第18話 家族と周り

「ごめんなさいね。あとでウチの中をしっかり探しておきますね」


 清水がおれの顔を覗き込んでいる。一瞬だけ、おれはきょとんとした。彼女たちの温かさに触れてジンと涙が出そうだったおれにとっては唐突すぎる話題の切り替えで、それが何の話かすぐにはわからなかったのだ。


「ほら。失くしちゃった鍵」

「ああ。それならたぶん……、服のここに……」


 それは頭の隅にあった母の記憶だ。母は昔から、カギをそのままズボンの後ろポケットに入れておく癖があった。落としてもわかりやすいよう鈴やストラップをつけるよういくら言ってもダメだった――どうでもいい所で頑固だった母の記憶。


 おれは涙を堪えるように一回だけ鼻をすすり、そして母に失礼して、ぴっちりとしたズボンの後ろポケットに手を入れる。案の定チャリンとした金属の質感が指の先に触れ、おれはそれをつまみ上げて母と清水に見せびらかした。


 清水が手を合わせて喜んだ。「ありましたね! 三上さん! よかったですね!」

 母も驚いたように手を胸に当てる。「ま~! こんなところにあったの~!」


 そして母は誤魔化すように笑いはじめ、清水や女性たちもまた笑い、今度はおれもその中に混ざっていた。彼女たちを前に、また涙が溢れてきそうになる。けれど、これでもおれは男だった。それは夜一人になるまで我慢しようと思った。



「母さん。寒いからそろそろ中に入ろうか」


 あのあと――

 気付けば清水たちもみな寒さに耐えている風だった。おれが母にそう言うと、それはみなの解散の合図になった。


「みなさん、本当にご迷惑をおかけしてすみませんでした」


 おれが改めて頭を下げると、彼女たちはそれぞれ労いの言葉をかけてくれながら解散をした。母もドアを開けて中へ入りるが、清水だけはまだ用事がありそうな雰囲気で最後まで残っている。おれとしても彼女には特別お礼を言いたかったのでちょうどよかった。


「清水さんのお宅に母がお邪魔していたみたいで。……本当にありがとうございました。これからはできるだけ母に付きっきりでいようと思いますので――」と、そこまで言って、その解決策が実行不可能な理想論であることをおれは悟る。


 清水も首を傾げて心配そうな顔をする。「でも、お仕事があるでしょう?」


「……そうですね」


 できない約束はすべきでない――当然、そんなことはわかっていた。逆にもしここでそういう約束をするのであれば、おれは今の会社について今後の事を本気で考えなければならないだろう。今の仕事を続けていればとりあえず金銭的な苦労はないし、残業もそこまでなく、休みも安定している――恵まれた職場であることは確かだ。

 けれど――


「母の状態によっては、いよいよ仕事も考え時かもしれないですね。今日みたいに昼間からみなさんにご迷惑をかけるようになってしまってはもう……。私がずっと付きっきりでみているか、あとはいっそ施設にでも入れるかしないと……。選択はもうこれしかないように思えます」


「そうかしら?」間髪入れない清水の返答だ。「いい、三上さん。私が今から言う事をしっかり聞いてね。……。お母さんは大丈夫だから、お母さんを理由に仕事は辞めないで」


 ある種の決意を固めかけようとしていたおれに対し、清水は真っすぐおれの前に立って続けた。


「実はね。私の息子もトランス症なの。はじめは二人で暮らしていたんだけど、お医者さんにゾンビって言われてから、息子は仕事をやめちゃってね。その時は私も働いていたんだけど、息子の介護のために私も仕事をやめて……。だけど結局、今は施設に入れさせてもらって。家で付きっきりになったらね、とてもじゃないけど介護しきれなくなっちゃったのよ。まだ三上さんたちがここに引っ越してくる前の事ね」


 清水は相変らず優しそうな笑顔だった。けれど視線は空の先にある思い出を眺めているかのようだ。その瞳が、またおれの元へ戻ってくる。


「民生委員の鈴城さんから聞きましたよ。今日、トランス症対応講座に行ってきたんでしょう? どうでした?」


「……大切な話を色々伺えました」


「うん。それで、本音は?」


 にこにことした笑顔。

 ……見透かされているようだ。清水ははじめからそうだった事を思い出す。おれは白状した。


「辛かったですね」

「責められているみたいで」


 おれは頷いた。「私が優しくしていないと状況はさらに悪くなっていくという話でした」


「わかるわよ。たぶん、鈴城さんたちはそういうつもりで言っているんじゃないのかもしれないけど、こちらからするとそう受け取っちゃいますよね。私も息子に全然優しくできなかったもの。正確に言うと、優しくしようとすると――今度はこっちがおかしくなっちゃいそうなのよね」


 清水の笑顔に、少しだけ後悔の色が混ざっているようにみえた。目の奥が潤みだし、切なさが込み上げてきているかのようだ。


「そんな時間がね。仕事をやめたらずっと続くようになったの。ずっと家の中で息子と二人きりなのよ? 他人ヒトに迷惑をかけてはいけない、自分がしっかり息子の世話をしなければいけない、――そう思えば思うほど、逃げ場がないみたいに、追い詰められていくみたいだった」


 そして清水は、涙目になった瞳を改めておれに向ける。


「その大変さが、三上さんならわかるんじゃない?」


 その言葉はまるで嘆願のようでもあった。過去にした自分のその判断は間違いで、罪すら感じていて、そして二度と繰り返してほしくないといったような――


「……そう、ですね」


 絞り出したようなおれの声だ。それは清水の想いが伝わってきたからではあるが、それだけではない。おれはもしかしたらもう母とは一緒に暮らせないのかもしれないという一抹の不安が頭をよぎったからだ。


 母と暮らすためには優しくしろと言われているが、おれにとってそれは容易な事ではない。いわば能力不足ながら託されたミッションというわけだ。失敗はお互いの生活の崩壊となる。そしてそれを避けたいならば、いよいよ施設という選択を考えていなければならないという事なのかもしれない。


 清水は表情を切り替えた。思い出から、優しい笑顔が戻ってくる。そして少しだけ寒そうに手を組んで、身体をさすりながら言った。


「三上さんは、これからもお母さんと一緒に暮らしていきたい?」


 未だ手に残る血まみれの感触を、おれはまだ忘れていない。例え理想論であっても、おれたちの家族には約束があった。


「暮らしていきたいです。私たちは、幸せにならないといけないですから」


「じゃあこれからもがんばらなきゃダメね!」清水はポンとおれの肩を叩く。「でも安心してくださいね! 今日みたいなことでよければ、いつでもお手伝いできるから!」


「いえ、でもそこまでご迷惑は――」


 おれが言いかけた時、記憶の中の清水は首を傾げて笑った。


「三上さん、講座で何を聞いてきたの? いいから任せなさい!」


 そしてその瞬間、おれは暗い自室のベッドの上で飛び起きた。とにかくあの時は押しつぶされそうなほどの申し訳なさや清水たちの温かさや気温の寒さや一人家の中に戻っていった母の心配やでそこまで思い至ることなく清水に頭を下げて別れたのだが――今になって、おれはようやく一つの解釈にたどり着いた。


 講座で言われていたあれはそういう意味だったのだ。家族が優しくできないからこそ、周りの人の優しさが大切になってくるのだ。

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