少女 ドゥシィ
わたしが生まれたとき、わたしは泣いていた。その隣で、パパも泣いていた。
ママはわたしをこの世に生み落として、それと引き換えに死んでしまった。
その瞬間の記憶をわたしは留めていられなかった。パパは死んでも忘れられないだろうに。
だからわたしは一生、ママを憎む。パパの中に消えない裂け目を刻んで去ったあの女を。
ビスクという名のその老人は、七十を過ぎた高齢にも関わらず、背筋の伸びた若々しい出で立ちでわたしの実験室に現れた。
スーツを着て出掛けていったパパは、今は馴染みの白衣に袖を通して老人を部屋に導いた。散らかった作業台を挟んで、パパはわたしを片手で示す。
「娘のドゥシィです。私の助手をやらせています」
紹介されて会釈するように小さく頭を下げた。老人は特段の反応も見せずに、パパに言われるまま実験室の片隅に設けた休憩用のテーブルに招かれた。
三人で膝を交えて席に着くと、パパはこれから行う実験を仔細に説明し始める。
わたしは事前に聞かされていたが、現実に老人を前にすると、やはり無謀な計画に思えた。
ビスク老人はこれから四十八時間、実物のコックピットを改造したシミュレータに乗り込んで仮想の戦場を休み無く駆け抜けねばならない。想像を絶する過酷な実験だ。シミュレータに痛みは発生しない。けれど、常に敵が襲い来る環境は緊張の緩和を認めない。それに加えて、シミュレータ上に演算される唯一のミスが死だ。それは決して許されない実験結果。
一度のミスも許されない間断無い緊張の世界に、こんな老人を放り込むのだ。無謀でなければ一体なんだというんだ。
「――データを編集し、完成した新しいコンバットシステムは、特別な記憶媒体に封入されます。これが試作品です。人型を模したそれを、鋼人の有名無実化したコックピットに搭乗させると、自動でプログラムを読み込み、新規にシステムを上書きする仕様になっています」
「そのデータをまだ取ってもいないのに用意のいいことだ。まあ、そこはいい。あんたが乗り気な証拠ってことだろう。だがね、アイスさん。俺は疑問なんだ」
テーブルの上に並べた全高三十センチ余りの人形型ストレージはあっさりと無視された。
「ソフトウェアは書き換えればいい。だがハードはどうするね。人間の心身は不可分なもんだ。ソフトも成長すればそれに伴ってハードも変化する。この指を見ろ。突き、刺し、折り、割り、砕き、抉る……そのために硬く変化していった汚い指だ。鋼人にそんな真似はできるのか。指だけに限った話じゃない。俺の全身、いや、心身は全て凶器になる」
胡散臭い老人の言葉に、しかしパパは目を輝かせて食いついた。
「なるほど。いや、実に面白い! 現行の躯体はすでに完成してしまったもので、それに変化をつけることはできません。ですが、逆に未完成の躯体を作ることならできる。どうです。子供から大人へ成長する鋼人。これならば新しいコンバットシステムを走らせるに相応しい」
「そりゃ、一体こしらえるのに何年掛かるんだね……」
「月日の問題など二の次です。最強の鋼人兵士を作り出すことが目的なのですから」
子供の鋼人を育てる? そんなことしなくたって、カリキュラムを組んでシステムに対応した躯体動作を最適化してやれば済む話だ。パパはどうしてそんな手間の掛かる計画を楽しそうに話せるのだろう。
パパは子供を育て直そうとしているんだろうか。想像して、苦い唾が舌に浮く。嫉妬の味。
実験の手順をビスク老人に説明し終えると、パパはわたしに仕事を命じた。
別室に待機させている老人の孫息子に、これから行われる実験の解説をしてやって欲しいのだという。なんだか除け者にされたようで、ちょっと腹が立つ。説明さえすればいつでもパパの実験に付き合って構わないという了解を得たので、そこに文句を挟むのはよそう。仕事を任せられることは素直に嬉しいから。
