第21話 偏見を越えて、共に

 午後二時。

 ほぼぴったりの時間に玄関のチャイムが鳴った。


「お約束していた星紘ほしひろです」


 やや暗めの――若い男の声質だった。インターフォンで招き入れると、駅ビルの会議室でゾンビ対応講座の最後にすれ違った若い男性が玄関から入ってきた。ベージュのチノパンに、コートを脱ぐと――白いTシャツにその上から灰色のジャケットを羽織った、フォーマル寄りの私服だった。胸元の名札を持ち上げて再び名乗った後、おれは母が待つリビングへ彼を案内する。星紘は、母へ名刺を渡した。


「はじめまして。今日はお時間を取ってくださってありがとうございます」


 少し小さな声だったので、母が難聴であることを伝えると、星紘は改めて大きな声で母に挨拶をする。そして、支援センターが果たして何をしてくれる機関なのか説明がはじまった。簡単に言うとその内容は――前に赤堀が言った通り、ゾンビトランスによって生活の中で感じられる不便なこと、困難なことに対して、どのような公的解決手段があるのかを提案し、そこへ繋げてくれる窓口であるとのことだ。


 おれは星紘に、今までのできごとを思い出せる範囲で伝えた。


 真夜中の警察沙汰から始まった著明な異変。そこからの悪戦苦闘と、頼れる友人の存在。民生委員や、近所の人に支えてもらった時の事。今日の午前中、量販店であったこと――


 星紘は話の間に質問を混ぜながら、根気強く話を聞いてくれていた。一時間があっという間に過ぎ去っていく。おれの話が終わると、今度は星紘が、おれの話を元に公的に利用できるサービスの説明をはじめる。説明の中で重点的に星紘が話したのは、今後もおれが仕事を続けながらも、安心して母が暮らせる生活のための提案だった。その中には赤堀の祖父が利用しているプラザサービスというものもあり、送迎もついているので、昼間の心配な時間はそこへ通うのもいいかと思えた。母はそれについてやや後ろ向きな返答をしていたが、まずは見学をしてみようとおれと星紘で説得し、最後にはなんとか頷かせる。


 冬の早い日の入りが、あっという間に外を夕焼け色に彩った。


「それにしても、次から次に色々な事が起こって。本当に大変でしたね」


 星紘は真剣な表情ながらも微笑みながらそう言った。


「現代の日本社会は――あらゆる価値観が錯綜した2020年代の混乱を、また改めて迎えようとしています。大震災やゾンビ禍によってその混乱の中で求められていた結論はあやふやな状態のまま放置されていましたけど、いよいよ僕たちは復興を落ち着かせ、生活の地盤を固め――そしていずれまたあの頃と同様に文明の醸成期となって、社会は人々が相互に不道徳を監視し、それぞれが持つ多種多様な倫理を押し付け合う生きづらいものになっていくのだと思います」


 言いたいことはよくわかる。おれは頷いた。


「ゾンビトランス症への特効薬は“優しさ”と聞きました。そして私自身、母と一緒に生活をしていると、その効果を確かに実感します。特に私が母に優しくするよりも、周囲の方からそれをしていただいた時の良い影響は計り知れません。けれど――私は偶然にも素晴らしい人たちに囲まれているからよかったのですが――これからの日本社会全体がそこへ向かっていくことができるのかというと、少しだけ疑問です」


「自分自身への問いかけになるかもしれません」星紘は控えめに笑った。「誰でも“正しく生きる”という事に必死ですから。僕自身、電車に乗っても、どういうわけか周りがみんな敵のようにみえたりします。こちらが弱さや甘さを見せたりしたら、そこを誰かに付け込まれるかもしれないという不思議な強迫観念です。だとすると、もしかしたら三上さんたちが今日ご経験されたこと以上に、これからの社会はゾンビトランスを許さなくなるかもしれません」


