そして、異世界へ…
錆付き、脆くなった非常階段を駆け上がる。一段上がるたびに、カンカンと乾いた音が響き赤錆がパラパラと足元に落ちる。
「…………」
目的の階に着いた。この扉の向こう、いずれかの部屋に彼女がいるはずだ。
背中がピリピリする。微弱な電気を流されたような、不愉快さと快感が入り混じったような不思議な高揚感。それでいて、頭は氷のように冷え切っている。
すんなり彼女のところへ辿り着こうなどと、図々しいことは考えていない。ただ、必ず目的を達成できるという確信はあった。
いくぞ。
心中で自分を鼓舞し、壊れかけた扉をゆっくり開いた。中に入り、用心深く前進する。それでも、足元を覆いつくしているガラクタを次々と蹴飛ばし、耳障りな音を立てる。元より、見つからずに進むつもりは毛頭なかった。襲ってくるなら、手当たり次第にぶっ飛ばしてやるだけだ。
侵入した居間を出て、奥の小部屋に入ろうとしたとき、そいつはいきなり襲い掛かってきた。
「ぐぎゃぁぁぁっ」
咆えているのか、悲鳴を上げているのか。多分、声を発している本人にすら分からないのだろう。四肢の動きにも統一性がなく、無茶苦茶に暴れながら走ってきた。爛れた顔面、腐って肉が削げ、骨まで見える腕。謎のウイルスに感染した人間の成れの果て、ゾンビだ。
この一瞬だけは苦手で、びくっと体が跳ねてしまう。しかし、すぐに落ち着きを取り戻し、照準を襲い掛かるゾンビの眉間に合わせた。間髪を容れず、引鉄を引いた。
三発の銃声が立て続けに響いたのと同時に、ゾンビは鮮血を撒き散らしながら派手にぶっ飛んだ。それが合図だったかのように、天井から、机の下から、次々とゾンビが姿を現した。
「ふん」
鼻から息を吐き、連射した。銃声より早く血飛沫が舞ったのではないかと思うくらいのスピードで、室内のゾンビを瞬く間に撃退した。まさに目にも留まらぬ早業だった。
周囲から感嘆の声が上がる。
「おい、今の見たか?」
「すごーい。本物のガンマンみたい」
いいぞ。もっと称えてくれ。退屈な日常の中で、もっとも気分がいい瞬間だ。羨望の眼差しが多いほど、俺の調子が良くなる。実にいい気分だ。思わずステップのひとつも刻みたくなるくらいの高揚感が駆け抜ける。
しかし、歓声に混じって幼稚な声援も聞こえてくる。
「さすが光来!」
「いいぞ、光来!」
女子がぷっと吹き出すのが聞こえた。
くそ……。あいつら、あとで覚えてろよ。
光来が戦っているゾンビは、「スローターナイト」というゲームの中の敵だ。「スローターナイト」は、現在、アーケードゲームの中ではダントツの知名度を誇っており、今では珍しく順番待ちの列ができるほどの人気を博していた。
コントローラーは本物のピストルを模したデザインで、プレイヤーは銃撃しているというリアル感を得ることができる。内容は、襲ってくるゾンビを撃退する単純なものだが、アウトラインの設定が凝っていて、重厚なストーリー性も、人気の一因となっている。
たとえゲームであろうが、上手い者には賞賛が与えられる。光来にとって、アーケードゲームの架空世界、とくにシューティング・ゲームは、他人が自分を褒めてくれる唯一の手段だった。
次々と襲い掛かるゾンビを排除し、階上へと進んだ。ゲームを開始してから二十分ほどでビルの最上階まで辿り着いた。ここまで来ると、ゾンビも手強くなっている。しかし、初めてではない。何度か来ている場所だ。いつも、ここでゾンビに喰われてゲームオーバーになるのだ。
しかし、今日はこれまでにないほどの冴えを感じる。今日こそは突破できるという期待が、光来の中にはあった。
ゾンビが出現するタイミングは違えども、パターンは読める。次々と襲ってくる大量のゾンビを撃ち抜き、道を開いた。しつこいくらいに襲い掛かってくるゾンビ集団だったが、腕が触手のように伸びるゾンビを倒したと同時に、ぴたりと攻撃が止んだ。
「…………」
数秒の静けさの後、モニタに『クリア』の文字が浮かび上がり、軽快なBGMが流れた。何度もゲームオーバーした階を、ついにクリアしたのだ。
観客から歓声が上がった。光来は思わずガッツポーズをとり、しばしの間、勝利の快感に酔いしれた。
