第20話 社会からの目

 時刻は確認していないが、朝の五時頃といったところだろう。まだ陽は昇ってきていない。


 廊下の電気をつける。

 それでも、いったい何が起こっているのか理解するのに少しだけ時間がかかった。なぜ母はこんな寒い廊下でしゃがみこんでいるのか。なぜズボンをおろしているのか。そしてそこで、いったい何をしているのか。


「母さん?!」


 後ろから大声で声を掛けたのは失敗だった。母からするとそこはどうやらトイレの中のつもりで――予想だにしていない背後からの人の声に驚いてバランスを崩し、尿で濡れた床に背中から倒れ込んでしまう。母のパジャマがぐっしょりと濡れる。大人の尿臭はとても濃く、鼻の内側にこびりつく不快なものだった。思わずおれは顔をしかめた。


「母さん……。なにやってんだよ……」


 そして次に生じた感情は――



 なんとなく、懐かしい。

 そんな想いだった。


「……悪かったよ。びっくりさせて」


 おれは溜息を吐きながらも、母の手を取って身体を起こしてやる。


 母は言い訳を探すように「暗かったから」とか「わけがわからなくなっちゃって」とか「ここに来るのは初めてだから」とか、次から次へと言葉を探し、徐々に混乱の渦へと落ちていくかのようだ。これ以上の落下は早めに防ぎたいところだった。


「いいから。このくらい気にしなくても」この言葉で母がどれだけ落ち着くかはわからなかったが、とにかくなだめてすかして、この惨状を元に戻すことを急ぎたかった。「身体を拭くから――タオルを取ってくるから、母さんそこから動くなよ」


 服から尿が滴る母にそう指示をして、浴室に向かう。その間、おれは少しだけ昔のことを思い出していた。


 それはゾンビ禍の時代――まだおれたちがゾンビについて何も知らないで逃げ回っていたあの頃に、生活上のありとあらゆる不衛生を経験し耐えてきた記憶だ。風呂に入らないどころかトイレに行けないなんてよくあることで、悪くなった物を食べて下痢になったこともあるし、それでもトイレにこもる事もできず下着を汚しながら走って逃げまわらなければならない、そんな災禍だった。生ごみ捨て場に身を潜めたこともある。腐敗した人間の身体が浮かぶ水路をかき分けて生き延びた。そんなおれにとって母の尿など、今更だ。


 タオルでまずは自分の足を拭き、廊下もおれの足跡をとりあえずは拭き取りながら母の元へ戻る。母は案の定おれの指示を無視して立ち上がって自室へ戻ろうとしていた。これ以上おれの仕事が増えないよう「はいはいだから動かない」と引き留める。水分が冬の温度を拾いはじめているので、今も言い訳を続ける母の服を脱がせてタオルで軽く身体を拭いてやり、浴室へ放り込んでシャワーを浴びさせる。汚染した服やタオルは、母が出てきてから一度風呂場の中で洗って臭いを取り除いてから洗濯機へ託すことにする。 


 おそらく今回のこれは、昨日の定期受診によるショックかなにかで母の心のリズムのようなものが乱れてしまったのだろう。いや、実際のところはわからないが――今のおれには都合のいい八つ当たり先が必要だった。


 あの医者め。

 正しい知識を持っているのだから、せめてもう少し言葉に感情を込めたり、おれではなく母の目を見て話したりできないものだろうか――


 ぶつぶつ文句を言いながら、おれは廊下の掃除に取り掛かる。ところで母の今日のこれは、なんとしても“今日限定の偶然の不調”であってほしかった。これから排泄のたびにこんな事になっては、いくら不衛生慣れしているおれですら耐えかねる日が訪れるだろうからだ。


 それなりに廊下が綺麗になったところで、おれの部屋で目覚ましが鳴る。母はドライヤーで髪の毛を乾かしている。少し早めに起きていて本当によかったと思う。しかし今日このまま母を放っておくのも心配だったので、おれはチャットアプリで清水に相談のメッセージを送ってみる。特定の年齢層は朝が早い――すぐに既読がついて、返事が表示される。


『トイレの場所が分からなくなってきたら、それは一つのタイミングかもしれません。早急にトランス支援センターに相談をしてください。お母さまには、今日、また声をかけてみますね』


 そのメッセージに続いて、支援センターの電話番号が表示される。ありがたいとか、心強いとか、そんな言葉では言い表せない程の感謝しかない。せめておれは端末ごしにお辞儀をして、お礼のメッセージを返す。支援センターは朝九時からとのことだ。仕事の空き時間にでも、連絡してみようと思った。



