鋼人 トォイ 2

 凍りついたように立ち尽くしたまま動かない鋼人たちを押しのけ、同じふうな格好で固まった所長の真横を通過する。彼女の隣で人形屋さんが小さく溜め息をついた。

 そのとき突然、自分の足が硬直した。

「え?」

 誰かに両足を掴まれた感覚がして、石畳の地面が壁のように迫った。無様に叩きつけられて、自分の足を確かめると、両の足首に銀色の紐が絡み付いていた。左右の足に絡んだ細い紐は、それぞれ緊急停止した同期の鋼人に結びつけられている。

 転んだまま人形屋さんを見上げた。いつの間にこんな細工を施されたのかは分からないけれど、これをやったとしたら彼以外に考えられない。

「寝てるなよ。てめぇの相手はまだいるぜ」

 人形屋さんから視線を逸らさず、足の紐をほどいて立ち上がる。

「おじさんがぼくを止めるんですか。人形を渡した責任を取って戦うっていうなら、ぼくだって逃げませんよ」

「俺はやらねえよ。おじさんはしんどいことキライなの」

 臨戦態勢を取ろうと身構えるぼくを横目に、人形屋さんは仕掛けた紐に軽く触れる。それだけで二本の紐は硬く束ねたワイヤロープのような銀色の細長い棒に形を変えた。

「トォイ。おとなしく我々に回収されろ……」

 ジャケットの袖に銀の棒を仕舞い込む人形屋さんの隣で、姿勢を固めたままの所長が呟いた。いつも緊張感を絶やさない彼女が小さく肩を落とす。

 それが合図だったかのように、ぼくの行く手からゆるりと人が歩み寄ってくる。湾曲した路地から次第に現れた姿は軍服に包まれていた。全身草色の衣服で腰にはコンバットナイフ、脇には拳銃を吊っている。武装はそれっぽっち。なのに、いや、だからこそ、ぼくは戦慄する。

 犬のように黒目の大きな双眸が、ただまっすぐにこちらを見ていた。

「フロン……また、君か……」

「…………」

 フロンは無言のまま左手でナイフを抜き、右手で拳銃を握った。刃長三百ミリを超えるナタのような大振りのナイフは、切っ先に黒い結晶を埋め込んでいた。毒の刃だ。

「フロン、道を、空けてくれ」

 請願するぼくに寄越された返事は、一発の銃声だった。まっすぐに伸ばしたフロンの腕の先から灰色のスモークが立ち昇る。ナイフとは対照的に、彼女の手に合った小さな口径の拳銃は、悠長なぼくを許さなかった。

 銃弾なんて鋼人には通用しない。外皮にめり込んだときには、銃弾自らの回転によって摩擦係数を増やし、ダメージは通らない。よしんば外皮を突き破ったとしても、その下にはナノマシンの構築する防御鋼糸が張られる。それを突き破る加速と自重は鉛玉には無かった。

 この二重の自衛機構が鋼人の戦闘力の要といっていい。安心だ。

 そう思っていた。フロンが引き金を引く瞬間までは。

「なんだ……これ……?」

 胸に穴が開く。小さな穴だ。銃弾の直径よりもずっと小さい銃創だ。外皮は突き破られ、ハニカム構造の防御鋼糸をすり抜けて、それはぼくの胸に食い込んだ。

「針……?」

「対鋼人用アーマーピアシング弾だ。対防御鋼糸加工済みのな……」

 負傷を感知してナノマシンが傷口を塞ぐ。それに押し出される形で銀色の短い杭が零れた。その黒い先端は糸を引く青い血で汚されながら、シャツの内側を滑って地面に落ちた。

 針を火薬で撃ち出す銃。それならば摩擦での防弾効果は受けず、防御鋼糸の隙間を抜くことができる。

「化物退治の銀の銃弾だ……」

 フロンの装備をぼくに語って、所長はそう付け加えた。ぼくは化物、なのか……。

 フロンは銃を構えたまま歩いて距離を詰める。引き金に掛かる指に再び力がこもる。さっきの距離が体内に弾丸を残留させないギリギリの射程だった。今度当たれば自己修復の効かない負傷をこうむる。

