勝利の女神

 キーラが撃つのを躊躇いチャンスだと思ったのもつかの間、風を切って向かってくるナイフを視界の端に捉えた。

 ケビンは思わず防御の姿勢を取ってしまった。青白い光が、真っ直ぐな線を描きながら向かってくる。

 しまったっ。ブリッツのナイフかっ。

 それが極めて危険な電撃の刃だとわかった時には、ナイフは目前に迫っていた。

 ケビンは腕をクロスさせて、頭と胴を守った。腕だろうが脚だろうが、当たってしまえば電流が全身を駆け巡る恐ろしい魔法なのだが、人間の持つ防衛本能がその体勢を取らせた。そして、その本能がケビンに味方した。

 ナイフはケビンが掲げた拳銃に当たり、ガンッと鈍い音を立てて弾かれた。狙ったわけではない。リムが狙ったのはケビンの喉元だったが、身を守るため低い体勢を取ったので、偶然、拳銃がナイフの軌道上に来たのだ。


「なっ⁉」


 リムは愕然とした。

 もう武器は残されていないのに、こんなことってっ。

 キーラは射撃の姿勢を解いている。このままでは、トートゥを撃たせてしまうどころか、ケビンに捕られてしまう。


「くっ」


 まだ諦めるわけにはいかない。この先、彼は絶対に必要になる。こんな所で彼と引き離されるなんて選択肢はあり得ない。

 リムは取り付くつもりで、更に列車に近づこうとした。しかし、すでにケビンは次の動作に入っている。間に合わないっ。


「はっ!」


 ケビンは、思わず雄叫びを上げた。

 勝機だ。これは勝機だ。あの相棒の男がナイフを投げたということは、もう撃てる銃はないということだ。そして、キーラは一度は狙いを定めた銃を下ろし、まだ構えてもいない。ワタシの方が早く捉えられる。このまま彼に銃口を向けて引鉄を引けば、この追跡劇は終わりだ。


「ワタシの勝ちだっ。運がワタシに味方したっ」

「いいや、あんたの負けだ。ケビン保安官」


 ケビンの目に、信じられない光景が飛び込んできた。キーラが銃口を向け、狙いを定めている。

 そんな馬鹿な? いったい、いつの間に射撃体勢に入った?

 驚愕したのはリムも一緒だった。キーラから一瞬足りとも目を離さなかったのに、いつ射撃体勢を取ったのかわからなかった。まるでその動作の瞬間だけ時間を飛び越えたような、でたらめな速さだった。


「運ならいくらでもくれてやる。だが、女神はこっち側にいる」


 光来は迷わず引鉄を引いた。ケビンの目が大きく見開かれるのまでわかる。恐怖。後悔。絶望。諦め。いろんな感情が渦巻いている瞳。それこそ、トートゥの魔法陣を連想させる、闇に通じる漆黒の瞳だった。

 これが死を覚悟した者の目か。俺もさっきまではこんな目をしていたのか。しかしっ。

 銃からはトートゥではなく、ブリッツの魔法陣が生じた。


「トートゥじゃないっ?」


 リムの声が届くより先に、弾丸が発射された。青白い光を纏った魔法陣が弾け飛んだ。光来が放った弾丸は、天空を駆ける稲妻のように空を引き裂いてケビンに突進した。完全に命中したと思ったが、彼を捉えず脇に逸れた。

 リムが外れた? と思う間もなく、カンッと激しい金属音がした。さきほど、ナイフがケビンの拳銃に弾かれた時より、かん高い金属同士がぶつかり合うような音だった。


「うぐぅっ!?」


 次の瞬間、ケビンは喉元に衝撃を覚え仰け反った。彼の喉には、リムが投げたナイフが突き刺さっていた。

 光来は、弾かれたナイフをさらに銃撃によって弾き飛ばし、ケビンの喉元に突き立てたのだ。刺さった位置は、まさにリムが狙った箇所だった。


「勝利は常に女神がもたらすんだ」


 ケビンには、女神という台詞の意味が理解できなかった。しかし、光来の台詞に彼がとてつもない離れ業をやってのけたことを悟った。落下中のナイフに弾丸をかすめさせ、弾かれた勢いで改めて突き刺さるように仕向けるなんて。


「キ……」


 ケビンはキーラの名を呼べなかった。ナイフから魔法陣が広がり、刃の部分が彼の体内に流れ込んでいった。


「がああああっ!」


 ブリッツの魔法が炸裂した。電気の奔流が全身を駆け巡る。闇の中に、人型の光のオブジェが浮かび上がった。

 電撃はケビンを焦がすと、足元から車両に逃げ拡散し消えた。

 リムは一連の出来事を、息を呑んで見つめていた。最後まで諦めることなど考えもしなかったものの、あの状況から危機を脱するなんて奇跡でも起こらない限り不可能だと思った。しかし、キーラはそれをやり遂げた。彼と出会ってから、信じられないことの連続だ。


「あ……ぐっ……」


 ケビンの目がかすみ、脚に力が入らなくなる。ありったけの気力を掻き集めるも、とうとうバランスを維持できなくなり崩れ落ちた。

 妻の笑顔が過ぎる。この速度の列車から落下して助かるだろうか……?