しかし、ゲームはここで終わらない。問題はここからだ。一番奥の部屋に、拉致された主人公の恋人と、このゲームのラスボスであるゾンビの親玉がいるのだ。
銃の形をしたコントローラーを操作し、リロードした。一度大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。周囲からは、期待の眼差しが注がれ、応援の声がちらほら聞こえた。
「にいちゃん、頑張れ」
「大丈夫、いけるぞぉ」
こちらが集中しているのを気遣ってくれているのか、応援してくれる人たちは、いずれも囁くように声援を送ってくれている。
よし……。いくぞ。
扉を開き、部屋の奥へと進んだ。その部屋はやたら広く、テニスコートくらいはあるのではないかと思った。
いた。女性が縛られ、床に転がされている。あれがプレイヤーの恋人ということらしい。たしか、設定ではアリスという名前だった。
光来の登場に気づき、喜びの表情を見せるが、それも一瞬で、必死に「逃げて」とか「ここは危険よ」などの台詞を繰り返した。しかし、こちらはクリアを目指して頑張ったのだ。そうですかと帰るわけにはいかない。
アリスに近づこうと、さらに歩を進めたその瞬間、不穏なBGMに切り替わった。否が応にも不気味な雰囲気に引きずり込まれた。
光来は緊張して銃を構えた。どこから襲ってくる? 壁を破って乱入してくるか? それとも、窓を破壊して外から飛び込んでくるのか? 突如、天井が崩れた。照明を失った室内は薄暗くなり、上階から正体不明の巨体が降ってきた。同時に、BGMも激しいビートに変わった。
周囲の観客が一斉に騒ぎ出した。
「うおおっ!」
「すげえっ! ラスボス、初めて見たっ」
俺もだよっ。
心の中で呟き、改めて巨大なそれを観察した。腐りかけた肉体は人間のそれとは異なり、何本もの触手が生えていた。顔も人ではなく、昆虫を連想させる形容だ。光来のことなどまるっきり無視して、空を見つめている。
なんだよ、こいつ……。これじゃゾンビというより、モンスターって言った方がいいじゃないか。
とりあえず正面から向き合うのを避け、様子見に回り込みながら足元にぶっ放した。
「ぎゃぁああずっ!」
けたたましい咆哮を上げると同時に、攻撃を仕掛けてきた。無数の触手を伸ばし、光来を捕らえようとする。触手攻撃を巧みにかわし、足に、胴に、弾丸を叩き込む。しかし、さほど効果はないようだ。左上に表示されている体力ゲージがほとんど減らない。
くそ。今までの敵とは根本的に違うのか。脳天を狙ってやるか。
しかし、光来が照準を合わせるより早く、モンスターの口から、痰のような汚らしい不気味な液体が飛び出した。べちゃっと不快な音がするのと、画面が揺れるのが同時だった。命中してしまったということだろう。画面中央下に表示されている光来の体力ゲージがぐんと下がった。
反則だろっ。これ。
連射してはリロードするという動作を繰り返したが、敵の体力は一向に減らない。逆に、自分の体力は削り取られるように減っていき、ゲージの色がグリーンからイエローに変わった。
次第に焦りが濃くなっていく。どこを狙えばいいのだ。正面を避けるために、円を描くように回り込んでいたら、ほぼ、背後に立つ瞬間があった。
「ん?」
攻撃への集中と軽い焦りで、今まで気付かなかったが、モンスターの後頭部に醜く歪んだ男の顔があった。
そういうことか。
光来は瞬時に理解した。胴体や脚部をいくら撃っても無意味だったのだ。この人間の顔部分こそが、こいつの弱点だ。
狙い澄まして、一気に全弾を叩き込んだ。
「ぎょおぉおぉぉ」
モンスターの体力が、これまでと比較にならないほど大量に減っていく。思った通りだ。モンスターは背後を取られるのを嫌がるように、体を捻って向きを変えた。
逃がすものか。回り込みながらリロードを済ませ、ひたすら顔面に弾丸を集中させた。触手による攻撃や、口から吐き出される液体で、光来の方も体力がぎりぎりに迫っていたが、もう構ってられなかった。
連射、連射、連射!
倒れろ、倒れろ、倒れろ!