用意したモニタールームに待っていたのは、わたしより五つほど年上の少年だった。いつも大人に囲まれて生活しているせいで、年上のはずなのに幼く思えてしまう。
事実、彼は自分の置かれている状況もよく分かっていない幼稚な男だった。彼の祖父がどれほど過酷な実験に参加しているのかも知らず、何故協力するのかも知らない。
けれどその情報を与えられ、無知を克服した彼の行動は――固かった。
老人の戦い続ける四十八時間、少年もまた飲まず食わずでモニタールームに張り付くというのだ。わたしには決して真似出来ない幼稚な発想。でも、それが悔しく思えた。
家族のために無用な苦痛を味わう不合理な行為を、わたしは思い浮かびもせず、よしんば想像したとしても実行に移そうとは思わないはずだ。
彼には出来て、わたしには出来ない。その歯痒さは、けれど爽やかで、わたしは無言のままに彼を応援していた。
いや、目の前で食事を取って、心理的に報復したことは認めるけれども……。
その腹いせの訳を、わたし自身はまだよく分からなかった。
実験のデータはモニタリングせずとも記録され続けている。モニタールームは休憩室の意味で用意したものだが、室内では被験者の孫が休憩とは無縁の状態に置かれている。その張り詰めた空気に、実験メンバーの誰もが近寄ろうとはしなかった。
でも、わたしが部屋を離れたのは、彼を見ていられなかったからではない。パパから呼び出されたせいだ。彼のやせ我慢から逃げ出すには都合のいい理由かもしれない。
ビスク老人の実験室とは別に、パパ個人の実験場が同じ棟の地下にあった。わたしが呼び出されたのはその区画のさらに奥にある、厳しいセキュリティを敷いた秘密性の高い特別な部屋だった。
外観は他の部屋と同じく、窓の無い真っ白な空間だけれど、パパが散らかしたまま片付けないせいでどこか煤けた感じがした。それでも空調のおかげでホコリっぽさは薄い。
「待っていたよ、ドゥシィ」
入室したわたしを認め、パパはドアのセキュリティを復帰させる。ピッという軽い電子音ひとつで密室に二人きりになった。
「どうしたの、パパ。わたしをこの部屋に入れるなんて初めてじゃない」
「ああ。ここは私だけの研究室だからな。他の研究員も滅多に入れない。今日はおまえに協力してもらいたいことがあって呼び出したんだ」
その言葉にわたしの胸が熱くなる。パパはわたしの誇りだ。そのパパに頼られることは、紛れも無くわたしの幸福だった。
期待に胸を膨らませるわたしに、パパは唐突な質問をぶつける。
「ドゥシィ、鋼人にとって最も重要なパーツは何だと思う」
「重要といっても重点をどこに置くか、コンセプトによって変わるわ」
どこだろう。超人的機動力を支える脚部か。人間の兵器をオプション装備できる両手か。サバイバビリティを高める生存本能を促す感情プログラムか。
「元を辿ればコアエンジンが全ての要じゃないの?」
微弱な電磁波を受けて振動し、電磁気力を自由に発生させることのできる奇跡の装置。鋼人の複雑な設計の中でも一番のブラックボックス。
「鋼人を鋼人たらしめる要素だよ。コアエンジンなど大型の家電にだって使われている。私としては、鋼人に必要不可欠なパーツは『顔』だと思っている」
「え? 顔なんて表情を作るだけの役割しか無い」
予想だにしない解答に疑問符を浮かべると、パパは少年のように微笑んだ。
「表情があるから鋼人は単なるロボットにならない。言葉が無くとも表情があればコミュニケーションは取れるだろう。もちろん鋼人は人間に微笑み掛けるための人形じゃない。だからこそなんだ」
「でも戦力には何のプラスにもならない」
「いつか君にも分かるよ。ドゥシィ」
パパはわたしの頭を撫でて部屋の奥に建つ真っ黒な円筒を指差した。背の高い大人くらいありそうな大きなそれの足元にはテンキーが並んでいて、パパはそれに歩み寄って設定済みのパスコードを入力した。
