第17話 向き合い、寄り添い。

「今日は来てくれてありがとう」講座が終わると、鈴城が近寄ってきた。「もしよければ、支援センターの人たちに相談していったら?」


 ちえみさながらの、遠慮がちな笑みを見せる鈴城。

 けれど、涙が出るかと思うほどの落ち込む話をされた後に、その話をした当人たちに声をかけるという気持ちには――申し訳ないが、どうしてもなれなかった。


「今日は話を聞けてよかったです。誘ってくださってありがとうございました」


 とにかくおれは、一刻も早くこの会場を後にしたい気持ちでいっぱいなのだ。おれが彼女に背を向けると、一歩後ろを赤堀もついてくる。赤堀もその表情からするに、この講座について何か言いたげだ。朝の詫びと付き合ってくれた礼に、酒でも奢ってやらなければならないだろう。


 会場の出口には、講座開始時には見かけなかった――講座関係者と思われる、ネームプレートを下げた男が立っていた。黒く薄いジャケットに白いTシャツ、黒いパンツを履いており、身体は細めのラインだ。“星紘”と書かれた名札に目を落としてから、おれはその顔へと視線を上げてみる。彼の中性的な顔立ちからするに歳は赤堀と同程度であろうが、その表情もまた、それこそ赤堀のように不貞腐れたような顔をしている。


 星紘は退室の動線を避けるように立っていたが、おれたちの接近に合わせさらに数センチだけ身を引いた。その間も視線は全く動くことなく会場正面を見つめている。その横をおれたちは僅かに頭を下げて通り過ぎるが、その際、彼の小さな呟きを耳にした。


「優しくするためには感情を消さなければいけない。だけど、そんなことをする必要はないと僕は思っています」



 講義は九十分ほどだったので、駅前はちょうど昼時の様相だった。おれと赤堀はどこで昼食を食べるか悩んだ挙句、“昼間も営業中!”の看板に誘われて、駅前の居酒屋チェーンに入った。そこでおれたちは昼から酒を飲む贅沢を味わいつつ、互いに講義で聞いた内容についてぐちぐち文句を言い合った。


「ま、大丈夫っすよ、先輩」と赤堀がビールを飲み干して言う。「今日話してた部外者が言うような事を実践してる家族なんて、そうはいないと思いますよ。やっぱり“正しい対応”なんて言っている人たちの言う事なんてあの程度かって感じでしたよ。怒らず優しくするなんて事が本当にできるなら、この世界から争いなんてなくなってます」


 それにはおれも同感だったが、なんとなくおれの立場からそれを言ってしまってはいけないような気がして、否定の言葉を探した。


「そうだな。まぁでも、だからこそそれを目指さないといけないのかもしれない」


「先輩。そんなことないと僕は思いますよ。そりゃ怒鳴り散らしたり手を挙げたりしたらダメだとは思いますけど……、最後の人も言ってたじゃないですか。そこまで感情を消す必要はないと思います。あんまり抱え込まないでください。おれでよければこうやって付き合えますし」


 もちろんその赤堀には感謝をしている。特に母の事を打ち明けてからはかなり気が楽になり、それまでの怒鳴るような会話が以降は落ち着きはじめたこともこいつのおかげなのだ。頃合いを見て、おれたちはそれぞれ帰路についた。


 冬の日の入りは早い。

 空はすでに夕刻を描き出そうとしている。中心街で遊び終えた人たちが続々と駅から排出されている。


 ほろ酔いの心地で束の間のリラックスを感じながらマンションの階段を昇っているが、自宅に近づくにつれて段々とプレッシャーが重くなっていく。今日これからの時間の母は、果たしてどんな母なのだろうか。そしておれはその母に対し、優しく振る舞えるだろうか。


 自宅がある階から人の話し声が聞こえた。同じマンションの住人と思われる人々が何人か、まさしくウチの玄関の前に集まっていた。その中心には母の姿もあった。一気に酔いがさめ、頭からサーッと血の気が引いていく。


「あ、息子さん! 帰ってきましたよ!」


 集まっているうちの、中年の女性の一人が言った。その口調は、おれの母に優しく語り掛けるものだ。一方で集団の視線がおれに集中する。その中で不安そうにおろおろと視線を定めずにいるのが母だった。それなりに整った服は身に着けているが、この季節にしては薄いカーディガンしか羽織っていない。


 思わずおれは頭を下げた。

「あの、申し訳ありません……!」なにより思い当たることと言えば、不安そうな顔をしている母のことだ。「私の母がまたなにかご迷惑を? 外に出て迷子などにでも?」


 おれの言葉は心なしか震えていた。酒はすっかり抜けてシラフで、代わりにどす黒い色の自責の念が胸の当たりで黒く大きく渦巻きはじめている。母が何をしたのであれ、何らかの事情でこの人たちが保護をしてくれたのは明白だ。そしてそれは、おれが家を空け母を一人にしたから起こったことに他ならない。加えて昼間から酒を飲んでの帰宅だ、それに気付かれたらここに集まっている人の心象も最悪になるだろう。


 おれは今すぐにでも母の手を引き、玄関の中に放り込みたい衝動にかられた。わかっているのだ。自分がしっかりしていないから、周りの人たちに迷惑をかけてしまっているということに。だからこそ、誰からも何も聞きたくなかった。これ以上つつかれでもしたら、おれはもう――



 けれど、はじめにおれに気付いた女性は優しそうな笑顔を見せて、両手を持ち上げた。「そうじゃないそうじゃない」と――否定のためというよりは、まるでおれの衝動を察してそれを穏やかに抑え込むかのようだ。


「ごめんなさいね、賑やかになっちゃって」


 その女性は振り返って母に語り掛ける。「さっきまでウチでお茶を飲んで過ごしていたんですよね。でも陽が傾きはじめると、息子さんのために夕食を作らなくちゃって張り切っちゃって。でも、鍵を失くしてしまったのよね」


 別の女性が一歩前に出ながら言った。「だから息子さんが帰ってくるまでは清水さんのお宅にみんなで居ましょうって勧めたんだけれど、どうしても心配みたいで、ここから動かなくて。でもほら、この服装じゃ寒いじゃない? だからみんなで説得していたんですよ。でも逆に――ね。ちょっと大騒ぎになっちゃったわね。ごめんね」


 語り掛けられた母は丁寧に一礼をした。

「もう本当に。ウチの息子がご迷惑をおかけしてすみませんでした」


 それをお前が言うのかと――迷惑をかけたのはそっちだろうという怒りと、しかしその母を一人にさせたのは他ならぬ自分だという苦しさが同時に襲ってきた。怒鳴りつけて、しっかりと母自身に頭を下げさせてやりたい。母をしっかりとこの場で反省をさせるべきだ。これから同じことを繰り返さないために――と、そう思った。


 そう思ったが、集まっている人たちは母の言葉を聞いてみな笑いだした。感じのいい笑い方だ。母を取り巻く彼女たちにはどこかほのぼのとした雰囲気があり、目をつり上げているだろうおれのその毒気がスッと中和されたように感じた。


 清水さんと呼ばれた、ほっとする笑顔の女性がゆっくりと母に頭を下げた。「そうね。どういたしまして」次いでおれの方を見る。“わかっているから”と語り掛けてくるような微笑み方だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る