トォイ 4
動けなかった。至近距離で相対する毒の姿に、ぼくは動力を停止させられたみたいに身体を固めてしまっていた。
毒はひどい姿をしていた。人工毛髪は安物のモップより固く、衣服はすでに腐り、苔むして、そこに小さな植物の芽が顔を出している。肌の色味が悪い。皮下のナノマシンが整備不良で硬化してしまっている。柔軟性を失くした防御鋼糸はビスケットみたいに叩けば割れてしまうだろう。艶の無い外皮もすでに防弾効果など期待できない有様だ。
こんな――こんなガラクタ同然の鋼人に、二つの国は苦しめられていたのか。
東西に並ぶ木立を抜ければすぐに内海が広がる。この森に吹く風は潮風だ。加えて野ざらし雨ざらし。元より機械を放置しておくことに向かない土地だったのだ。
そこで四十年。来る日も来る日も、人を探し、航空船舶を探し、動くものを――敵を探して砲弾を撃ち込み続けた。その年月にはきっと時間の概念など通用しないのだろう。朝も昼も夜も、春も夏も秋も冬も、晴れも雨も嵐も、ひと続きの戦場という流れの中にたゆたう一滴の雫に過ぎない。
何も無い。誰もいない。他人がいない。だから自分すらいない。敵と役割だけがある。
ぼくの感情がこの森を否定していた。ここは違う。二つの国が触れ合う国境なんかじゃない。行き止まりだ。澱んだ風が吹き込む袋小路だ。その風はときどき吹き溜まりに砂埃を運んで消えてしまう。
どこにも、誰にも、繋がっていない。
ぼくの記憶に浮かび上がったのは、蚤の市の寺院で出会った神像の姿だった……。
首元を何かが横切った。と思った瞬間、ぼくの首がねじれ、下顎が粉砕していた。土台から壊れた下の歯が飛沫のように宙を舞う。
一撃だった。毒の右手がノーモーションの裏拳を放ち、棒立ちのぼくの顎を砕いて現実に引き戻した。
顎部ジョイントはバカになって右顎は完全に外れていた。これだけでもう声が出ない。
頚椎にはダメージが無い。アンヘルとぼくを繋ぐケーブルも無事だ。戦わなくちゃ。
先制攻撃を加えた毒の右手も無事ではなかった。手の甲が亀の甲みたいにヒビ割れて、手首の内側に過剰な深度で折れ曲がっていた。腕と手を繋ぐアクチュエーターとリニアチューブは確実に破損しているだろう。骨格も歪んでいるはずだ。
毒はぶらぶらする手を逆側に振った。外皮が裂け、外側に反り返った右手がもげる。文字通り、皮一枚で繋がった右手が千切れた腕の先にぶら下がる。その断面からは銀色の板が飛び出した。基本武装の対鋼人用近接戦闘兵器であるナイフだった。
毒はこれを取り出すために自分で自分の手を壊したというのか。ここで手を失っても惜しくないと思ったのか。それとも手を修復できないから捨てたのか。
毒は何も喋らないし、ぼくも何も喋れない。疑問は疑問のまま立ち消える。
抜き放たれたナイフが銀色に閃く。裏拳とほぼ同じ軌跡で繰り出される撫でるような斬撃を顎を引いてかわす。が、外れた右顎のせいで右頬に刃が突き刺さった。ナイフは頬を切り裂き口内を横切って左頬にまで裂け目を作った。ぼくの下顎が腐ったみたいに垂れ下がった。もう右側は繋がっていない。動けば左顎も外れて落ちそうだった。
ほっぺたの落っこちそうなオイシイ一撃を食らってしまった。なんていう軽口も叩けない。
衝撃で安全ヘルメットが脱げ落ちるのと同時に、ぼくのほうもナイフを展開させた。