 いい加減に回避すれは背後の同期や所長と人形屋さんが被弾してしまう。迎え討つしかない。

「トォイ。おまえに敗れて、フロンはコンバットシステムの全開放を申請したぞ。今のおまえにそれが止められるか」

 所長の言葉に気を取られているうちに左の脇腹に着弾。もう少し深く突き刺さっていればサブジェネレータが破壊されていた。弾丸が円錐形をしているおかげでまだ皮膚に刺さった状態で弾は止まっている。

「君も……君までも……。フロン……」

 後ずさりそうな足を踏みとどまって、ぼくは少し腹をくくった。

 石畳を蹴って駆ける。銃口を向けるフロンでなく、煉瓦塀の方向へ。彼女の銃がぼくを追った。上手く誘導できている。

 壁にぶつかる直前、フロンが引き金を絞る。ぼくが速度を緩めると思ったからだろう。けれどぼくは真正面に迫る煉瓦塀に足を伸ばした。壁は湾曲しているんだ。胸を重心に斜め下方へ体重を掛ければ煉瓦の溝を足掛かりに数メートルは走り抜けられる。

 足型を押し付けるように壁を走る。そこへ銃声の輪唱。足元で煉瓦の砕ける詰まった音が連続して立ち上り、フロンの銃は沈黙した。

「もう弾切れだろう」

 壁走りが限界距離に到達して着地。その間際にもうひとつ銃声。だが距離が離れている。外皮で杭は止まりダメージには至らない。

「まだ撃てるのか……。フロン、このままノーゲームにしよう。ぼくは君とは戦えない」

「…………」

 無言。銃撃と共に転身したフロンは、返事の代わりに所長と人形屋さんを庇える位置からひと蹴りでぼくの懐に潜り込んだ。

 左手のナイフが閃く。真夏の陽射しを映し込んだ刃が仰け反ったぼくの顎をかすめた。

 鳩尾に冷たい銃口が密着する。まずい。

 仰け反った勢いのまま跳ね上げた膝でフロンの右手を蹴り上げた。

 そこまでだった。両手を挙げて無防備になったフロンに、ぼくは追撃できなかった。

「……トォイ」

 大振りのナイフが首筋に叩き付けられる。咄嗟に右肩を竦めて刃を受ける。頑丈な骨格でなければ胸の辺りまで切れ込みが入れられていたところだ。

「君は本当にフロンなのか……?」

「……トォイ……殺す……」

 眼前の少女の目は真っ黒で、ぼくの顔を映し込んでいる。そこにかつての明るい面影は無く、ただ敵を殺すマシーンのような正確性が全身に滲み出していた。

「これをやったのは誰だよ……フロンをこんなにしたのは誰だ……」

 ガタガタに歪んで尖った彼女の感情を直接ぼくの肌に触れ合わせるようにして、残酷な銃口が喉元に向く。

「誰がフロンを変えたァ!」

 叫ぶ。声と一緒に前蹴りを放った。腹を蹴飛ばされて吹き飛ぶフロン。その姿勢でもぼくに銃を向けている。引き金に掛かる指が動く。

 銃声が轟く寸前、弾丸を包み込むように半歩前に踏み出した足を軸に入り身反転。計ったようなタイミングで一瞬前までぼくの身体があった場所を弾丸が通り抜けた。

「誰がやったんだよ! 答えろォ!」

 フロンに背を向けたまま入り身の勢いを殺さずに後ろ蹴り。確かな手応えがして振り向くと、彼女はひび割れた煉瓦塀の前で尻餅をついてうな垂れていた。形のいい唇を濡らして赤色の粘っこい液体が口から溢れる。血じゃない。分解プラントからせり上がった今日の食事だ。軍服の股を吐瀉物で汚してフロンは動かなくなった。

