第22話 本人の意思
玄関で星紘を見送ってからリビングへ戻り――ソファにバフっと身を投げると、途端に今日の疲れがドッと肩にのしかかってきた。今日は本当にたくさんの経験をして、星紘から話を聞き、そして話し、考えていた。
隣に座る母もおれと同じく疲れたような顔をしていたが、しかし主治医と話したときのようなダルさを伴う不穏な疲れのようには見えなかった。おれをしてもどちらかというと、精一杯運動した後の清々しい疲れに似ている。とはいえいずれも疲れには変わりないので、今日は二人して早めに夕食を済ませて休むことにした。
“トランス症が最も進行した、その最後の瞬間について”
おれと母は互いに顔を見合わせたあと、なにか言わなければ――そう焦りつつ、しかし言葉も見つけられずにいると、珍しく母が口を開いた。
「私は――いつ、ダメになるんでしょうか」
丁寧に、星紘は首を傾げた。「いつダメになるのか。それは、どういう意味でしょう?」
「えっと……」
母の言いたいことはよくわかる。それつまり、いつ自分が本物のゾンビになってしまうかということだ。いつ自分が、今の生活を崩してしまうようになるか――ということだ。おれはそれを母に代わって星紘に伝えようと身を少しだけ前にした。しかし、星紘はそっと仕草でおれのそれを制止させる。母の言葉をジッと待っていた。
「えっと……」
母は言葉を探しているが、星紘は優しい表情で頷いてそれを待つ。
ようやく母は言った。
「息子に噛んでしまう日です」
「息子さんに、噛んでしまう日」
星紘は大きく頷いた。そしてさらに、母の言葉を待ちはじめる。沈黙の時間は数十秒続いた。母はすでに会話が終わっていると思っているのだろうか。星紘はまさかまだ会話が続いていると思っているのだろうか。彼のはじめの質問について、おれは改めて母に伝え、母の考えを聞き出したい衝動にかられる。しかしその様子を察知した星紘は、ちらりと一瞬だけおれへ視線を移して牽制する。すると驚くべきことに、母はまた口を開いた。
「私はいつ、息子を噛んでしまうのでしょうか」
「息子さんを噛んでしまう事が、心配ですか?」
「心配ですよ……。家族で生き残ったのは、息子だけなんですから」
「他のご家族は、どうされたんですか?」
母は、小さな仏壇へ顔を向ける。「みんなゾンビになったり襲われたりして死んでしまいました」
「お仏壇、いい写真が並んでますね」星紘はそれをソファから眺めながら言う。「みなさん、ゾンビになったり襲われたりして死んでしまったんですね」
「……はい」と短く答えた母の声は涙声だった。
おれが横を向くと、隣の母は目に涙を浮かべている。その母の背筋はピンと伸び、顔は真っすぐ星紘へと向けられていた。ふとおれは、なんだか久しぶりに母を見たような気がした。
「息子には、夫と同じような目には遭ってほしくありません。ずっと幸せに暮らしてほしいと思っています」
「優しいお母さんですね」と星紘は母へ向けて言う。
「いえ」と照れる母。
「……いつダメになるかという話についてですが」星紘はようやく仕切り直した。「残念ながら、これと決まった時期があるわけではありません。主治医の先生に聞いてください――と言ってしまっては投げやりかもしれませんが、この部分については人によって違いがある部分なので、注意深く様子を見ていく必要があると思います。もしかしたら定期的に看護師さんに訪問してもらった方が安心かもしれませんね。そういうサービスがあるので、あとで息子さんに説明しておきます」
「はい」
「それで、三上さん。もしこの先、いつか自分がダメになってしまったら、どうしたいですか?」
母は少し黙って考えたが、大きく息を吸い込んでから、決意と共に言葉を口にする。「死んでしまいたいです」
「死んでしまいたいですか。もし死ぬとしたら、三上さんの場合は三つの選択ができます。病院か、施設か、この家か」
母は今度は即答した。「この家がいいです」
「この家なんですね。いいお家ですよね。ご家族の写真もあるし、夕陽も綺麗だし」
「そうでしょ? ありがとう」
不思議な母の笑顔だった。死の話をしているのに、とても穏やかに笑っている。
それに応えて星紘も笑みを返す。「嫌な質問に答えてくれてありがとうございます」
「いいのよ。だれだって人はいつか死んでしまうんだから」
「はい。でも、その時の選択肢が少しだけ限られてしまうのが三上さんの病気なんです。でも勝手ながら、僕は三上さんにはがんばって最後の最後まで生きて欲しいと思っています。病気の進行よりも天命の方が先に来るくらいがんばって欲しいと思っています。そのための方法を今から息子さんにお伝えしていくので、もしよければトライしてみてください」
力強くも優しさのある星紘の言葉だ。しかしそれを受けた母は「そうね……。ありがとう」と――今度はやや力の弱い声でそう答えた。
星紘の身体がこちらを向く。母への話に比べて、百倍も難しい話がはじまった。
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