 あれ以上の逆風などあまり想像はしたくはないが、もしかしたらそうなのかもしれない。星紘はリビングから夕陽を眺めながら続ける。


「そんな冷たい社会の中で、対応講座で語られたような“優しさ”というものをご家族だけが大切にしなければいけないだなんて、それはとても孤独なことのように僕は感じるんです。僕たちは人間なので、いつでも優しくなれるわけではありません。そのうえ家族ともなると特に厳しく当たってしまいがちです。それでも“トランス症の方と接するには優しくなければならない”などと言われてしまっては、もうその人たちには居場所がないように思えますし――または僕たちは優しい自分を演じるために感情を殺してでもそうしなければならないということになります。そしてそんな風に無理をしてお互いが向かい合った生活を続けていては、いつの間にか進行方向がわからなくなってしまう――そう思えるんです」


 おれは星紘にわかるように、頭の上にクエスチョンマークを浮かべて解説を促した。するとそれを察した星紘は左右の人差し指を立てて、その指の腹同士を向かい合わせる。


「つまり、向かい合っていればお互いの顔はよく見えます。ですがこれでは、どちらが正面かわからない」


 それは先日のバラエティを見た時におれが感じた感想と一致したような気がした。大切な人をゾンビトランスから救いたい一心で様々な情報に惑わされ、気付けばどのような生活を送ればいいのか見失ってしまう人もいるだろう。物忘れへの“対応方法”や今後の病気の進行に憂い、途方に暮れてしまうこともあるだろう。


 そんなとき星紘は、両手の人差し指の腹をどちらもおれへと向けた。


「向かい合うのではなく、同じ方向を見る」


 呟かれたような星紘の言葉だ。

 途端におれは不意打ちのような衝撃を受けた。青天の霹靂とはもしかしたらこういった瞬間のことを言うのかもしれない。


 いたずらっぽい笑みを見せながら、星紘は言った。「僕たち福祉の世界では、これを“寄り添う”と言っています。介護する側される側という区別ではなく、共に社会の中で生きている個人として、どうすればお互いに暮らしやすい生活を作っていけるかを考えること。時には三上さんが導いたり、時にはお母さんに委ねたり――」


 母の隣や、一歩前や、一歩後ろを、共に歩むこと――


「こういう視点であれば、僕は“優しさ”という考えにも賛成です。ですが実際のところ、それは簡単なことではありません。だれか自分たちと向き合ってくれる第三者が必要になります。三人は欲しいところですね。一人は専門の知識を持った専門職。もう一人は介護の事を良く知る友人。そしてもう一人は、介護の事をあまり知らない友人です」


 清水を友人と言っていいのであれば、彼女は介護の事を良く知っており辛さをわかってくれるある種の同志だった。赤堀はそこまで介護には詳しくないものの、おれの気持ちを遠慮なく代弁してくれる――それは実際に介護をしていては中々言えないような、ある種の爽快さを感じる後輩であり友人だ。


 本当におれは恵まれていると思った。


「寄り添うこと。……できるかもしれないですね」


 そしてさらに、おれは自分自身のその先の姿を見たような気がした。もしゾンビトランス症と戦うだれかとおれが知り合ったならば、おれにはすでに明確な役割がある。おれがしてもらえて助かったこと、救われたことを、おれもだれかにする番がいずれ訪れるだろう。


「それはよかった」


 星紘は安心したように笑ってくれた。けれど、最初の一人だけが今も抜けている最後の一人だ。この役を担ってくれる立場とは、例えば母の主治医ということになるだろうか。しかし彼は、向き合うとは程遠い事務的対応をする医師なのだ。正直、その彼に相談したいとは思えないが……、それでも、味方にしていかなければならないということなのだろう。


「最後に、教えてください」星紘が姿勢を正していった。口調が変わっている。「これは正直、あまり考えたくない事ではあります。しかしこの病気においてどうしても考えておかなければならない事でもあります」


 星紘は、ゆっくりとおれと母を交互に見つめる。目と目がしっかりと合う、まっすぐ凛とした瞳だった。おれと母は二人で、星紘と向き合った。


「トランス症が最も進行した、その最後の瞬間について。……お二人は、どのように考えていらっしゃいますか?」

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