第6話 切り出し

 一つ、わかったことがあった。


 ゾンビ症による物忘れは、脳が破壊されて起こる現象だ。その破壊をいかに早く食い止めるかでトランス後遺症の重さが決まってくる。おれの母はまだ病院に行く事ができていないので、脳細胞の壊死は進行する一方だ。


 しかしそれとは別に、母の精神面の揺らぎこそが“おかしな行動”に強く影響を与えている事におれは気付いた。


 簡単にいうなら、“機嫌がいい時は調子がいい”“機嫌が悪いとすぐに混乱する”という事だ。物忘れの受け入れ一つ取ってもそうだった。機嫌がいいと、自分の過失を認める事ができる。認める事ができれば、母にはまだやり直す力があった。しかし機嫌が悪いと、すべてがおれのせいになる。不機嫌からの責任転嫁はさらなる不機嫌を呼び、興奮して、こちらが想像しないような行動――過去の徘徊など――を起こすようになる。


「だけどな。それがなにより大変なんだよ」


 おれと赤堀あかほりの昼休みは、完全におれの介護相談の時間と化していた。本格化した暑い夏の直射日光を避けて木陰に座り込むが、不忍池の池面に陽が輝き、衰えのない反射熱線を感じる。


「昨日、こんな失敗があったんだ」


 このコーナーは、おれにとっては反省会だ。赤堀は首を傾けて、おれの言葉を待った。



 昨日、おれがいつものように仕事を終えて自宅へ帰ると、母はリビングの椅子にかしこまった姿勢で座っていた。


「ただいま」

「ああ、おかえりなさい! やっと帰って来た!」


 おれに気付いた母は少しだけおどけた様子を見せたが、すぐに両手を合わせてにこやかになった。妙に小綺麗な格好をしていた。手にボストンバッグを持ち、椅子から立ち上がって、おれに向かって頭を下げる。


「ありがとね。今日はお邪魔しました。また来るわね」

 そして家の玄関へと向かっていく。自然な動作なのだが、明らかにおかしかった。


「いや、どこ行くの?」

「今日はもう帰ろうと思って」

「どこに?」

「私の家に。真璃マリさんとたっくんにも挨拶したかったけど……帰ってきたらよろしく伝えといてね!」


 反省点はここからになるだろう。

 しかしその時、おれはどうしようもなかったのだ。


「母さん。……なに言ってるんだ?」


 その声の低さに自分自身驚いたのを覚えている。母がビクリと緊張したのがわかった。しかしこのマンションこそが今の母の家だし、おれの妻と子供はもう死んでいる。そして続けざまに、思わず、おれは母を蔑んだ。


「もしかして、ここがどこかわかってないのか?」


 母の表情が変わる。

 ボストンバッグをまるで守るかのように抱きかかえ、肩をこちらに向ける。


「あなたたちの家でしょ! なに! 留守番してあげてたのに!」

「おれと母さんの家だろ!」

「じゃあ真璃さんとたっくんは一体どこに――」

「もう死んだだろ!!」


 おれの怒鳴り声は、少しだけ部屋に反響して消えた。母の顔が青ざめる。しかし、真実を思い出した風ではなかった。純粋に、おれに恐怖を感じた表情だ。


「じ、自分の家族を、そんな風に――」

「そこに仏壇があるだろ! 頼むから、せめてこんなことくらいは忘れないでくれよ!!」


 我ながら酷く傷つける物言いだっただろう。

 リビングの隅に作ってある我が家なりの小さな仏壇を見て、母は言葉を失った。


「ここは母さんの家なんだから、こんな時間に外に出ようなんて思わないでくれ!」


 おれはそう声を荒げて、自室へと戻った。



「真璃さんと泰知タイチくんの事ですか」


「怒っちゃいけないって、わかってるつもりだったんだけどな」

 笑ってみたが、どうしても自嘲しているようだ。


「いや、それは怒りますよね」と赤堀は言葉に力を込めてくれる。「こっちだって人間じゃないですか。そこは怒っていいですよ」


「でもそうすると火に油なんだよ。昨日はそのまま大人しくなってくれたものの」


「トランス、結構進行してる感じですね。病院には連れていけないんですか?」


「まだ言えてない。どうにも、やっぱり不機嫌になってくれるのが怖くてな。病院の話をしたら途端に怒りそうで」


「まぁ、こっちからしたらそれが一番イヤですからね……。でももしかしたら、今が一つの動きどころかもしれないですよ」


 おれは赤堀の方を見た。その横顔は、まっすぐ池面を眺めている。口が動く。


「ここで動かなかったら、あとはウチみたいな強制連行になると思います」


 おれはそのまま赤堀の横顔を見つめた。過去を思い出しているのだろう。おれの視線に気付いた赤堀は、いつも通りのセリフと共に笑顔で立ち上がった。


「そろそろ時間っすね。戻りましょうか」

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