 所長を睨みつける。黒眼鏡をした顔からは表情が窺えない。立ち尽くすのは、慄然としているからか、それとも落ち着き払っていられる理由があるからか。

 どちらでも構わない。全部、問い詰めるまでだ。

「フロンをあんなにしたのは、あなたなんですか、所長」

 向き直ってにじり寄るぼくへ、所長は細い人差し指を突きつける。

「冗談のつもりなら笑えんぞ。フロンを追い詰めたのはおまえだ」

「そんなことを聞いてるんじゃないッ!」

 ざらついた空気を斬り裂くように手刀を真横に薙いだ。人形屋さんは所長の奥襟を引いて頭を引かせる。手刀は黒眼鏡を弾き、叩きつけた煉瓦塀を抉った。石畳の上で眼鏡の偏光レンズに白いヒビが走る。それでも所長は顔色ひとつ変えず、琥珀色の瞳でぼくを射抜くように見つめていた。

「おいおい、最近のロボットは硬気功まで使うのか。こりゃ、まるっきりジジイの技だぜ」

 砕けた壁面に埋まる手刀を一瞥し、人形屋さんが眉をひそめる。

「やだねぇ。俺、こんなのとどつき合いすんのかよ」

「その必要はまだ無い」

 露になった所長の視線がぼくの背後――フロンへ走った。

「トォイ! あの子をよく見て!」

 突如、背中に負ったアンヘルが声を上げる。フロンはやはり動かないままうな垂れていた。

「鋼人があの程度で機能停止するものか」

「所長の言うとおりよ。あの子、衝撃で一旦システムダウンしただけ。もうメインシステムが再起動して、今は全身を走査してるところよ」

「フロンはまだ起き上がるっていうのか……」

「それよりもダウンしたシステムを回復させてることが問題なのよ! コンバットシステムが起ち上がっていれば、鋼人は死ぬまで機能停止なんてしないわ!」

「それじゃ、まさか、フロンは……コンバットシステムを開放して、ない……」

 所長の顔に表情らしい表情が浮かぶ。薄い唇を歪めた、冷笑。

「フロンはコンバットシステムの全開放を求めたが、わたしは拒否した。いじった場所は感情値の上限設定くらいだ。言っただろう。彼女を追い詰めたのはおまえだとな」

 言葉少なに殺意を向ける姿を思い返して背骨に電流が走る。

「やっぱり妙な仕掛けを……」

 カラリ、と煉瓦の破片が地面に零れ落ちる。フロンが手をついて起き上がり始めていた。

 振り返るぼくの背に、所長は己の所業を告げる。

「正規のコンバットシステムを起動させれば感情は一定値を超えないよう、平衡あるいは切断処理される。わたしはそれを取り払っただけだ。意味は分かるか……」

 ゼリー状の固形物が混ざる赤い吐瀉物を地面に払ってフロンは再起した。銃を捨ててナイフを右手に持ち替える。

「あれは正真正銘、通常と何ら変わらない心理状態のフロンだ」

「う、うぅ……」

「嘘じゃない。所長の言うことは全部ホントよ。あたしが頼んだのよ。あんたが怒りに任せて引き金を引いたなら、あたしだって同じことを仕返してやる」

 フロンの明瞭な声が淡い幻想に爪を立てる。さっきまでの低く沈んだ声音のほうが演技だったのか。いや、フロンの研いだ殺意は荒々しい激昂を越えて、凍てついてしまったんだ……。

「死んでよ、トォイ。あんたが生きてちゃ、あたしは胸を張って強襲隊へ入れない。あんたの存在が、あたしの価値を貶めるのよ」

「やめてくれよ。ぼくとフロンが戦う理由なんて何にも無いじゃないか」

「理由なんてね、もうどうだっていいの。あんたがあたしより強くちゃ、あたしは完璧な兵器にはなれないのよ」

「だったら放っておいてくれればいいじゃないか。ぼくがどうしようと、フロンは強いよ」

「あたしはあんたに負けた。今まで一度だってそんなこと無かったのに。だから、あたしがあんたに敗北することは絶対にあっちゃいけないことなのよ。あたしの精度に傷がつくでしょ」

