第9話 母の気丈さ

 初回受診から数か月が経っていた。

 今年も全国で数百人ほどを殺した夏の熱波もずいぶん頻繁に休憩するようになり、冬を感じさせる鋭い寒さと、またそれと相反する粘ついた残暑をまだらに繰り返す過酷な秋に、季節は突入していた。


 昔の秋はとても穏やかだったそうだ。もしかしたらそんな記憶がおれにもあるような気がする。しかし人類にゾンビ症という脅威が発生するよりもわずかに前から、地球の四季は不安定になっていた。


「ゆうちゃん。今日、何曜日だっけ」


 母が曜日を気にして、おれの部屋のドアを開けた。病院の日を気にしているのだ。

 母の定期受診は、今では母が記憶する日常生活の中にうまく溶け込むことができていた。しかし今度はそれ以上の根本的な問題を母は抱えることになり、それはしばらくの間、おれの頭を悩ませることとなる。



 二回目の受診も、おれはうまく連れ出すことができていた。

 当日の朝、さも当たり前のように今日は病院に行く日であること母に伝えて促した。診察券に書かれた日付も母の背を押す力になってくれていた。これについて赤堀は“取り繕い”という言葉を使ったが、おれからすると母のそれは人間のありふれた行動原理というよりも、母の性格的な特性に近かった。


 もともと母は、自分に自信がない人だった。

 父がいればいつでもその指示や判断、意見に従っていた。なにかうまくいかない事があれば、決まって母はそれを自分のせいだと自分を責めるような、優しくも脆い人間だったのだ。その母が今を生きているという苦悩を想像すると計り知れないと、おれは思う。



 民家が並ぶ住宅地。

 それほど広くない直線道路に接する多くの家がシャッターを閉め玄関を固く閉ざしていたが、その対策は内部からの異変に対し無力だった。どんよりと沈む無人の住宅街を抜け、おれと赤堀が駆け付けた――というよりも、安息の希望を抱いて逃げおおせた――両親が暮らす実家の玄関を開けると、室内はすでに血みどろ状態だった。廊下には肉片や臓器が所々に落ち、下水が逆流したかのような悪臭と、冷蔵庫に入れず一晩放置した肉の腐臭が混ざり合って、家の中一体に沈殿していた。


 僅かな庭を隔てた道路と玄関の間で、足を止めた赤堀が肩で息をしながら言った。


「ここも……ハァハァ。……だめっすかね」


「試してみないとわからないな」


 は人の声に反応する。屋内に入る際は、玄関際から中へ軽く呼びかけると、その家の脅威度がよくわかる。


「……怖く、ないですか」


 もし、中からの反応がおれの望まない形であった場合の事だ。しかしもう、おれは疲れていた。


「大丈夫」ここでの反応がどうであれ、もうどちらでもよかったのだ。例え両親がすでにゾンビであったとしても。「……大した問題じゃない」


「はは。先輩のその言葉聞くと、なんだか仕事を思い出しますよ。心強いです」


 赤堀が持つ金属バットは酸化した血で黒ずんでいる。おれは手に持った木刀を改めて強く握りしめた。おれたちは玄関の中に入り、背後からの脅威を排除するため扉を閉める。この家は玄関が広く、正面には二階へと続く階段、右手にリビング、左手に使っていない部屋が一つある。おれは腐ったような空気を大きく吸い込んで、控えめに呟いた。


「ただいま」


 なんとも情けない、震えた声だった。

 リビングから「ガタッ」と物音がした。ゆっくり、のっそり、何かを引きずりながら移動する音が開始される。おれと赤堀は顔を合わせて頷く。それぞれの武器を全力で振るうには十分の広さがある家だ。


 すぐに、人影がリビングから現れた。

 黒いスラックスと、シャツの上に薄いセーターを着た長身の男性――そのシルエットは間違いなく父だった。しかしおれがそれを父と認めたくないのは、その顔があまりに無残にも崩れていたためだ。片目だけがこちらを捉え、もう一方はどこかあらぬ方を向いている。瞳は黒いがそれ以外の部分は真っ赤に充血していて、頬や顎が破れ、歯が剥き出しになっている。


