黄昏に沈んだ街

 私の父はとにかく不器用で、それでいてとても優しい人だった。

 それが、リムの語り始めの言葉だった。

 リムがまだこの世に生を受けていない時の話だ。

 カトリッジという街に一人の男が迷い込んできた。男は当初、まるで記憶を奪われたかのように、なにも知らない、なにもわからないと繰り返していただけだった。

 あまりの取り乱しように最初は遠巻きにしていた街人だったが、次第に気の毒に思うようになり、そのうちなんとかしてやろうという雰囲気になった。

 そこで名乗りでたのが、リムの父親であるゼクテ・フォスターだった。

 ゼクテは男に名を尋ねた。


「グニエ……ハルト……グニエ、ハルト」


 男は必死に自分の名前を繰り返したが、発音が不鮮明でよく聞き取れなかたったという。とりあえず、近い発音でグニーエ・ハルトと呼ぶことにし、自分の助手として働いてもらうことにした。

 ゼクテは魔法研究の第一人者だった。今でこそ当たり前のように使っている魔法だが、その起源はいつなのか? どこで発生したのか? 最初に使った者は何者なのかなど、湧き上がる疑問を解明すべく、それこそ人生を賭けて研究していた。何日も部屋に閉じこもったかと思えば、誰も近づかないような険しい秘境にまで足を運ぶこともあった。

 それまでは単独行動が基本だったが、グニーエが来てからは二人で行動することが多くなった。日々を重ねるごとに研究の成果は具体化し、解明できた謎もいくつかあった。魔法研究に関わっている時のゼクテは、まるで森を探検する少年のように活き活きしていた。

 最初は仕方なしに付いて行った感じがあったグニーエも、次第に魔法という力に魅了されていった。ゼクテは、そんなグニーエの中に魔法の才能を見出していた。

 この男は、他の者より強大な魔力を有している……

 始まりこそ師と弟子といった関係だったが、時が経つに連れ二人はよきパートナーとしての関係を築いていった。

 研究に明け暮れていた二人だったが、グニーエの知識が豊富になるに連れ別行動を取ることもしばしば出てきた。

 そして各々に伴侶ができた。研究のパートナーでなく人生のパートナーだ。ゼクテは以前から交際していたフロイと、グニーエはその真面目でやや陰りがある仕草に惹かれたというリュックという女性と、ほぼ同時期に結婚し家庭を持った。

 数年の歳月が流れた。子供が生まれた。奇しくも、結婚した時と同様に、子供を授かったタイミングもほとんど一緒だった。先に生まれたのはフォスター家の方で、その女の子はリムと名づけられた。リム誕生の四日後、今度はハルト家に男の子が生まれた。


「おめでとう」

「この子たちも、よきパートナーになるかな」


 二人は、互いに子供の誕生を祝いあった。

 それぞれに守るべき家族を持った二人は、さすがに始終一緒というわけにはいかなくなった。魔法の研究は続けたが、スケジュールが合わなかったり、研究対象が違ったりで、共に出掛ける機会はぐんと減った。

 だからといって、二人の距離が遠ざかったわけではない。ピクニックに出掛けたり、夕食を共にするなど、家族ぐるみで付き合いは続いた。

 リムはその時のことをぼんやりと覚えているが、残念ながらグニーエとリュックの子供の顔は思い出せないという。気弱でいつも自分の後ろを付いてくるような男の子であったことは記憶に残っているとのことだ。

 二人の関係に変化が生じたのは、リムに物心ついた頃だった。それまでとは違い子供でもわかるくらい疎遠になったのだ。

 まず、二人で出掛けることがなくなった。今までのように予定が合わないとかそういう理由ではなく、グニーエが意図的に避けるようになったのだ。

 最初はゼクテも心配したり様子を伺ったりしていた。


「なにか問題があるなら相談に乗る」

「俺たちは友達じゃないか」


 言葉を編んで、グニーエの態度の変化を聞き出そうとした。しかし、グニーエの頑なな態度は岩盤のように硬かった。急に心を閉ざしてしまったグニーエに、さすがのゼクテも次第に心が冷めていった。

 しかし、なにがきっかけだったのかは知る由もないが、ゼクテはグニーエの変化の原因となったものの一端を見つけた。独自の調査で手繰っていくと、どうやら古代に存在した魔法が端を発しているようだ。俄然、興味が湧いた。それに魔法研究に関しては一日の長があるとの自負もあった。

 深くまで調べ進めていくうちに、ゼクテも古代魔法に心を奪われた。グニーエを変えたものの正体を探るという目的も忘れるほどにだ。

 ゼクテは、これまで以上に寝食を削って研究に没頭した。そして、一つの答えにたどり着いた時、恐怖と戦慄を覚えた。それは、この世の理を崩しかねない危険な魔法だったのだ。

 グニーエの秘密を知ったゼクテは、それまでとは比較にならないほど焦燥した。通わなくなって久しかったグニーエ家に再び寄るようになった。手を引くよう説得するためだ。しかし、グニーエは受け入れなかった。

 ある日のこと、リムはゼクテとフロイの会話を聞いた。夜中にトイレに行こうとした時、居間から二人の声が聞こえてきたのだ。一言一言漏らさず聞いたわけではないが、「あまりに危険だ」とか「取り憑かれてしまったんだ」などという台詞が混ざっていた。ゼクテはリムになにも言わなかったが、幼いなりに雰囲気を察した。