「そんなこと言わないでくれよ。君は兵器じゃない。兵士だ。鋼人っていう人間なんだ」

「寝ぼけたこと言ってるんじゃないわよ。鋼人は人型兵器。数をこしらえて時間を掛けて精選する。使える奴と使えない奴をね。あんたは今までどおり、あたしに守られて人間ごっこをやってればよかったのよ!」

「ごっこなんて言うな! それならどうして、ぼくはこんなにかなしいんだ!」

 指揮者が四拍子を刻むようにフロンはナイフで宙を切って鋭い切っ先をぼくに向けた。

「ファジィ集合論と経験の蓄積を材料に推論エンジンが導き出した状況適合能力。鋼人に心なんて無い。あるのは作り物の機能だけよ」

「だったら人間はどうなんだよ。人間の感情だって、ぼくらと同じように物質でできてる。シナプスに流れる電流が心なのかい。副腎の分泌するホルモンの奔流が心なのかい。人間だって作り物だ。心なんてどこにも無いじゃないかッ!」

 精神活動という頭脳労働を行うあらゆる存在と、それを観測者とする世界観には、心は存在しない。精神は物質だ。自己の内でぐるぐると巡って浪費されるだけの物質だ。

「今のあんた、自分を人間の一員だと思い込んでるバカな飼い犬みたいよ」

「それでも構わないよ。ぼくは人間になりたいんじゃない。ぼくが人間なんだ」

「思い上がりもいい加減にしなさいよ……。あんたもあたしも人形よ」

 フロンは身体を沈め、片足を引いてナイフを構えた。――あの突進が、来る。

「人形は人形に戻れェ!」

 煉瓦塀をスターティングブロックにして爆発的な加速をする。感情を剥き出して歪めた顔が上目遣いにぼくと視線を交わらせる。自身を一発の弾丸として、フロンは真っ直ぐに突いてきた。胸の前に引いて構えたナイフの光る切っ先が黒い直線を描いて風を斬り裂く。間合いに入った瞬間手元で伸びるはずだ。

 はず……? いや、ぼくは確信してその一瞬を待ち構えていた。後ろには所長がいて、ぼくが避ければ大惨事に至る。受けるしか無いんだ。見逃すな。

 フロンが二歩目を踏み切る。スタートダッシュが効いている。たったの二歩で鋼人の限界速度に到達した。踏みしめた足元で石畳が細かく割れる。

 三歩目がぼくの間合いに踏み込んだ。一瞬が刹那に寸断される。

 コマ送りの風景は確かな加速度を伴って感覚に流れ込んでくる。

 フロンの肩が揺れる。凶暴なナイフが毒牙を剥いた。

 空間を跳躍したように懐へ抉り込む一刀。胸に突き立てられる寸前を狙って、ぼくは無骨な刃を右手首で払う。腕から展開された仕込みナイフがフロンのナイフと噛み合う。加速と体重を預けた刃先だ。力負けは承知の上。

 引きつけて、切っ先を逸らせば、ぼくの勝ちだ。

 瞬間、火花を散らす刃と刃。左手を添えて直進する力の方向を右脇へ受け流す。

 低姿勢で突進してきたフロンは倒れ込む他に道は無く、石畳の地面に顔面をこすりつけようとしていた。

 いや、おかしい。どうして顔から転ぶんだ。まるで自分から転びにいっているみたい――。

 疑問符が浮かぶより早く、ぼくの視界に戦闘軍靴の固い靴底が迫った。ほぼ真下から突き上げられる高速の奇襲に対処する術は無く、ぼくの顎は見事にぶち抜かれた。

「あッぐ……」

 怯んでいる暇は無い。すぐに次が来る。前転して着地したフロンが身体を捻って転身。再びナイフが踊り来る。ぼくは僅かに身体を傾がせる。背後から脇腹を狙った一撃は汚いシャツを裂いてかすめた。