 数日が過ぎ、これまで母はなんとか波の良い状態を保ち続けていた。今の所、前のような粗相はしていない。けれどトイレの場所がわからなくなってしまう状況は今後いつ起こるかわからない。おれは清水にアドバイスをもらい、母と一緒にリハビリパンツを買いに――今のうちにこういったものに慣れておくために、この日は仕事を休んで量販店に来ていた。店員に相談しながら適当なサイズを見繕ってもらい、まずは小容量のものから試していく事にする。ついでに今日の食事の材料も買おうと食品売り場へ立ち寄るが、その時、先ほどの店員と、もう一人スーツを着た同年代の中年男性がおれたちを追いかけて来た。


「すみません、これからどちらでお買い物の予定ですか?」


 おれは疑問を堪えて平静に答える。「食品を買う予定ですが」


「あのぉ……大変申し訳ございません。先ほどこちらの者が伺った話によると、お母さまはゾンビトランス症を患われているとか」


 スーツの男が先ほどの親切丁寧な店員の方を向くと、若い方の彼はおれにむけてややぎこちなく一礼する。


「そうですね。それがなにか」おれは小さく礼を返しながら、礼儀正しいながらも不穏な空気を感じ取った。嫌な予感がする。


「息子様は、お怪我等ございませんでしょうか」


「……どういう意味ですか?」


「いえ……。もし万が一、他のお客様にご迷惑が掛かることがないようにと思いまして、念のために確認を――」


 お怪我? ご迷惑? 親切丁寧な遠い言い回しだ。


「心配してくださって、どうもありがとうございます。ですがそんなに心配なさらなくても、母は大丈夫ですよ」


 おれは愛想笑いをしてから踵を返し、表情が本音で歪む前に彼らへ背を向ける。難聴のためこのやり取りを聞き取れていない母の肩を叩き、食品売り場へ向かう。しかし彼らは――主にスーツの彼は、今度は回り込んでおれたちの前に立った。


「お客様……。大変恐縮なのですが、食品売り場へのお立ち入りは、どうかご遠慮いただけませんでしょうか」チラリと母を見るスーツの男は続けて「オウウィルスの感染源は不明とされていますので」と言った。


「母は感染検査では陰性ですが」


「そうなんですか?! ……ですが、トランス症を患われているとこちらの者に確かにお話しされたかと思います。インフルエンザでもノロウィルスでも麻疹でも、感染する可能性のあるウィルスに感染した場合は自宅療養が常識です。オウウィルスであってもそれは同様でしょう。今の時代、お客様はどなた様も敏感です。どうか、改めて息子様お一人でのご来店をお願いいたします」


 だから撒き散らすウィルスもないのになぜ――と言い返してやりたかったが、寸でのところでおれはその言葉を飲みこんだ。理由はいくつかある。


 彼らはおれの母の状況については当然ながら理解しておらず、それはなんら悪いとは言えないことだ。トランス症と聞いたら誰でもウィルス感染がイコールで結ばれる。トランス症とウィルス感染の関係についてはおれですら先日の受診時に医師から聞いて知ったことだ。それについて今この場で理解を求めるのも難しい話だろう。


 そしてなにより、今おれの隣には母がいた。中年の男たちの言い争いなど、誰が見ても心地の良いものではないのは明らかだ。目の前で起こるトラブルを見せつけて母を不安にさせてしまっては、また予期せぬ行動に繋がってしまうかもしれない。


 ふと清水の言葉を思い出した。

 確かに一緒にいると、気を遣ってばかりで疲れるな――


 おれは母の肩を叩き、今日は帰る旨を伝える。


「そうね。今日はお客様も来るし」

「おぉ。覚えてた?」

「来るわよね? よかったー。お母さん最近わからなくなってきちゃって」


 二人の店員は深くお辞儀をして、立場上仕方ないといったような肩幅で――それなりの謝罪の意をしめして、おれたちの退店を見守っていた。



 トランス支援センターの星紘ほしひろという職員の訪問は午後二時の約束になっていた。この日のために仕事を休んだおれは、せっかくだからと午前中に母と買い物に出かけていたのだ。けれどその結果、予定通りオムツをゲットする事はできたものの、とんだ社会からの偏見の目を味わう事になった。


 とはいえ、彼らの気持ちだってよくわかる。おれであっても、赤の他人がゾンビトランスしていると言われれば恐らくは警戒するだろう。例えいつ襲われようともその噛みつきを躱して、いつでも殺すことができるように――


 しかし、そんな最悪な状況に陥ってしまうその前段階までであれば、今のおれはなんとなくイメージすることができるようになっている。それが先の店員たちや、または過去の自分との違いと言えるだろう。襲われる危険が実際に行動として生じるまでは、こちらは普通に優しく話をしていればいいだけなのだ。ちなみにここで言う優しさとは、多少の会話の齟齬や繰り返しには目を瞑り、笑顔で耐える事だとおれは解釈している。


 そしておれが母に対しそれができない時は、今は心強い味方が何人も居てくれているのだ。

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