カッ、とヘルメットが地に落ちる。それを合図に二つの銀光が瞬いた。
斬り上げたぼくのナイフが毒の腹を裂く。一方の毒はぼくの鼻っ面にナイフを突き入れた。
毒の腹から青黒く濁って粘つく体液が流れ出す。ナノマシンがまともに機能していないせいでナイフに仕込まれた毒性が全く顕れない。
ぼくの下顎は完全に千切れ落ち、ヘッドギアが外れてアンヘルの本体が後頭部に流れ落ちた。
一瞬、肝を冷やしたが、黒い箱は頚椎のケーブルに支えられて、バンジージャンプみたいに背中側へぶら下がって止まった。プラグは固い。まだ動ける。
薙ぐ動きには防御反応を示さないのか、毒はぼくの攻撃を回避も防御もしなかった。
いや、ぼくも毒も、それが出来なかったのかもしれない。
動作速度が速すぎるのだ。ただ速いだけではない。同種のコンバットシステムが作り出す竹のようにしなやかな動作が鋼人の瞬発力で動いていた。
見てから避けられる距離ではない。予備動作もほぼゼロ。互いにまともな防御は出来ない。
刃を触れ合わせるとハッキリ分かった。ぼくと毒の戦闘能力が同じソフトに由来することが。
毒は気付いたろうか。長距離狙撃ばかりしていた奴が、自分と同じだとか違うだとかを考えるんだろうか。同じ躯体に同じソフトを積んで命を削り合っているなんて思うんだろうか。
ぼくは分かっている。毒が流すどろどろした体液を見て殊更に感じてしまう。ぼくは今、人を殺そうとしているのだと。
肩の動きで毒の攻撃を察知し、左手で捌いてこっちのナイフを胸に突き込んだ。
攻撃と回避の応酬が続く中、足は下草を踏み固めるように互いの居場所を奪い合った。
間合いを譲ったほうが致命傷を負うと互いに理解しているらしい。
何合、打ち合ったろう。互いに傷を抉り、足元を青い色に染めていた。
毒自身が己を何者と定義しているのかは分からない。鋼人と思っているのか、人間と思っているのか、それとも純粋な兵器か、もしかしたら自分自身で毒だと思っているのかもしれない。
ぼくは似たもの同士が意地を張っているのだと思い始めていた。存在を削るこの殴り合いの経過時間をぼくは求めない。何分殴ってるのかなんてメインシステムに問えば回答が下るだろう。でも意味が無かった。この戦闘は全瞬の体感なのだ。毒の四十年と同じように時間の概念が意味を成さない。
一瞬一瞬に自分を込めた。ぼくを構成する意味たちを込めた。
ぼくを設計した科学者、技術者。顔の素材をくれたペルさん。ぼくと遊んでくれたゴーダタ。ぼくに立ちはだかったエピタフさん。ぼくに活力を送る顔も名前も知らない電力会社の人。蚤の市ですれ違った数多の人々。研究所の研究員たち。所長。イチマツさん。フロン。アンヘル。
ぼくには心が無い。他の人もきっと持っていない。
けれどその狭間には何かがある。ぼくと誰かを繋いで隔てる間隙に、確かに何かがあるんだ。
可視も不可視も、名前の有無も、過去も未来も、意識や無意識、生死の区別すら無く、ぼくに通じる全ての関係の中に――ぼくは、心という名前を当てはめる。
毒の足さばきが止まった。乾いた泥で汚れた足を、イチマツさんが抱き締めていた。
意識を取り戻したばかりの彼の唇が戦慄くみたいに動いた。読唇術がそれを読み取る。
――ぶちかませ、トォイ。
はいッ!
