スマホと少女と脱出計画

「ありがとうございました」


 会計をするウエイターは飽くまで礼儀正しい姿勢を崩さなかったが、料理の感想もそこそこに支払いを済ませ店を出た。

 足早に歩き再び雑踏に紛れた。リムが声を潜めて話し掛けてきた。しかし、小声でも上機嫌なのがわかるくらいの弾んだ声だった。


「貨物列車が来ていたなんて、ついてるわ」

「乗せてもらえるよう交渉できないかな」

「それはダメ。駅にだって手配が回っているはずだから。交渉はおろか見つかったら通報されてしまうわ」

「だったら、早いとこ駅の周囲を調べておこう。見つからずに乗れるポイントを探さないと」

「それもダメよ。こんな時間じゃ、駅の周りには駅員や作業員とかの鉄道関係者しかいない。そんなところにのこのこ顔を出したら目立っちゃうじゃない」

「だって、まだ八時過ぎだろ?」

「……あなたの世界にも汽車があるんだ。何時まで運行してるわけ?」

「ここだと最終列車って何時発なんだ?」


 光来は逆に訊き返した。


「ワタシもこの街は初めてだから……でも、大体九時くらいには出ちゃうはずよ。ワタシたちが狙うのは貨物車だから関係ないけど、やっぱり駅周辺をウロつくのはまずいわね」


 どうやら、ここではかなり早い時間に最終列車が出発してしまうらしい。それに、汽車という単語も気になったが改めて考えるとそれもそうかと思えた。馬を交通手段に使っているし、魔法により文明の発展が疎かになっている世界だ。この先、電車が登場かどうかもわからない。

 時刻表……

 光来はポケットからスマホを取り出し、指先を当てたところで舌打ちした。わからないことがあったら、取り敢えずスマホで調べる。この一連の動作が身に沁みついてしまっている。


「そういえば聞きそびれてたけど、それってなんなの?」


 リムがスマホの画面を珍しそうに見つめている。


「これはスマートフォン。略してスマホといって、俺たちの世界では必須アイテムなんだ」

「細かい模様が浮かんでるね。なにをする道具?」

「なんでもできるよ。音楽を聴いたり、映像を観たり、写真を撮ったり。でも、基本は通話とかネットに繋げることかな」

「音楽が聴ける? そんな薄っぺらい板で? あなたワタシをバカにしてる?」


 説明するより体験してもらう方が早いと思ったので、光来はイヤホンを取り出した。


「え? なに?」


 リムは気味悪いと拒否したが無理やり装着させた。そして、適当な曲を再生させた途端、リムの口から短い悲鳴が漏れ出た。周囲の人々が何事かと振り返るので、光来は慌ててイヤホンを引っこ抜いた。


「なに? なんなの、これ?」


 驚いているリムを見るのは爽快だった。

 すかさずカメラ機能で、目を見開いているリムの表情を撮った。本人に見せたら、再び短い悲鳴を上げた。


「すごい。これって魔法? 音や風景を閉じ込める魔法なんて見たことも聞いたこともない。でも、あなたの世界には魔法はないって言ってなかった?」


 興奮気味に捲し立てられ、光来は悦に入ってしまった。冷静沈着だと思っていたリムが、まるで初めて手品を見た子供のようだ。思わずかわいいと思ってしまう。

 しかし、あまりにも騒いで注目を集めるのはまずいので、このくらいにしておこうとスマホをしまった。


「これは魔法じゃない。科学だよ」

「カガク?」

「まあ、高度なカラクリだと思ってくれればいい」

「もう一度、もう一度聴かせて」

「ここは人の目がありすぎる。無事に街から出られたらね」


 リムの物欲しそうな顔を見て、光来は思わずニヤついてしまった。新機種を購入した奴がやたらと見せびらかすのは、こういう心理なのかなと思ったのだ。

 人の往来が途切れている小路があったので、その入り口でリムが地図を広げた。

 うわぁ……紙の地図だ。

 光来は地図アプリの話をしようと思ったがやめておいた。ここでは使えないし、説明がややこしい。

 考えてみれば、昔の人って信じられないよな。衛星も写真もない時代に、どうやって正確な地図なんか作れたんだ。測量ったって限度があるだろう。今の生活の基盤を作り上げた先達に感謝しなくては。などと殊勝なことを思う。


「見て。駅のすぐ側に陸橋があるでしょう。この陸橋、短いからそれほどの高さはないはず。それに、ここなら汽車もまだ充分に加速していない」

「ちょっと、ちょっと待ってくれ」


 先が読めた光来はリムを遮った。


「ひょっとして、まさか、この橋から飛び降りて汽車に飛び乗ろうって言いたいのか?」

「その通りよ。理解が早いじゃない」

「そんなことしなくても、発車前に乗り込めないのか?」

「無茶言わないで。発車前の汽車の周りには駅員やら整備士やらうじゃうじゃいるんだから。その連中を掻い潜って忍びこむなんてリスクが大きすぎるわよ。それに、駅にだって張り込みはされてると考えるべきね」