 右脇をすり抜けたフロンの腕を捕まえて、膠着、数秒。

「所長ッ! 邪魔ッ!」

 二人して異口同音に注意する。高機動戦闘中の鋼人の隣で棒立ちでいるなんて、自殺行為も甚だしい。もちろん生身の人間が対応出来る次元の速度でないのだから反応しろというほうが無理なのかもしれない。

 人形屋さんが再度、所長の首根っこを引っ掴んだ。距離を取ったことを確認して、ぼくはフロンの腕を抱えたまま左手の壁に向かう。さっき手刀を打ち込んだ亀裂に足を掛けて壁を駆け登る。フロンの肩を軸に壁を蹴ってバク宙。彼女の背後に着地する寸前、フロンは素早く身を翻して肩を極められることを避けた。

 意表を突いたつもりだったのに、鋼人の反応速度では回避できてしまうのか。

「えげつないことするじゃない。あんたの性格、特殊隊向けよ」

「いやぁ、褒めてもらって悪いけど、通信隊にも未練があるんだよね」

「鋼人にそんな部隊無いわよ! あたしたちは兵器。動きを掌握するのは人間の役目よ」

 フロンは習い覚えた技術でぼくの手を振りほどいて真半身にナイフを構える。

 ぼくも右手のナイフを掲げるがナイフ同士の勝負では分が悪い。フロンはナイフを手に持っているけれど、ぼくのほうは手首から生えている。仕込みナイフである分、ブレードを固定するスペースが小さく壊れやすい弱点がある。それだけでなくフロンのほうは手首が自由に動かせる。同じ動作速度を有した兄弟機だ。この差は大きい。

 真半身で攻勢を見せるフロンに対して、ぼくは半身で左手を腰に溜めて正拳の構えを取る。

「ハァァッ!」

「それで虚勢を張ったつもりかァ!」

 気迫を込めて声を上げ、エンジンの回転数を上げる。フロンはお構いなしにナイフを閃かせる。踏み込んで正中線を狙ったショートフック気味の軌道。加速がつく前に仕込みナイフで弾いた。このまま距離を詰めて肘を顔面に打ち込もうとしたが、真半身のフロンには半歩間合いが遠い。メインエンジンを狙って突き込められる一刀一刀。その刃をくぐるように死と隣合わせの一瞬をしのぎ続ける。

「防戦一方よ。電池切れなんじゃない。余裕の無さが顔に出てるわよ」

「…………」

 手首で固定されているナイフでは軌道が予測されやすい。フロンが食らう攻撃は予測を困難にする予備動作の無い素手の技だけだ。

 もう少し。もう少し耐えれば、反撃の手が揃う。

 細かく切り刻むように刺してくるフロンの手元が急に曲がる。顔面を狙ったふうに突き上げるフェイントから、一転して胸元へ鋭い切っ先が迫った。

 間一髪、ナイフでの防御が間に合うが、二人とも受け止めた姿勢が悪い。先にナイフを引いたほうが一撃を食らう格好だ。

「また……膠着状態ってわけ……」

「いや、君の負けだよ、フロン」

 腰に溜めた左腕に勝機が宿った。動きの止まったフロンの脇腹に左の掌底をぴたりと添える。

「うっ!」

 衝撃がぼくの腕とフロンの身体に走る。彼女はナイフを取り落として吹き飛んだ。

「寸勁、浸透勁だと!」

「違う。拳法ではない。倒れたほうをよく見ろ」

 目を見開く人形屋さんの隣で、所長は冷静にフロンの脇腹を指した。そこには青い血のシミが草色の軍服を黒く染めていた。そのシミの中心に小さく開いた穴。

「弾痕だ……」

「君からもらった弾だよ。使わせてもらった」

 左脇腹に打ち込まれた銀色の特殊徹甲弾。皮膚で止まったそれを、正拳の構えに紛らせて左腕の空気銃に装填していた。準備動作を悟らせないために、エンジンの振動音を増やし、ポンプの駆動音を抑えた。そのせいで圧搾空気の充填まで防戦を強いられていたのだ。