 リムは、グニーエの家に遊びに行くのをやめた。まだ両親の庇護から離れられない年端もいかない子供であり、親は親、自分たちは自分たちと、割り切って考えることはできなかった。何度かグニーエの息子が会いに来たみたいだが、フロイに頼んで家の前で帰ってもらった。結局、彼とは二度と会うことはなかった。

 ゼクテとグニーエがギクシャクし始めてから数ヶ月が経ち、溝はますます深まる一方だった。ゼクテは説得を続けていたが、グニーエの方が避ける一方なので、解決の糸口など手繰れるはずがなかった。

 そして、惨劇が起きた。

 あれは、リムがゼクテに連れられて近郊の山に出掛けた日だった。そろそろ魔法を本格的に教えようと考えたのだろう、ゼクテが山で過ごすためのキャンプ場に行ったのだ。キャンプ場と言ってもゼクテが勝手に開拓した空き地で、五~六人も居ればいっぱいになるような、猫の額ほどの広場だった。

 それでもリムは初めての野外活動に心浮き立った。ゼクテの指導の下、魔法に対する見聞を広めた。あの時は想像もしなかったが、これがゼクテと共に魔法に触れた最後の日となった。

 瞬く間に時間は過ぎ、帰路についたのは日が傾きかけた頃だった。疲れていたが帰路につく足取りは軽かった。リムの心は充実感に溢れ、長い帰り道も辛いなどと感じなかった。

 修行中にゼクテから筋が良いと褒められた。実は、この日以前から魔法の精製の仕方は教わっていたのだが、なかなか上手くいかなかった。それが修行中になにかコツを掴んだのか、今まで躓いていたところをあっさり通過できたのだ。早く帰ってフロイに学んだことを報告し、褒めてもらいたかった。

 そろそろカトリッジの入口が見えるという所まで来た時、異変に気づいた。先に気づいたのはゼクテの方で、一度立ち止まって「馬鹿な」と呟いた後いきなり駈け出した。

 リムはゼクテの名を叫んだが、待ってはくれなかった。事態の詳細などわかりようもなかったが、なにかとんでもないことが起こったのだと直感し怖くなった。楽しかった気分は瞬時に四散し、泣きながらゼクテの後を追った。

 カトリッジは消滅していた。全滅ではない。文字通り跡形もなくなっていた。

 笑い声が聞こえてきた家屋も、何度も通った商店も、見知らぬ旅人が訪れては再び旅立った宿屋も、無骨だが愛想の良い男たちが飲み交わした酒場も、草や木々さえも、なにもかもなくなっていた。初めてこの地を訪れた者は、元々何もない荒野だと勘違いしてしまっただろう。それくらい、微塵もなくなっていた。

 リムはその場に座り込んでしまった。まるで麻酔によって感覚をなくされたみたいに、体に力が入らなかった。理解の範疇を超える出来事を目の前にして、脳が受け入れるのを拒否してしまったのだ。泣けばいいのか、叫べばいいのか、まったくわからなかった。

 ゼクテは、酩酊しているようにふらふらと前進した。なにもなくなっても、長年住んだ街だ。大体の位置は把握している。自宅があった場所まで来た。やはりなにもない。草一本さえ生えていなかった。しばらく立ち尽くしていたが、はっと顔を上げ、今度はグニーエの家があった場所まで歩いた。

 そこには、床が残っていた。虚無の中に唯一残っていた人工物だった。直径約二メートルの綺麗な円形の床だった。そして、その床には焼き印を押されたような跡があり、それは魔法陣を描いていた。中心から外側に向けてものすごい衝撃が襲ったように、霞んで見づらくなっていたが、間違いなく魔法陣だ。しかも、今まで見たことのない模様のものだった。


「これは……」


 ゼクテは、すべてを理解したようだった。

 目前に広がる大惨事を受け入れても、取り乱すことはしなかった。そのかわり、すべての感情を必死に体内に抑えつけていた。目は血走り固く握った両手は震えていた。


「……殺してやる」


 リムがどうにか追いつき、ゼクテの背後に立った時、地獄の底から響いてくるような声が聞こえた。とても自分の父親から発せられた声とは思えないほど、暗く重たい一言だった。

 ゼクテはリムの手を取ろうとしたが、リムは後退した。瞬時にまるで別人のようになってしまった父親に恐怖したのだ。嫌がるリムの手を強引に掴み、その場を去ろうとした。だが、リムは抵抗した。


「お母さんは?」


 掴んでいる手にぎゅっと力が入った。


「……行くぞ」


 ゼクテは力まかせにリムを引っ張った。それでもリムは抵抗をやめなかった。


「ねえ、お母さんは? どこに行ったの?」


 娘の疑問には答えず、ゼクテは無言のまま進もうとした。尋常ではない父親の行動がますます怖くなり、リムは反対方向へ駆け出そうとした。しかし、所詮大人と子供だ。力では到底敵わなかった。

 とうとう転んでしまったが、すかさず抱きかかえられた。どんなに暴れても泣き叫んでも、ゼクテは意に介さぬまま歩を進めた。


「お母さんっ! お母さーんっ!」


 リムの母親を呼ぶ声は虚しく響くばかりで、住み慣れた街はだんだん小さくなっていった。

 この事件は方々に知れ渡ることとなり、後にカトリッジは『黄昏に沈んだ街』と呼ばれるようになった。

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