母親 ペル 2
トォイが眠りに就き、二日が経った。予定ではあと二時間ほどで目覚めるはずだ。起きたら貯水槽が空っぽのはずだ。だからダイニングテーブルにコップ一杯の水を用意した。寝ぼけていないなら氷をいれてやってもいい。
その日の昼食は息子たちと冷たいソバをすすっていた。暑い日はこれに限る。近頃は毎日こんな食事のローテーションだ。こんなことなら近々、氷屋を宅配にしてもらおうか、と思案していたときだった。
二日前と同じ頃合いで玄関のベルが鳴る。箸を置いて玄関へ向かう短い時間、わたしの頭にはうちを訪ねてきたときのトォイの顔が浮かんでいた。
「はーい」
ドアを開けて既視感に襲われた。強い陽射しが濃い影を作る集合住宅の玄関先で、二日前と同じように、年の頃十四、五の子供が立っていた。
トォイよりも少し背の低い、夏らしい青いワンピースの女の子。だが目を引くのはその肩に袈裟掛けに垂らしたベルトで腰に吊った、巡査の持っているような黒鞘の軍刀だった。
剥き出した両肩とは不釣合いな、ボリュームのあるキャスケット帽の下で、彼女は犬のように大きな黒目を微笑みのアーチに隠した。
笑顔だけ見れば愛らしく見える。けれどその顔に違和感を覚えた。出合い頭の無表情から一変した瞬間のギャップ。日頃から表情のコロコロ変わる子供と接しているからこそ分かる。
この子は人間じゃない。
女の子は背筋が凍るほどチャーミングな笑顔で尋ねる。
「ごめんください。トォイいますか」
冷たい汗が頬を伝った。蝉が一鳴きする時間がこんなにも長いと感じたことはなかった。
何かを考えるより先に、わたしは扉を閉めて家の中に逃げ込んでいた。外に出るためにつっかけたサンダルを履いたまま廊下を走る。ダイニングでソバを巻いたフォークをツユにじゃぶじゃぶ付ける無粋者な息子二人を抱き上げて、寝室に鍵を掛けて放り込んだ。
「いい! 絶対に出ちゃダメだからね!」
有無を言わせずそう言い含めて、ダイニングの椅子を一脚引っ掴んでバルコニーへ飛び出した。真夏の熱風が吹き付けて背中の冷や汗をぬるくしていく。椅子に上って屋根の上を覗くと、トォイはまだ横になったままで、頭の横には銀色のバケツがうんともすんとも言わずにいる。
「あつッ!」
ひさしを掴んで熱線に焼けた屋根の上に登った。雨ざらしで真っ黒に汚れた屋根を、サンダル履きで駆けた。
「起きなさい! 軍のロボットが来たの! 早く起きなさい!」
「無駄無駄。待機状態と違って休止状態は再起動を掛けないと目を覚まさないんだから」
ワンピースの少女は音も無く屋根の上に現れた。女の子にしてはしっかりした指が、軍刀の柄を握る。鯉口が夏の太陽を反射して、銀色の眩い光を放ちながら長剣が滑らかに抜かれた。
総天然色の映画じゃ安っぽくピカピカ光ってたのに、本物の剣はモノクロ無声映画のようにその金属光沢に存在感が宿る。鋭く研がれた刃先は、錆止めでも塗られているのか、黒い線が切っ先から切羽まで続いていた。
「どいてちょうだい。あたしはトォイを始末しなくちゃいけないんだから」
白刃を前にして膝が震えた。膝だけじゃない。頭の芯が痺れるように震えて、それを震源に背骨がじんわりと温度の無い熱を持つように揺れた。これが、純粋な恐怖。
真夏の熱風にさらされながら、両腕に鳥肌が立った。全身が凍りついて動かない。
「時間が無いのよ。トォイの反応が消えたのが四十六時間三十七分前。この季節の日照時間から考えれば、完全充電から再起動まで残り一時間もない。今、楽にしてあげなくちゃいけないのに、邪魔をしないで」
少女は軍刀を突き付ける。それでもわたしは両手を広げて彼女の前に立ち塞がった。
彼女の目が小さく見開かれたかと思うと、それはすぐに携える刀剣のごとく鋭さを増す。
「どうして立てるのよ」
どうして? 問われて、わたしは今更になって理由を探した。わたしが庇おうとしているのは限りなく見ず知らずに近い少年だ。そもそも人間じゃない。ロボットだ。家の中には実の息子だっている。あの子たちよりも、わたしは十年も存在を忘れていた赤の他人を守ろうとしている。どうしたって理屈に合わない。
