接近戦に持ち込んで奇襲と不意打ちを掛けりゃ、生身の俺でも勝率はある。でもな、てめぇには無理なんだ」

「何がいけないって言うんです」

「俺のジジイが残したコンバットシステムはこの世に二つっきり。だが俺の持っていたほうは試作品だ。毒をこしらえた局長は多分、あれを煮詰めて完成品を作ったはずだろう。この時点で差が生まれてやがる。でも俺が一番心配してんのは、てめぇに人が殺せないってことだ」

「相手は鋼人です」

「ふん。ならてめぇ、鋼人なら殺せるってのか。自分を殺しに掛かる敵を相手にして仕留めきれねえ奴が」

「フロンも、エピタフさんも、鋼人です。命令があれば殺して、みせます……」

「そんなら敵兵はどうだ。自国民以外の人間。俺みたいな敵国の異分子は?」

「――――」

 やれます、とは返事ができなかった。鋼人はアンヘルみたいなシッターソフトとは違う。自分の判断で嘘だってつける。でも言えなかった。

 ぼくは兵器だ。フロンも、他の鋼人も。ただの道具だ。人殺しの道具なんだ。

 そう思うことにしたのに。ぼくはまだ考えて、迷って、揺らいで……。

 不意にイチマツさんは足を止め、後ろを振り返った。ぼくの柔いところを抉るように叱責されるような気がして背骨が固く縮こまるが、身構えるぼくに構わず、彼はここへ来るまでに辿った道を指差した。

「おあつらえ向きの相手がおでましだぜ」

 背後の振動を聴覚センサと音波ソナーが捉えていた。対物センサがコンバットシステムのメモリ使用率を引き上げる。草の海を走破する硬いタイヤの噛み合う音。軋むサスペンションと時折跳ね上がる車体の震える形。一台のバイクが森を疾走している。

 センサ群がぼくに戦闘状態を告げていた。背中に迫るバイクのドライバーとは、すでに二度の戦闘経験を積んでいたからだ。

 ブレーキ音が草の上でタイヤが上滑りしたことを告げて、水素エンジンとは違う、電気モーターの涼やかな駆動音が煙のように立ち消える。

 背中に大きな存在を感じている。イチマツさんの目は、背後の『彼女』を見ていた。その瞳に映り込んだ少女の姿がバイクを降りた。振り返りたくなかった。このまま走って逃げ出したかった。あの雨の蚤の市をそうしたように。

「トォイ」

 ぼくを呼ぶ声はこれ以上の逃避を、認めず、許さず、怒り悲しむだろう。

 だからぼくは優しく切なく呼び掛ける声に振り返らずにいられる術を失ってしまった。

「フロン」

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