第13話 母と民生委員

 鈴城は次の土曜日に自宅のチャイムを押し、おれは彼女をリビングへと案内した。

 例によって、母に鈴城の来訪は伝えていない。前もって母に客が来ると伝えてしまうと、途端に気が散って落ち着かなくなってしまうからだ。


 鈴城をリビングに通すと、おれは「約束の方が来たよ」と母の耳元で――さも母も知っているかのような口調で言った。ソファに腰かけて字幕付きテレビを見ていた母は驚いたが、それなりにかしこまって頭を下げる。


「三上さん、はじめまして~!」鈴城が手を振って母に近づいた。


 おれは自分の母に向かってわざとらしく笑顔を作る鈴城の幼稚な演技にやや不快を感じたが、逆に母はそれが心地よかったのか「あら! 来てくれたの!」と、笑顔で手を振り返す。


「そうよ~! 息子さんにも挨拶しなきゃと思ってね!」


 そう言うと鈴城はおれに視線を向けて頭を下げる。おれもつられて頭を下げた。


「母と知り合いなんですか?」


「全然~! ごめんなさいね、テキトーで」と、鈴城は母に聞こえない程度の声量でにこりと笑った。「でも、お母さんが気持ちよく話せるなら私はそれでいいと思うの」


 それから鈴城は母の体調について母に問いかける。母の受け答えはしっかりとしたものだった。


 買い物は息子がやってくれている。

 料理を作るのが得意な息子だ。

 洗濯や掃除は自分がしている。息子は仕事で忙しいから。

 病院には渋々行っている。息子が言うから仕方ない。

 息子にはゾンビ禍からずっと迷惑をかけてきた。

 息子のおかげで生きているようなもの。

 息子の言う事は聞くようにしなければ。


「いい息子と一緒で、心強いですね~!」


 鈴城は少し大げさにおどけた風に手を合わせて身体を反らしてから、ニコニコ笑顔でおれの方向く。


「すごくしっかりしたお母さんね! オウウィルスに感染していたなんて思えないくらい!」


 おれはためらいながらも頷いた。「今日はいつも以上に調子がいいみたいです。先生相手にもシャキッとして“取り繕う”んですよ」言いながら、思わず「はぁ……」とため息が出てしまう。「普段からこうでいてくれれば、私ももう少し穏やかに過ごせるのに」


「それはできることよ。でも、息子さん一人じゃ無理なこと」


 その含みを持った言葉は、落としがちだったおれの視点を持ち上げさせた。

 鈴城は手に持っていたバッグから一枚のチラシを取り出し、それをおれに渡してくる。オレンジ色が基調の安っぽいイベント案内のチラシだ。大きな文字で“ゾンビの事を正しく学び、正しく対応しましょう”とある。


「“取り繕い”は、息子さんからするとストレスがたまる事かもしれないわね。でも、お母さんにとってはとても大切なことなの。私たちはゾンビについて知ってるようで知らないことがとても多いのよね。だから、こういう無料講座があるってことを紹介しておくわね」


 開催は来週の日曜日、会場は駅に併設された会議室でおこなうことが書かれている。


「もし興味があったら参加してみてね」と鈴城は立ち上がって母の方を見た。「それじゃあ三上さん~! 私、この辺で失礼しますね~! 今日はお話を聞いてくださってありがとう」


「もう帰られるの?」


「そうなのよ~。またお邪魔しますね~」


「それはそれは。どうもどうも、ありがとうございます」


 母は立ち上がってかしこまる。おれたちは親子で鈴城を送り出し、次の訪問日の約束をしてからガチャリとドアを閉める。


「いい人だったわね~」母は彼女とのやり取りを思い出すように見送ってから、おれの方へ向き直る。「それで、今のは誰だったの?」


 わかっていなかったのか……。

 しかし、だとしてもお客様を丁寧に迎える力はまだ残されている。母のその能力は、不思議とおれに自信を与えてくれるようだった。


「ちえみさんに似ていたわよね。ほら、あのテレビでよく見る、ブルゾンの」


 客と別れたその瞬間は、誰でも素の自分に戻りがちだ。言うに言えなかったその人の面白いと思った特徴や仕草を、ついつい身内と共有してしまう不思議な瞬間――


 母の妙なクリアさに、おれは少しだけ笑ってしまった。



 灰色の街の景色。

 空には雲が立ち込め、その表面は荒いヤスリのようにざらついている。電車の音が反響して高架の上を走り去る。


 おれはその景色をリビングから窓越しに眺めていた。窓からこちら側には灯りもなく、外よりもより黒に近い灰色の室内になっている。その中に、母の姿があった。ボーっとおれの方へ身体を向け――頭を垂らした状態で立っている。


 ――母さん。おはよう。珍しく朝早いな。


 グッとネクタイを締め、おれの出勤準備が整う。

 窓から見下ろす街の路地にはたくさんの人があちらこちらと走り回っており、まるで過去のゾンビ禍のようだ。ゾッとして振り返り、母を見てみる。母の顔が持ち上がる。年老いた母の肌はあちこちが腐ってただれ、わずかに呻き声を発しながらおれへと近づいてくる。


 ――母さん……! ついに、ゾンビになってしまったのか……!


 おれはそう言葉を発したつもりだが、口はわずかしか開けられていない。その様子が不思議と客観的に感じられる。淡い色彩で足元や重力が不明瞭な、静止画の一コマ。いつの間にか手に持っている木製のバット。いつもおれの前に立ってくれる赤堀の背中が、いつの間にかこの時もあった。


 もはやこれが夢であることは明白だ。


 しかし結末は最後まで追えと言わんばかりに、おれの意識は未だ眠りを選択し続けている。



 得てして夢とはとても直情的な存在だ。

“もしこうだったら”という映像や展開が理性を飛び越パスして描かれる。


 母はきっといつか、自分の手で殺す事になるだろう――その想いが心の中で言語化されたり、ましてや自覚などするよりも遥かに直感的に自体は進展していく。赤堀がおれの方を見て、その背後から母に噛みつかれる。母の腐った口腔からオウウィルスが一斉に赤堀の新鮮な身体に流れ込む。傷口はすぐに腐食し、色を濁して、赤堀はその場に倒れ込んだ。


 本来であれば赤堀もこの数十秒から数分後には急性ゾンビ症を起こして立ち上がるのだろうが、この夢の中における今のおれの関心は母にある。おそらくここで赤堀が動き出すことはないだろう。


 母は次のターゲットをおれに据えた。ゆっくりと足を擦りながら近づいてくる。手が伸びてくる。その手を握り返したい衝動に駆られる。母がいなくなれば、おれに残された家族は誰もいなくなるのだ。


 赤堀も死んだ。

 これ以上ない友人だった。


 おれにはもう誰もいない。だとしたらこの先おれが生きていく意味などあるのだろうか?


「ゆうちゃん」


 ゾンビが囁く。

 その声が発せられた腐った口が大きく開かれ、おれは抵抗することもなく、母に、頭から――



「ゆうちゃん」


「んー……。わかってる。おはよう」


 ドアを開けて入って来た母の声で、おれは目を覚ました。

 母が心配そうに部屋を覗き込んでいる。今日はどういう母なのだろう。


 ふと、おれは自分の耳の奥にチャイムの音が残っている予感がした。来客でもあったのだろうか? そう思っているうちにピンポーンと明確なチャイムの音が鳴る。ブルッとスマホが振動する。赤堀からのメッセージだった。


『着きましたよー。起きてくださいー』


 日曜日。

 鈴城からもらったチラシの、講演会の日だった。

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