理由なんて――だって、わたしが守らないと、あの子が死んでしまう。それっぽっちの、義務感にも満たない薄っぺらな衝動だけだ。
なのに……どうして……問われて、身体の震えが引くのだろう。恐怖が和らぐのだろう。
身体に力を込めたとき、険しい顔をした少女は怒気を含ませた声で問うた。
「どうしてかって聞いてるのよ。なんでもう立ち上がれるの。答えなさいよ! トォイ!」
「え?」
わたしの背後に尋ねられた言葉で、肩越しに後ろを振り返ると、そこには濃い眉を吊り上げて直立するトォイの姿があった。
「太陽が眩しかったから……なんて言っちゃダメかな。君は計算違いをしたんだよ、フロン。発電の火種は日光だけど、日光は光線だけじゃない。熱も含まれてる」
「コンクリートの輻射熱! 発電効率を上げて時間を短縮したってわけ……」
「君が人質なんて取る奴じゃないってことは知ってるけどさ、一応用心のために寝たフリをさせてもらったよ」
「やるじゃない。トォイのくせに」
トォイは軍刀を構え直す少女の前に出て、わたしを背中にかばった。
「ペルさん。ぼくのことはもういいから。あの子たちと一緒にいてあげてよ」
「ダメ……足、動かない……」
「大丈夫。だってあなたはお母さんじゃないですか」
脳裡に息子たちの顔が浮かぶ。寝室に放り込んだときの、呆けたような二人の顔。
雷に打たれたようだった。わたしがここで死んだら、ほっぽり出してしまった息子はどうなる。蒸し風呂のような寝室に留まって、ゆるそうな頭がいい具合に固茹でにでもなってしまったらどうする。馬鹿で馬鹿で馬鹿なわたしだけの子供がハードボイルドになるなんて認めてたまるか。わたしが今、本当に守らなくちゃいけないのは、わたしじゃない。自宅でもない。家庭でもない。子供だ。子供だけだ。
「ズイくん……ウーくん……」
身体にまとわりついていた痺れがするりと落ちていく。わたしの目の前にはもう、中等学校も出ていない子供が二人向き合っているだけだ。何も怖くない。
「うわあああああ!」
唇を噛んで駆け出した。熱い呼気が渇いた喉をなぶって過ぎる。サンダルが邪魔で裸足で焼けた屋根を走った。軍刀の脇を抜け、屋根のひさしを掴んで椅子に落ちる。着地を失敗して椅子から転げ落ち、バルコニーの床を突然現れた見慣れない壁と勘違いしながらリビングまで這って、四つ足で寝室の前に駆け込んだ。
息が上がる。こんなに必死に身体を動かしたことなんて、学生時代にやったバスケットの引退試合以来だ。頭をぶつけたからか、視界がぼやけていた。
「ズイくん……鍵開けて。分かる。分かるよね……」
震えてひずんだ声。自分のものとは思えない。カチャン、と鍵の外れる音を聞いて、反射的にドアを引いた。鍵を開けるのにドアにもたれて背伸びしていた息子が雪崩込んできて、わたしは思わず抱き締めた。
「ごめんね……ごめんね……お母さん、ごめんね……」
よほど打ちどころが悪かったのだろう。目の前がぐずぐずに滲んで、すぐそこに寝転ぶ次男の顔も見えやしない。
「おかあさん、どっかいたいの」
「うん……でも、いいの。痛くていいの……」
わたしの腕の中で長男はもがいた。でも、わたしは彼の身体を離さない。汗ばんだ細い首に頬を寄せたまま、寝室の中にわたしは身体を滑り込ませた。
震えの止まった指で鍵を掛け、親子三人、ベッドの上でタオルケットを引っ被ってただただ時間が過ぎるのを待った。
何度か大きな音がして、それが止み、蝉の鳴き声が変わって窓の外が茜色になった頃、ようやく寝室の鍵を開けた。
トォイがどうなったのか確認する気力は湧かなかった。
でも、テーブルの上に置いたコップの水は空っぽになっていた。
旦那は我が家に三日間も滞在した通り魔のことなど知らない。屋根の上に取り残されたまま、雨ざらしになってしまうであろうサンダルの存在も知らない。
そしてなにより、乾いたわたしの中に、溢れんばかりの水がたたえられていることも知らないのだろう。あのとき頭を打って目が悪くなったのでなければ。
そうとも。わたしは乾物のような女ではない。
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