時を刻む宿屋にて
昼の活気あふれる喧騒に比べて、夜は打って変わって廃墟のように静かになる。ケビン・シュナイダーが気に入っている、この街の特徴だ。
開け放たれた窓からは心地よい風が入ってきて、室内は常に新鮮な空気で満たされている。まるで疲れた心身をリラックスさせるために用意されたかのようだ。
ケビンは、まずワインの芳醇な香りを楽しんだ。葡萄の酸味が刺激するも、品のない強烈さはない。
グラスを回してから口に含み、ゆっくりと舌の上で転がす。たっぷりと口内で楽しんだ後、喉を通過させた。鼻から抜ける息には、渋みや酸味と共にまろやかな甘味が広がった。充分に熟成させた証だ。ワインの後味が抜けるまで待ち、チーズを一口齧った。ワインとの相性が抜群で、思わず笑みがこぼれた。
ワインとチーズを楽しむ。ケビン・シュナイダーが一日の締め括りとして、長年続けている習慣だった。生活レベルは決して高い方ではない彼だが、この二つに関しては多少高価なものでも購入することにしていた。
充実した毎日を送るためには、なにかしら楽しみを持たなければならない。ケビンが人生において学んだ教訓の一つだ。
それにしても……。
再びワインを一口含み、考えを馳せた。
あの奇妙な少年はいったい何者なのか? 異世界からやってきたという荒唐無稽な話を聞かされて、思わず罵倒してしまった。だが、尋常ならざる背景を抱えている雰囲気は本物だったと断言できる。あの、なにかから追われているかのような焦りようや落ち着きのなさは、とうてい演技とは思えなかった。
しかし、いくらなんでも異世界とは……。
子供でももっとマシな嘘をつく。気になるのはその点だ。嘘というものは、大きければ大きいほど支離滅裂になって内容が破綻するものだ。しかし、彼の話にはその破綻がない。突拍子もない話なのだが、一応、筋が通っていて矛盾が見当たらないのだ。
立ち上がり、本棚からファイルブックを引き抜いた。新聞の記事などを切り抜いて作成したケビンだけの事件簿だ。ぱらぱらとページを捲る。
あらゆる事件や事故が記された記事の中で、トートゥが使用された記録は確か二十年ほど前に果たされた『蹄の決闘』のみだったはずだ。
牧場を営む地主と、その使用人の間で行われた決闘だった。勝利したのは使用人の方だったが、目撃者の話からトートゥが使用されたと記載してある。
使用人は決闘のすぐ後に自殺してしまい、使われた魔法が本当にトートゥだったのか、また事実だとしてどこから入手したのかなどは、謎のまま残ってしまった。
「…………」
トートゥは、受けた者は必ず死に至る禁忌の魔法だ。人の倫理を踏み外しても、殺したい相手だったということか。
ファイルを閉じ、本棚に戻した。再び腰掛け二杯目のワインを注ごうとして瓶を傾けたが、その動きは途中で止まった。どうにも気になって仕方がない。
キーラが疲労困憊して尋問がまったく進捗しなくなったので、途中で切り上げてそのまま部下に任せてきた。自分も疲れが溜まっていた自覚や、留置所に入れて安心したこともあり、帰ってきてしまった。
……本当にそれでよかったのか。朝には再び尋問の続きをする予定だが、なにからなにまで得体が知れない以上、ずっと付いて離れるべきではなかったのではいか。
瓶を置いて立ち上がった。普段は一日のうちでも至高のひと時なのだが、キーラのことが気になって集中できない。これではせっかくのワインが台無しだ。
壁に吊るしてあるガンベルトを装着し、階下に降りた。物音に気づいた妻が、居間から出てきた。
「あなた、こんな時間にお出掛け?」
「ああ、保安局にな。このまま仕事に戻ることになると思うから、帰りは明日の夜になる」
「なにかあったんですか?」
妻にはキーラや日中の決闘のことは話していない。そもそも、家族には仕事の話は一切しないことにしている。自分が犯罪や暴力の真っ只中に入り込む仕事をしているからといって、その匂いを家にまで持ち帰る必要はない。