「空気銃にライフリングは無い。回転が無い分、外皮でのエネルギーロスが少なく、ゼロ距離なら体内まで撃ち込める。対防御鋼糸加工が仇になったね」

「トォイ……」

「動かないほうがいい。多分、サブプラントに食い込んでる。修理にはひと晩はかかるよ」

 うずくまって睨みつけてくるフロンを見返し、右手のナイフを収めた。

 これで障害は無い。北を目指せる。

 二人の中年と二十九人の同期を背にして、障害物の無い路地へ向き直った。一歩を踏み出す瞬間、背中のリュックを誰かに掴まれて足が止まった。

「人形屋さん……離して、ください……」

「トォイ」

 言葉を返したのはリュックの口を握る人形屋さんでなく、動けないフロンのほうだった。

「行っちゃ、ダメ……。北に進めば、毒に……殺される」

「もう喋るな」

 所長はフロンの頭を踏みつけて言葉を遮った。

「毒に殺されるってどういうこと。毒に冒されるんじゃないの?」

「人形屋。そいつも黙らせろ」

 リュックを掴む手が離される。人形屋さんは節くれだった両手でぼくの脇腹を挟み込んだ。

「中は効くんだったな」

 背後からそう言われると同時に、腹部に衝撃が生まれた。青色の体液が常温のまま沸騰してしまいそうな力の奔流が、身体の中で嵐のように荒れ狂っている。知らず、膝から崩れ落ちていた。両手をつくと、衝撃に打ち抜かれた分解プラントが、口まで液体を逆流させた。

「うぶっ!」

 石畳の地面を透明な水が濡らした。

「なんだ。水ばっかじゃねえか。ろくなもん食ってねえな」

「逃亡者に、ごふっ……栄養管理は無理で、ごほ、げほっ……」

 後から後から水がせり上がってくる。分解プラントが直接殴られたみたいに動作不良を起こしていた。耐えろ。立ち上がれ。ここから早く逃げなければ。

「てめぇ、自分のことを人間って言ったわりに、生身の人間を見下しやがったろ。だから俺の挑発に乗ってノコノコついて来やがったし、今も簡単に打ち込まれんだ。人間は鋼人にゃ負けねえぜ。勝てるかどうかは知らねえけどな」

 四つん這いの格好をどうにかしなくちゃ。背骨は鋼人の弱点だ。今、人形屋さんはぼくの背中を見下ろしている。その上、彼は脊椎に一撃入れるだけで鋼人を殺せる武器を持っている。

 倒れて、這いずってでも逃げろ。一秒でも早く。ここから。

 頭では分かっているのに、身体が言うことを聞かない。一撃でこのダメージ。信じられない。

「てめぇは鋼人を何十人も退けて、それで安心しやがったんだ。俺なんざ眼中に無えって思ったんだろ。長引かせるつもりはねえぞ。これで、落ちろ……」

 腰椎に人形屋さんの手の甲が載る。そこに逆側の拳を載せて――ズン、と深く垂直に体重を落とした。背骨が縦に引き裂かれそうな、落雷を連想する衝撃が全身を貫いた。

「――ッ!」

 悲鳴さえ上げられない。意識が保っていられない。コンバットシステムをもってしても、深く重く長く苦しい雷の殴打に、耐えるだけの効率化プログラムは働かなかった。

 センサ群が次々と感知不能を告げる。鋼人の二本柱のひとつ、メインシステムが匙を投げた。閉じ込められたように真っ暗な空間で、時間さえも止まってしまう。

 ぼくは……死ぬのか……。

 鋼人が素手の人間に敗北して、死んでしまうのか。最後の最後にとんだお笑い種じゃないか。これも人を撃った償いなのか。フロンを傷つけた報いなのか。

 人形であることを否定した罰を、今、ぼくはその身に受けている……。

 そういう、こと、なの、だ……ろう、か……。

 全てが、消えた――。

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