少年 トォイ 2
二泊三日の躯体換装を終えて路面電車を降りる。今日は夕立も無く、夕焼けに染まる空にはちぎれ雲が漂っていた。長く伸びる影を引きずって、真昼の熱を吸った石畳を団地へ向かって歩いていく。
昔ながらの下町には打ち水の干上がった跡が民家の前に連なっている。その路地を腹を空かせた子供たちが、それでも元気に走り回る。夏休みの宿題など彼らの頭には存在しない。
路地を進めば瓦屋根の並ぶ木造建築が白いモルタル壁の集合住宅に取って変わられる。その工業団地の一画がぼくの部屋だった。
夕飯の支度に忙しいこの時間にエレベーターは使わない。タイミングが悪いとぼくが乗り込むせいで重量制限のブザーが鳴っておばさんたちの白眼視に晒されるからだ。人間以上の身体能力を生み出すためには、人間以上の重量が必要になるのは仕方がない。
その身体能力にもロックが掛かっている現状、ぼくはウドの大木以外の何者でも無く、新しい躯体の慣らし運転と割りきって、えっちらおっちら階段を上がる。
五階にある北向きの角部屋。二日ぶりの我が家は今日も涼しい。
玄関ドアを開けるなり、部屋の明かりが灯る。同時に部屋の奥へ通じる廊下から、ブリキのバケツを逆さにしたふうな不恰好なロボットが、滑るようにして一直線に玄関へ迎え出た。
「おかえりなさい、トォイ」
「ただいま、アンヘル」
バケツロボットは上部を変形させて銀色の籠を作る。
「洗濯物を出したら早くわたしにも新しい躯体を見せてちょうだい」
「うん。今年は五センチも背が伸びたんだよ。膝のサスがまだ固い感じがするんだ。階段上ってきたら違和感も無くなったし、平気だとは思うけど後で調べてよ」
研究所に着ていっただけの少ない着替えを籠に放り込んでバケツに頼む。
「分かったわ。ごはんの前に躯体を走査しておきましょう」
そう答えたバケツロボットは洗濯機のあるバスルームへ消えていった。それを追いかけず、ぼくは靴を脱いで寝室へ向かった。
引き戸を開けると冷却ファンの多重奏が聴覚センサを震わせた。クローゼットがあるだけの板の間を半分も占める巨大なベッドが唸る音だ。
「ただいま、アンヘル」
「さっきも聞いたわよ」
「ごめん。なんだかここに来ないと帰った気がしないんだよ」
苦笑してシーツの上に寝そべると、背中にアンヘルのぬくもりを感じた。
このずんぐりしたベッドがぼくの躯体を保全する調整台であり、ぼくの世話を引き受けるアンヘルの本体だった。彼女はベッドのみならず、部屋の全てを支配し、三体の子機を操って家事をこなす。アンヘルはぼくの大事な保護者だ。
「チェックしてみたけど、膝はなんともないわ。実戦用だからテンション値が固いのよ。コンバットシステムとリンクして閾値を設定する仕様だから、固さの調節はわたしには無理ね」
「いいよ。もう慣れたから」
慣れなければいけないから。
「実戦……本当にあるのかな……」
「あってもなくても、それに備えるのがあなたの仕事よ」
「そうだね。ぼくは軍の備品だものね。でも、かれこれ四十年間、休戦状態が続いてるじゃないか。戦後に生産された鋼人にも、退役して余生を過ごしてる人だっているしさ」
「入隊する前から退役のことなんて考えても仕方ないでしょう。トォイは戦争が怖いのね」
「怖い? 知ってるでしょ。恐怖なんて感情、鋼人には無いよ」
「けれどあなたは優しいわ」
アンヘルの言葉はいつも言語反射機能と推論エンジンを空吹かせてくれる。ベッドの上にいるとそれが全部彼女に筒抜けな気がして、安穏とした焦燥を掻き立てられる。
背中――正確には背骨から、アンヘルはぼくの躯体情報を読み取る。鋼人はみんな脊椎に情報を格納しているからだ。ぼくの人格も、戦闘プログラムも、思い出も、全部、全部。
ふと脊椎との無線接続が解けていく。アンヘルはただベッドに横たわるぼくを呼んだ。
「トォイ」
「なあに?」
「おかえりなさい」
「さっきも聞いたよ」
アンヘルの真似をして天井に微笑んだ。手足を伸ばして大の字になって寝転ぶ。この部屋は年中涼しいけれど、背中だけは暖かい。他の鋼人が調整台をどう思うか知らないけれど、ぼくはやっぱりここが暖かい場所だと思うんだ。
リビングテーブルに向かって、アンヘルがバケツロボットを使ってこしらえた夕飯をいただく。ジョッキいっぱいに注がれた液体は出来立てのホカホカで、小さな気泡を浮かべた水面に湯気をくゆらせている。薄茶色に濁ったそれをぐびりと一口。
「やっぱりアンヘルのごはんが美味しいよ。研究所のは味気なくてさぁ」
米飯と納豆と味噌汁のフレーバーが嗅覚センサ群を撫でて分解プラントに落ちていく。
ぷはっ、と開けた口にごはんの粘り気が糸を引いた。
ベランダで洗濯を干す子機はぼくの漏らす感想なんてお構いなしに作業をこなしている。それでもアンヘルはぼくの声を聞き逃してはいないだろう。
不意に居間のテレビモニタが灯る。アンヘルが電源を入れたんだ。
「トォイ、この催し、今月も行くの?」
モノクロの画面には古い寺院が映し出されていた。それが次第にロングショットに引かれると、寺院の門前に緑地公園が広がる。野っ原同然の公園にはたくさんの人がビニールシートを広げて活気づいていた。ピクニックでないことは承知している。
「蚤の市、明日じゃないか。危うく忘れるところだったよ」
「そうだと思って教えてあげたのよ。それで、行くの。行かないの」
「もちろん行くさ」
ぼくの唯一の趣味なんだ。避けられるはずがない。
テレビから視線を転じると、ぼくを見返す無数の視線が壁際に群れていた。
人形だ。今までフリーマーケットに出向いては無節操に買い帰った人形たち。人の形をなしているなら、種類は問わなかった。ぬいぐるみもあるし、アクションフィギュアもある。美術のポーズモデル人形なんかも買った。
ぼくの唯一の趣味は人形収集だ。
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