第8話 歳相応

 失礼な話かもしれないが――母のそれを、おれはとても興味深く観察していた。

 母の二つの精神状態モードのうち、今朝は珍しく“間違いを認めない母”だったわけだが、はじめはなぜ自分が病院に行かなければならないのかと――自分はどこも悪くないと信じ、病院に行く事を拒否していた。ところがそれから一時間もしないうちに、母は“なにか予定があったはず”とおれの部屋のドアを叩いた。そしてそれが病院受診だったと本人なりに思い出すと、途端に外出の準備をはじめたのだ。



「いい感じに取り繕ってくれて、よかったですね」


 記憶のなかから現実に意識を向ける。蝉が鳴く灼熱の白昼世界におれは帰って来た。隣には笑ながら話を聞いている赤堀がいて、汗をかきながらも爽やかな表情でレッドホットから揚げを食べている。その赤堀は、おれの頭上にある「?」を発見し、続けて解説をはじめた。


「恥をかきたくないときって、僕たちも知ったかぶりするじゃないですか。テキトーに“あああのことですよね”的な。トランス後遺症を負ってもやっぱりそういう人間っぽい所は変わらないらしいですよ。物忘れがあるけどそれを誤魔化したくて、ふと“さも知っていました”って感じで反応してしまうらしいです。でもなにせ物忘れがあるので、それは周りから見て不自然でバレバレなんすよね」


 そして赤堀はぬるそうな牛乳をチュウチュウ吸って口腔内の環境を整える。


「先輩のお母さん、なんか超グッドタイミングでその取り繕いが発動したんすね」


 母の能力は低下してきている。母はほぼ確実にゾンビにならんと歩みを進めている。事態は悲観すべき状況だ。しかし赤堀にそう言われて、おもわずおれは吹き出してしまった。


「病院へ行く事を忘れてるって気付かれたくなくて、誤魔化すために思わず病院に行こうとしたってことか!」


「めっちゃお茶目ですよね! 不謹慎かもですけど、そういうのなんか好きだなぁ」


 赤堀は、こういう所で笑ってしまえるやつだった。客や取引先を相手にしていると時々ヒヤリとすることもあるが……


 確かにあの時の母は“病院に行かなければならない”と心にでも誓っているかのように行動していた。ところが“なぜ病院に行くのか”は忘れたままだった。だからこそ、病院――地域のクリニックに到着して診察の順番がきてからも、まぁおれは大変な思いをした。




 クリニックに着くと、まずおれと母は共にオウウィルス感染チェックをさせられた。インフルエンザと同じように鼻の奥から粘膜を採取し、それを何らかの検査機にかけていく。結果が出るまでの間、医師からは――診察というよりも子供じみたクイズがいくつか出され、母は困惑しながらもそれに笑顔で答えていった。そして数問のやりとりを終えた所で、医師は先の言葉を発していた。おれの率直な感想としては“意味がわからない”だ。


「ちょっと待ってくださいよ」


 母の隣に座っていたおれは、思わず身を乗り出した。


「(家ではもっと酷いんです)」


 難聴の母には聞こえない程度の声量で伝える。しかしその言葉を口にした瞬間、おれは心の奥底でなんとも言いしれない後悔を感じた。もっとも強く心に生じたのは、自分の母親が酷い状況であるとなぜ進んで伝えなければならないのだろうか、という思いだ。今回の目的はこの白衣を着た初老の男性に母の悪い所を伝え、より悪く診断を出してもらうことだっただろうか?


 そうではなかったはずだ。

 欲しいのは、事実と希望だ。



 医師はデスクに置かれたパソコンディスプレイを見つめキーボードをカタカタ叩きながら、おれの言葉を無視したとも反応したともとれない調子で口を開いた。


「家でなにかお困りのことは?」


「特にないですよ~」


 笑顔で即答する母。

 そしてその答えが正しいものかどうか、医師はおれに意識を向けた。


「家での調理はどうですかね、息子さん。お母さんの料理の味付けは?」


 医者に言われてハッとしたのは確かだ。確かに自分にとって盲点であったというか――母の調理の味付けは、今までと違ってどこかことが増えてきている。それは砂糖と塩を間違えるといった著明な変化ではないが、味が濃かったり薄かったり、安定感がないのだ。


 おれはそれを伝えようとした。この、目の前の、パソコンばかり眺めている医師に。


「……気になるほどではないですね」


 母がホッとした表情でおれをみる。「そうでしょう~! 大丈夫よねぇ!」


 おれは溜息を吐きながら細かく頷いた。そして今の自分の状況を分析してみるが、簡単に言うと、どうも母の品位を下げるような日頃の主張を、この医師にする気がなくなってしまっているようだった。おれは投げやりに頷いてみせる。


「母がそう言うなら、そうなんでしょうね」


「そうですか」


 タンタンと、医師はキーボードのエンターキーを叩いた。スッと椅子が回り彼の身体がようやくこちらを向く。


「検査の結果が出たようです。息子さんは陰性ですね。お母さんの方は残念ながら陽性でした。お母さんには抗ウィルス剤を処方しておきます。ただし認知機能に関しては、まだまだいわゆるゾンビというには早い状況のようですね。歳相応ですよ」


「ありがとうございます」と深く頭を下げる母。


 おれはもう一度深く溜息を吐いて立ち上がった。


「抗ウィルス剤が効いているか確認する必要があるので、また来週来てください」


 母は頷いて立ち上がり、おれの前を歩き診察室を出た。おれも続いて扉に手をかける。

 無駄足だったとまでは思っていない。母に感染したオウウィルスについてはこれで一安心と言えるだろう。一歩でも進んだことは事実だ。しかし――医師の言葉を使うならば認知機能とやらの低下こそが、これから最も頭を悩ます問題だ。


 ホッとした一方で落胆もある、なんとももやもやとする受診だった。

 医療は薬をくれるだけだ。それ以上のなにか期待をしていたおれがいけなかったというのだろうか。

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