 父は左足を一歩前に出し、曲がった右足首を引きずっておれたちへ手を伸ばす。その手はすでに腐ったようにぼろぼろで、血色を失った灰色だった。


「父さん……」


 おれが呼びかけた相手は、それに反応したように呻き声をあげて口を開いた。赤堀が殺気を高めたのがわかった。おれの心臓はドッドと制御が利かなくなっていく。覚悟など時間があればいつまで経っても決めかねるだろう。しかし迫っているなら決断は早いか遅いかの違いでしかなく、後者は大概が致命的要因になり得るのは仕事でも同様だ。


 思い出や感傷は後回しにすべきなのだ。

 おれは木刀を斜めに構え、そのまま、父の頭部へとそれを振りかぶった――



 手に残る鈍い感触は、もう何十人分にもなっている。父だった身体はもう動かなくなり、赤堀はすでにここ以外の音に集中しようと意識を研ぎ澄ませていた。


「他に音はしないですね」


「まだ母がいるはずだ」


 そしてリビングを見回してみる。キッチンの奥にもう一つ死体があった。男だ。まだ可能性に警戒しながらそれを調べてみるが、この男はもう誰かに頭部を破壊された後だった。しかしおかげでこれが誰なのかわからない。


「先輩」


 赤堀が呼んだ。テーブルを指さしている。そこには手紙と三人分の免許証があり、それはおれの父と母、それに父の弟の――おじさんのものだった。手紙には、万が一の時に備え身元が分かるものを置いておくというような内容が書かれていた。


 ギィ……と、扉が開く音がした。

 気が逸れていたおれたちは戦慄し、慌てて武器を持ち上げる。


 母が立っていた。


「ゆうちゃん……?」

「母さん……?」

「……ゆうちゃん!」


 おれと母は思わず抱き合って、お互いの無事を喜んだ。そして思い出したかのように、おれは母に外傷がないかチェックする。


「大丈夫」と母は涙声で言う。「お父さんが助けてくれたの……。逃げて来たおじさんが突然ゾンビになった時、私に“隠れてろ”って叫んで、私を守って……」


 母は、おれたちの足元にある父の亡骸の横にしゃがんだ。


「本当にごめんなさい。本当に……。私なんかを庇って……。私が代わりに死んだ方がよかったのにね……」



 そして母はしばらくその場で泣き崩れていた。なすすべなく守られた人間の弱い背中だった。ずっしりとした自責の念が、小さな両肩を圧し潰していた。


 しかしそれからというもの、母はおれが知っている母に比べ、自分の行動や言動に自信の色を混ぜるようになっていた。その雰囲気はまるでおれが小学生時代の母親だ。まだ小さかったおれの間違いを叱り、正しさを教え、それを自分の行動からも示す――強い女性に、母は戻っていた。



 ゾンビ禍から、母はおれに弱さを見せなくなっている。いつも笑顔で、夕食を作っておれの帰りを待ち、弱音などは決して吐かないようになっていた。そしてだからこそ、母は“取り繕う”のだ。


 自分は強くなければならない。

 少なくとも、この子の前では――と、おれを見て思っているに違いない。



 その自戒のおかげで――母の意図した形ではないにせよ、母は定期的に病院へ行けるようになった。病院受診が当然のスケジュールとして母に接すれば、母は愚直にそれを覚えていた風に装うのだ。赤堀の言うようにそれは確かにお茶目であるものの、無力ながらも力強く、母らしい気丈さだった。おかげで母が本格的なゾンビにならないために最も大切なポイントは抑える事ができ、それは母と共に暮らすおれにとっても助けになることだった。


 医師の対応に思う所はあるものの、ふぅと一息つきたいところだった。

 しかし――せっかく病院に行けたというのに、おれは母についてそもそもの根本的な問題に頭を抱える事となる。


 というのも、せっかく処方された薬を、母は自分で管理し飲むことができていなかったのだ。

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