もう光来の視界には、周りで騒いでいる観客も、一緒に来ている友人も入っておらず、それがゲームの中の一場面であることすら、意識の外に吹っ飛んでいた。
撃つ。ただ撃つ。頭で考えないで、指先の感覚でそれを実行する。ただそれだけのために時間を費やす。無意識で感じる爽快感。
突然、モンスターが大きく仰け反ったかと思うと、断末魔の叫びを上げて、崩れ落ちた。光来の狭まっていた視界が急激に広がる。
「うわぁっ! やってくれたぁっ!」
誰かの一声を皮切りに、一気に歓声が沸きあがった。まるでゲームセンターの客全員が注目していたかのようなお祭り騒ぎだ。
光来は自分の体力ゲージを確認した。なんと、既にレッドゾーンに入っており、僅差で勝利を収めたようだ。思わず、太い溜息を吐いた。
勝利者が名前を書き込める画面に移り変わったので、『KID』と入力した。城戸をもじったネームで、いつも使っている。ビリー・ザ・キッドやサンダンス・キッドなどの名立たるガンマンを連想させる点も気に入っていた。
どこからともなく、キッドコールが始まり、光来は、照れながらも手を上げて応えた。
本当に、心を満たしてくれるこの時間だけで一生を過ごせればいいのに……。
光来の幼稚とも言える願望は、彼一人だけの秘密だった。
帰りの電車の中、光来よりも友人の方が興奮冷めやらぬ様子だった。
初日のホームルームで各々が自己紹介し、一時限目の授業が終わった休み時間に、誰からともなく近づいて集まった。初めこそ、出身の中学校やこの高校を選んだ理由など、当たり障りのない話題で距離感を測り、手探りで徐々に距離を縮めていったが、数日後には友人と呼べる間柄になっていた。
増田はサッカーが好きな今時の学生だが、運動神経が良い方ではないのを理由に、自分ではプレイしない。お気に入りのチームを応援するサポーター専門だという。
「高校を卒業したら、なんでもいいから仕事しまくって、金を貯めるんだ。それで、一年に一度は海外に行きたい。世界各国の試合を観るんだ」
今までに何度も聞かされている、彼の夢だ。
飯島は、スポーツにはさほど興味がない。体格も貧相で、一見、大人しそうに見えるが、実は大変な野心家だ。
コンピューターのシステムに滅法強く、その気になればハッキングも出来てしまうのではないかと思うほどの腕前だ。
以前、「将来はシステムエンジニアか?」と聞いたことがあるが、ふん、と小馬鹿にするように息を漏らし、「あんな労働力を搾り取られるような仕事じゃなく、自分で事業を立ち上げたいと思ってる」との答えが返ってきた。彼なら本当にやるかも知れない。ひょっとしたら、三人の中で一番稼ぐのではないかと思っている。
そんな気が置けない仲の三人は、大抵は帰宅を共にしている。
「しっかし、光来の射撃の腕だけはマスタークラスだよな」
幸平が尊敬とも冷やかしとも取れる台詞を吐いた。いつもの流れなので腹も立たないし、次の台詞も予想できた。
「光来のくせに生意気だぞ」
勉強もスポーツも特に秀でたものがない光来だが、射撃ゲームだけは抜群に上手い。それをからかってこの友人二人は、猫型ロボットに頼りっきりの眼鏡を掛けた少年がよく言われる台詞「……のくせに生意気だ」と同じ決まり文句を投げ掛けてくる。
あまり嬉しくないおふざけだが、親友と思っている二人なら笑って許せる。
その後は、ごく普通の高校生が交わす会話になる。教師の悪口、クラスの女子の話、新しく発表されたスマホの機種、来月発売される新作ゲーム、動画配信サイトで面白かった動画などだ。
友人との語らいは、時の流れを意識の外に押し出し、瞬く間に過ぎていく。
「じゃあ、また明日な」
「ああ」
幸平と豊は、乗り換えのために光来より先に降りる。二人が降りる駅は結構大きく、JRの他に東京メトロにも乗継ができる。そのため、客の入れ替えがあり、その隙に座席を確保するのが光来の習慣となっている。遅延による混雑などのトラブルでもない限り座れるので、慌てたりはしなかった。今日も七人掛けのシートのど真ん中に座ることができた。
さてと……。
おもむろに、ポケットからスマートフォンを取り出した。
光来には読書の習慣はない。電車の中での暇つぶしは、専らスマートフォンのゲームだ。ジャンルはいろいろと齧るが、一番得意なのはやはりシューティングゲームだ。