「それにしたって、走っている汽車に飛び乗るなんて可能なんだろうか?」

「大丈夫だって。この地点ならまだ亀より鈍いんだから。……きっと」


 リムに押し切られてしまったが、ここはその案に乗っかるしかなさそうだ。光来は、ふと飛ばされる直前のことを思い出した。

 そういえば、この世界に来る前は電車に乗ってたんだよな。たしか、電車から降りようとしてドアを潜ったと同時にすごい衝撃が走って視野が真っ白になって……


「…………」

「どうかした?」


 リムが顔を覗き込んできた。


「い、いや、なんでもない」


 そう返事したが、汽車に乗り込むことで元の世界に戻れないだろうかと、光来は密かに期待してしまうのだった。




 静寂が訪れた。さすがに人通りが少なくなってきたのであちこち歩き回るのを止め、偶然見つけた納屋に身を隠した。

 近くで果物屋を営んでいる家庭があるのだろう。中は様々な果実が保管されており、甘い香りで満たされていた。緩衝材に使うのか、角には藁が山と積まれていた。持ち主は不用心な性格らしく、鍵は掛かっていなかったのですんなり入れた。


「どうやら、今日のワタシにはツキがあるみたいね」

「俺の方は見放されているみたいだけどね」


 リムとは対照的に、光来は口を尖らせた。疲れが不機嫌を招いている。


「あっち向いてて」

「んっ、なに?」

「着替えるから、あっち向いてって言ったの」

「あ、ああ。着替えね」


 光来は、なにもこんな所で着替える必要はないんじゃないかと思ったが、素直に背中を向けた。

 同じ部屋の中で女の子が着替えをしていると思うだけで、落ち着きがなくなってしまう。高校生にもなって、さすがに情けないかなと思った。


「もういいよ」


 光来がゆっくり振り向くと、リムは酒場で出会った時と同じ格好、つまり男の格好に戻っていた。


「また変装したのか?」

「変装というより、こっちの方が動きやすいから」

「ああ、そうか。そうだな」

「まあ、派手な動きなんて列車に飛び乗る時くらいだと思うけどね」


 男装をしたリムは、普通にしゃべるだけで背徳的な色気を漂わせた。もちろん、そんなことをわざわざ口には出さなかったが……

 二人並んで、藁を背もたれ代わりにして座った。疲労が溜まっている光来には、腰を下ろせるのがありがたかった。


「ねえ、さっきのカラクリ、もう一度聴かせて」

「いいけど、時間は大丈夫か?」


 リムは懐から懐中時計を取り出した。かなり年季の入った時計で、所々に汚れが浮いている。細かい装飾が施されており、時計館に置いてあったホールクロックを思い出させた。女の子が懐中時計を使っているとは、なにか新鮮で格好よく見える。


「あと一時間以上ある。休んで英気を養いましょ」

「凝ってるデザインの時計だね」

「父の形見よ」

「え?」

「ほら、あなたは外を見張ってて。かなり駅に近づいたとはいえ、その分油断はできないんだから」


 リムはそう言うと、イヤホンを装着して目を閉じた。

 親の形見か……

 俺の両親ってどんな人だったんだろう。ふと、そんなことを考えてしまい、慌てて否定した。

 朧気ながら幼い頃の記憶がある。本当に、掌に載せた粉雪のように頼りない記憶だ。

 俺はどこかの森の中で泣きじゃくっていた。どれくらいそうしていたかはわからない。何時間もそうしていた気もするが、ほんの数分だったかもしれない。とにかく、二人の大人に保護された。優しい言葉を投げ掛けてくれたように思うが、なにしろ記憶が曖昧で、細かいことは思い出せない。

 その二人はしばらく一緒にいてくれたが、あちこちに連れ回され、いつの間にかいなくなっていた。様々な経緯を経て、俺は孤児院に預けられた。だが、そこでも思い出は驚くほど少ない。すぐに引取人が来てくれたからだ。

 二人は満面の笑みで光来を迎えた。あの森で保護してくれた二人だとすぐにわかった。夢の中のような思い出だが、あの時の嬉しさだけは輪郭を失わない。それほど不安の只中にいたのだ。その二人こそ、光来を今日まで育ててくれた城戸高志と綾なのだ。

 二人とその頃の話をしたことはない。しかし、なにかの拍子に、一瞬だが不安な表情を見せることがある。本当に刹那と言えるほんの一瞬なのだが、長く一緒に生活していればちょっとした仕草で心の機微はわかる。

 不安の原因を聞いたことはないが、血の繋がりがないことに関係していると思う。それでも、俺の両親はあの二人以外にはいない。感謝してもしきれないくらいの愛情を注いでもらったのだから。

 ただ、たった一つだけずっと引っ掛かっていることがある。俺の記憶は森の中で泣いているところから始まっている。それ以前のことはなにも覚えていないのだ。もしかすると、実の親がどこかで生きているかも知れない。

 実の親……今さら、どうでもいいことなのだが。


「そろそろ出る準備をしましょう」


 はっと我に返った。いつの間にかもの思いに耽っていたようだ。リムから返してもらったスマホで時間を確認した。二十三時四十分。やはり自分がいた世界とは、ほとんど時差はない。つまり、一時間が六十分という概念も同じということだ。

 それにしても、音楽を聞きながらリラックスしていたと思っていたのに、こんなに正確に時間の経過を意識していたとは……

 改めて、リム・フォスターという女の子は、常に緊張を纏っているのだと思い知った。


「聞いたことのない音楽ばかりで楽しかった。魔法がないなんて不便そうな世界だと思ってたけど、案外、住みやすい世界なのかもね」

「んー。地域によるかな。未だに戦争しているような国だってあるし。貧富の差が大きなところだってあるし」

「そうなんだ。どこも似たようなものなのかもね」

「でも、少なくとも俺がいた街はいいところだよ。今度、遊びに来なよ」

「行けるならね」


 リムはくすっと笑って立ち上がり、納屋から出た。


「……行けるさ。俺は絶対に帰るんだ」


 光来も続いて立ち上がった。

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