イチマツさんの処理を後回しにした毒の右腕がまっすぐぼくの喉を突く。
ぼくは両手を同時に突き出した。コンバットシステムの技なんかじゃない。がむしゃらに腕を伸ばしたんだ。
両腕の隙間に毒の腕がねじ込まれる。黒光る切っ先を、失った下顎で受けた。喉の上にずれた刃先がぼくの首を刎ね飛ばした。頭が地面に落ちる。
同じく毒の喉に向けたぼくのナイフは、向こうの左手に掴まれてしまう。残った最後の手がきつく剥き身の刃を握り締めていた。
ああ。そうとも。そっちを防ぐと思っていたよ。
ぼくの残った左手は毒の喉仏に触れた。防弾効果の無い外皮。防御鋼糸の作れないナノマシン。この条件。狙うは頚椎。引き金を、引く。
充填済みの圧搾空気が弾丸を押し出した。フロンの右手の破片から選んだ、鋼人殺しのナイフの切っ先。化け物退治の銀の銃弾。
空気の漏れる音がいやに大きく響いていた。
首の皮を裂き、パイプを千切り、銃弾は首の骨を――毒の本体を貫いた。
毒の右腕が力無く垂れる。廃棄物寸前の全身がぼくに投げ出された。ぼくの肩に頭がぶつかり、首がもげ落ちる。ナイフを掴んだ毒の指が凍りついたように固まった。
知らず、動かなくなった彼を抱き留めていた。
掴まれたナイフを仕舞い、両手で彼の肩を掴む。腐った服の袖が苔や土と一緒に崩れ落ちた。肌蹴た二の腕には、油性マーカーを引いた跡がうっすらと残っていた。たった一語。
――マシーネ。
毒の名前だろうか。誰がつけたんだろう。彼も誰かと繋がっていたんだろうか。その誰かはまだ生きていて、彼の帰りを待っているのか……。
ぼくは二の腕に書かれた文字を手で拭って消した。これで彼はただの毒だ。ぼくと戦って殺された、ただの毒なんだ。繋がった誰かが辛い思いをするのならこのほうがいい。
君の名は、ぼくが墓まで持っていく。だからもう休んでくれ。
毒の身体を離し、そっと地面に横たえた。
これで終わりだ……。そう思ったとき、銀色の光が喉元に走った。
――毒の右手がぼくの首に突き刺さっていた。
パタリとその腕が落ちる。メインエンジンの反応も消えた。これが最後の足掻きだった。
喉を押さえる。ナノマシンが針のように尖り傷口を広げている。まずい。
ナイフに仕込まれたビンテージもののウィルスが頚椎のシステムに浸潤する。トゲだらけの虫がぼくの記憶の上を這い回るようにしてズタズタに傷つけていく。
あっ、ああっ――いやだ、やめてくれ、お願いだ。
吹き飛ばされたはずの顔が苦しみに歪む錯覚がある。いや、口許は笑っている? 違う。躯体の制御が効かないんだ。
身体がよろよろと歩を進める。ぼくは帰るんだ。レールガンを持って。あれがあれば発電設備ができる。みんなが困らないくらいのエネルギーを生み出せる。あれさえあれば、ぼくだって、フロンだって、きっと元通りだ。
お願いだ。もう少し。あと少し。ぼくを、ぼくでいさせてくれ!
毒の居座っていた場所に辿り着いて膝をつく。すがるようにレールガンを抱き起こした。
記憶がぐちゃぐちゃにかき回されている。つい五分前のことがひどく懐かしいことのように胸に迫り、子供の頃のことが昨日のことのように感じられる。思い出の時系列が曖昧になって、過去と現在の境界が意味消失する。
毒が過ごした孤独の四十年を一瞬で体感しているようだった。
寂しくて、とても寂しくて、猛烈に会いたい人がいる。声を聞きたい人がいる。
それなのにどうしても名前が出てこない。
ぼくと繋がっていた人たちから、ぼくだけが光速で遠ざかっていくようだった。
鉛のように重い躯体で空間を走査する。センサは鬱蒼とした森の中で十字架のようなレールガンを抱きしめるぼくだけを認めた。
暗黒の宇宙で遠くに光り輝く星々をひとりで眺めているような心地だった。
何億光年もの真空の隔たりがぼくという存在を相対的孤独にしてくれる。
帰りたい。家に帰って、話したいことがたくさんある。聞いてほしい人がいるんだ。
だのに、その人のことが、もう――思い出せ、ない……。
波にさらわれるように空疎に消えていくぼくの中に、宝石のごとく輝く達成感だけが、ただひとつ消えることなく光を放っていた。
ぼくは見つけたんだ。心の行き着く果てを。魂の生まれるところを。
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