 体が宙に投げ出された。ここまでか。

 がくんと自重を感じ、肩に痛みが走った。もはやはっきりとは見えない目を、必死に閉じないようにした。顔を上げると、キーラが手首を掴んでいた。


「おま……え」

「俺は人殺しでも犯罪者でもない」

「…………」


 ケビンは残る精神力を振り絞って、銃口をキーラに向けた。キーラの顔が緊張で強張るが、手を離そうとはしなかった。

 まったく、不可解な少年だ。いったい何者なのだ……

 ケビンの頭には、何度も浮かび上がった疑問が再浮上した。しかし、その疑問を抱えたまま意識は徐々に薄れていき、そして完全に暗闇となった。




 穏やかな水面に石が投げ込まれ波紋が広がるように、光来の感情が一気に高まった。思わず快哉の叫び声を上げたかったが、興奮で声すら出せない。


「ぉおおおおおっ!」


 やっとのことで意味不明の雄叫びを上げ、ようやく噴出した歓喜が収まった。

 そうだ。ケビンを引き上げなくては。しかし、大の男であるケビンの体重は予想以上に重たく、掴んでいる今の体勢も無理があったので、思うように持ち上げられなかった。

 えっ? これってちょっと、いや、マジでヤバくないか?

 ケビンは完全に気を失っている。このまま落としてしまったら受け身も取れない。高さはどうということはないが、この速度から地面に叩きつけられるのって、かなり命に関わるのではないか?

 なんとか引き上げられないかと、体勢を変えたり足の位置を変えたりしているうちに、腕が痺れてきた。リムが並走しているのとは逆の方向なので、彼女に助けてもらうこともできない。

 途方に暮れ、焦りが高まっていった。その時、耳障りな重たい摩擦音がしたかと思うと、汽車が徐々に減速していった。

 進行方向を見ると、驚いたことにリムが汽車の前に回り込んで走っていた。そのため、機関士がブレーキを掛けたのだ。

 そうか。事態を察知したリムが汽車を止めてくれたんだ。

 安堵が胸に広がった時には、汽車は完全に停止してくれた。もう大丈夫だと判断し、ケビンから手を離した。バラストの上に落ちた彼は、ズザッと派手な音を立ててうつ伏せに倒れた。


「おまえらっ、いったいなにをやってるんだっ?」


 ただならぬ事態に、機関士が慌てて駆け寄ってきた。窓からは機関助士が顔を覗かせている。驚きに目を見張ったその表情は煤だらけだ。


「いつから乗り込んでるんだ? 危ないから降りてこい」


 機関士は、もう初老に入ろうとしている人の好さそうなおじさんだったが、光来とリムのあまりにも常軌を逸した行動に激怒している。


「下に人が倒れてます。ケガはしてないけど、気を失っている」

「んあ? 人が倒れてる? おい、まさか……」


 自分が運転していた汽車で事故を起こしてしまったと思ったのか、機関士と機関助士がどんどん青ざめていく。


「キーラ、こっちっ」


 引き返してきたリムが、光来を呼んだ。


「じゃあ、あとはお願いします」


 少し申し訳ないと思いながらも、事後の処理は彼らに押し付けることにした。屋根から飛び降り、リムの元に駆け寄った。


「あっ、待てっ。なにが起こったか説明しろっ」

「その人は保安官です。気がついたら、その人に聞いてください」


 光来はリムに手を引っ張られ乗馬した。


「はあっ!」


 光来がしっかり乗ったことを確認したリムは、勢いよく馬を走らせた。乗り手の感情が伝わるのか、律動的な動きで瞬く間に風と一体になった。


「リムッ、きみは魔法使いだっ」


 数々の鮮やかな活躍を賞賛して、思わず衝いて出た賛辞だった。だが、魔法が日常的に蔓延している世界の住人には、いまいち伝わらなかったようだ。


「あなたの魔力も、とんでもないものだったわ」

「そうじゃなくて……とにかく信じられないっ。あの絶望的な状況から脱出できたなんてっ」

「二人で挙げた初勝利ってとこね」


 最後の一撃を決めたのは確かに光来だったが、ほとんどはリムの活躍で切り抜けられた。それを「二人で」と言ってくれたのはリムの優しさだと受け止め、素直に喜びを共有しようと思った。

 しばらく走ると、リムは手綱を引き速度を下げた。


「ゆっくり行きましょう。ここまで来れば明日の昼前にはラルゴに着く。この子も休ませてあげたいし」


 リムは、労をねぎらうように馬の鬣を撫でた。


「休むついでに治療もしてくれないか? また背中が痛くなってきた。リムはケガしてない?」

「ワタシは大丈夫。休みながらラルゴに着いてからのことを話しましょう」

「ああ、そうだな」


 何気なく見上げると、大きな月と数えきれないほどの星を湛えた空が広がっていた。さっきからずっと見ていたはずなのに、初めて美しいと感じた。

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