土砂降りの雨が窓ガラスを滑り落ちるように、円筒の黒い色が流れ落ちた。透明な筒の中には人型をした機械が立て掛けられていた。未完成の鋼人だ。
手足の揃った男型の鋼人には、たったひとつ欠けたものがあった。
「頭はまだ出来ていないんだよ。彼の顔には自分の素材を使おうと思っている。でも、私と同じ顔の鋼人がいたら気持ち悪いだろう。だから君の素材が欲しいんだよ。ドゥシィ」
わたしに向き直り、パパはわたしの顔を両手で掴んで視線を合わせた。そっと前髪がかき上げられる。
「君の目を、私にくれ」
わたしの瞳を覗くパパの目は遠くを見ているようだった。
わたしの琥珀色の瞳。ママと同じ色の瞳。パパはそこから視線を逸らさない。
「うん。もちろん。実験に身を捧げるのは科学者の義務だから」
笑顔を浮かべてパパの要求に頷いた。だってパパの役に立つことはわたしの幸福だから。それに素材の提供は初めてではない。試作品を組むときは設計局内で有志を募るのが慣例だ。
でも、パパのやりたいことは自分の顔とママの瞳を混ぜ合わせて、機械の男の子を造ることだ。パパはわたしを死んだママの身代わりにしようとしている。子供を作り直そうとしている。
わたしは何なのだろう。パパの娘じゃないのか。ママの代替え品なのか。
嫌だ。娘じゃなくてもいい。でも、ママの代わりだなんて、そんなのだけは嫌だ。
「パパ、この子の名前は決まってるの?」
「ん? そうだな……。気に入ったなら、ドゥシィがつけるといい」
「ありがとう」
この子はパパとママの新しい子供じゃない。わたしとパパの子供。だからわたしが名付けるんだ。絶対に。絶対に。
わたしは死んだママの代わりじゃない。わたしがパパの新しいママになる。
テーブルの上の太い油性マーカーを握って、円筒形のハンガーを開放する。首無しの鋼人が剥き出しになる。キャップを口で外してマーカーを鋼人の二の腕に押し付けた。
名前のつもりで短い単語を書きつける。正確で間違わない――そんな意味を込めた名前。
わたしとパパの子供の名前。
格好良い名前だ、とパパは言った。わたしの気も知らないで。
マーカーを机に戻したとき、散らかったパパのデスクの上に、広げられた一冊のノートが目に留まった。そこには罫線など無視して描き殴った汚いスケッチが一点。
まるでクローバーのようなシルエットだった。
「パパ、これは……」
「それは君が思っているような兵器じゃない。毒だ。とっておきの毒なんだ」
パパは名前を書き込まれた鋼人のハンガーの蓋を閉じる。
「用途はどうでもいいわ。それよりどうして三つ葉なの。四つ葉のほうが効率がいいでしょう」
心に浮かんだ疑問をぶつけると、パパはしばらく言葉を失って、やがて子供みたいにニヤリと笑った。
「さすがだ、ドゥシィ。それでこそ、私の娘だ」
自慢気に言って、パパは鋼人のハンガーに再び暗黒の迷彩を施す。
でも、わたしは知っている。その円筒のパスコードが、わたしの誕生日であることを。
ママの命日であることを……。
その夏、国境に毒が撒かれ、わたしの子供が勇名を馳せることのないまま、戦争は休戦状態に突入した。
時期を同じくして、パパは軍によって拘束され、一方的な裁判を受けて処刑された。
罪状は戦場に毒を撒いた罪。
パパは独断、独力によって戦争を停止させた――戦争犯罪人として死んだ。
時代は英雄なんて欲しがってはいなかった。
四十年前の禍根が今更になって顔を出したらしい。
部下が持って帰った情報屋からの伝言で思い出したのだ。
私の父の遺産を、彼もまた持っていたことに。
通り魔事件の現場はあの情報屋との接触地点に極めて近い。
二つの国を蝕んだ毒へ、四十年越しに立ち向かう日がやってきたのかもしれない。
わたしは、そのためにこそ軍の研究所で所長に上り詰めたのだ。
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