何気なしに車内を見渡すと、乗客の七割方がスマートフォンを弄っている。今では小説や雑誌を読んでいる人は、圧倒的に少数派だ。自分もスマートフォンを弄っている一人なわけだが、改めて観察すると少し不気味な光景ではある。
それにしても……。
電車の中なのに、足を組んで座っている者や、大股を開いている者。自分の部屋でくつろぐが如く、菓子を食べている者。目に入るだけで不快な気分にさせられる人たちがあちこちに見られる。電車ってのは馬鹿を集める乗り物なのかと、半ば本気で思ってしまう。
友人と一緒にいるときはなんでもないものが、一人になった途端、気になり始める。人の多い場所に身を置くと、焦燥、不安、ジリジリした感情に悩まされる。友人と遊ぶのは楽しいし、彼女も欲しいとは思うものの、基本的に独りが好きな性分、というよりもこの世界に違和感を抱いていると表現した方がしっくりくる。
次の駅に到着し、人の入れ替わりが行われた。光来の隣にどかっと腰掛けた男が、イラつく気持ちに追い討ちを掛けた。
男が耳に装着しているイヤホンから、音漏れがした。心の中で舌打ちをし、ちらりと覗き見ると、男が凝視しているスマホのスクリーンには、金髪ツインテールの美少女が映っていた。ステッキを片手になにやら叫ぶと、派手な音楽と演出の中で変身し、仲間と共に戦闘を始めた。終盤に差し掛かっているようで、美少女たちはスクリーンの中を所狭しと飛び回っている。
光来は「うげえ」という思いだった。
何年前のアニメだよ……。いや、そういえば、リメイク版みたいのが、最近、放送していたような……。なんにせよ、電車の中で観るもんじゃないだろう。
外の景色を見るフリをして、首を九十度回転させた。隣に座っているのは、どう見ても三十代と思われる、光来からしてみれば立派なおじさんだ。小太りのだらしない体格だが、スーツを着てネクタイもきちんとしているところから、サラリーマンだと思われた。
光来よりも一回りも年上の社会人が、音漏れもお構いなくスマートフォンを弄り、しかも観ているものがアニメだという点が、余計に腹立たしかった。
「っん……んんっ」
わざとらしく、喉がつかえたように声を出した。しかし、男はアニメを凝視し気づきもしない。
このおっさん……!
どんなにムカついたところで、光来には男を注意する勇気はなかった。常々思っていることだが、自分は平凡な高校生、しかも、おそらく人より内気で臆病な性格の高校生だ。
音漏れが気に障るなら、相手が大人だろうが注意すればいいじゃないか思い、喉までは言葉が出かかるのだが、結局は先程のような咳払いが精一杯だった。
「あの、音が漏れてますよ。もう少し、ボリュームを下げてくれませんか」
たったそれだけのことが言えない、自分の気の弱さに嫌気が差す。独りが好きなのも、この性格の影響かも知れない。ゲームの中では何体ものゾンビを退治できる勇者も、現実ではこのザマだ。
しかし、今日はちょっとだけ具合が違った。先程、スローターナイトを攻略した時の興奮を思い出した。その余韻が、光来にいつもと違う考えをもたらした。
思い切って言ってみようか……。
「あの……」
「あなた、音が漏れてますよ。音量下げてもらえますか」
光来の情けないほど小さい声は、元から発せられなかったかのように掻き消された。小太りサラリーマンを挟んで、光来とは反対側の隣に座っていた初老の男が、注意したのだ。
注意されたサラリーマンは、「すみません」の一言もなく、それでも、素直に音量を下げた。視線はスマートフォンの画面に向けたままだ。
初老の男は、なにか言いたそうだった。光来は少し緊張した。しかし、ひと睨みした後は、何事もなかったように目を瞑った。
緊張が解け、四肢の力が抜けた。思い切って勇気を出しても、所詮この程度だ。
そして、自分に対する言い訳を始めた。世の中には、人に迷惑を掛けるバカがいて、それを戒める人がいて、俺のように見てないフリをしながら、横目でしっかり見ている者がいる。自分はきっと、ずっと見てないフリをして生きていくんだろうな。
それでいいじゃないか。それで……。
電車が、光来が利用している駅に着いた。スローターナイトをクリアした喜びはとっくに四散し、ひどく惨めな気分でドアを潜った。
その時、もの凄い衝撃が光来を襲った。
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