「いや、ちょっとな」
妻もしつこく詮索することはない。ケビンの気遣いを知ってのことだろう。こういう時、つくづく良い縁に恵まれたと思うのだ。
「わかりました。お気をつけて」
「ん」
妻とキスを交わし自宅を出た。一陣の風が通り抜け、体がぶるっと震えた。
室内にいた時は心地よく感じたのだが……。
その震えが武者震いなのか、嫌な予感からくるものなのか、今のケビンには判断がつかなかった。
リムに付いて到着したのは、少し寂れた感のある宿屋だった。ホテルとか旅館という単語を連想させない。まさに宿屋だ。繁華街から少しだけ離れた場所にありながら、周囲は深夜の住宅街のように静かで、旅人が疲れを癒すのには最適な環境と言えた。
リムは迷う素振りもなく、ドアを開け中に入った。光来は大丈夫なのかと緊張したが、おどおどしてはかえって目立ってしまう。ここは開き直って、後に続くしかないと腹を括った。
「ようこそお越しくださいました。こちらにお名前をお願い致します」
フロントに立っていたのは、犬だか狐だかの獣の顔をした獣人だった。
光来は少し驚いたが、顔には出さないように気をつけた。毛むくじゃらの顔でも、けっこう年配者だとわかるのがおかしかった。
フロントの獣人は、従業員ではなくこの宿の経営者と自己紹介した。
小さな宿屋だから家族だけでもやっていけるのだろう。リムはなに食わぬ顔で受付を済ませた。宿の主人も特に怪しむ素振りは見せなかった。ただ、なんとなく目がニヤニヤしているように感じた。普段なら好々爺と受け止めるのだろうが、今は若い男女一組だ。勝手な想像を脹らませているんじゃないだろうかと、光来は思わず邪推してしまった。
顔を伏せながらも、ざっと一通り内装を確認した。壁や床にはいつ付いたのかわからない程変色した染みが散見され、外観からの想像通りかなり年季が入った宿屋のようだ。
しかし、レトロな家具類と相まって古臭い感じはせず、むしろどっしりとした安心感を醸し出している。特に目についたのは、壁際に置いてある天井に届きそうなほど大きなホールクロックだ。その巨大さはもちろん、施された見事な装飾に見入ってしまった。
「見事な時計でしょう?」
主人がいきなり話し掛けてきたので、思わず身を固くしてしまった。
「えっ、ええ。そうですね。存在感がすごくて、圧倒されそうです」
光来の言葉に、主人は相好を崩した。
「私の曽祖父の頃からあったというから、もう百年以上この宿で時を刻んでおります」
「百年……。それはすごい」
本当に驚いた。百年。十七年しか生きていない光来にとって、気が遠くなるような年月だ。
「この宿のシンボルですよ。名前もこいつから来てるそうですし」
「名前って……」
「おや、ご覧にならなかったんですか? この宿屋は時計塔と申します」
「そ、そうでしたか。素敵な名前ですね」
目には入ったのだが、光来はこっちの世界の文字なんか読めない。少しドギマギしてしまった。
リムが睨んでいる。あまり余計なことは言うなといったところだろう。
「ご主人、部屋は二階ね。案内はいいわ」
リムは割りこむように言い、鍵を受け取るとさっさと階段を上がり始めた。
「あ、待てよ」
慌てて続こうとする光来だったが、一人で退屈だったのか時計塔の主人がなおも話し掛けてきた。
「お二人は新婚さんですかな?」
「え」
光来は硬直してしまった。
いくらなんでも若すぎるだろう。俺たち何歳に見えてるんだ。それとも、こっちの世界では結婚年齢が低いのか?
「ち、違いますよ。俺たち……きょうだい。そう、姉弟なんですよ」
「ほう。姉弟でご旅行とは、仲のよろしい」
「そうなんですよ。なかなか弟離れしてくれなくて。待ってよ、姉さん」
今の会話、絶対聞かれてたよな……。
階段を上がりながら、光来は額に冷や汗が滲み出ているのを自覚した。
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