第7話 初回受診へ

「母さん。相談があるんだけど」

「どうしたの? 改まって」


 土曜日の朝一番。

 休日なのに早起きするのは非常に億劫だったが、母の機嫌が安定して良い時間帯がここだった。


「最近、心配な事とかないか?」


 神妙そうなおれの顔を見て、母は困惑した笑みを見せる。「なによ急に」


「すぐ物を忘れちゃうとかさ」

「まぁ……そうねぇ。歳だから、そう感じる事は増えてきたわねぇ」


 頬に手を当て、過去の記憶を探るような眼の色をする。

 ――行ける気がした。今のこの様子なら、こちらの言いたいことは届きそうだ。


 おれは言葉が喉元に引っかかるのを感じながらも、なんとかそれを押し出して母に聞いてみた。


「病院に行ってみないか?」できるだけ表情の緊張を解いて、母を見る。「ほら。今、不安を煽るような報道が多いだろ。その不安を拭えるなら拭っておきたいんだ」


「うーん。そうねぇ……」


 母は悩むような口調だったが――おれの心深域での不安を余所に、不明確ながらも頷いて見せた。


「なにもなければそれはそれで安心だものね」


「行ってくれるってこと?」


「そうね」


 思わず、ほっと息を漏らした。


「よかった。てっきり嫌がるかと」

「なんで嫌がるのよ。自分の事だもの~」


 母から笑顔が見える。

 なんだ――と、肩の力が抜けてしまった。これならもっと早くに言っておけばよかったな――



 おれはスマホを起動させて、早速、トランス診断が可能な病院を探した。近くでは川浜記念病院の脳神経外科が物忘れ外来をやっているようだった。診察は完全に予約制で――しかし電話をすると二ヶ月待ちと告げられた。そんなに先なのか……とがっくりしかけるが、その電話に対応した職員は偶然にも地域情報に詳しい医療ソーシャルワーカーで、親切にも自宅の住所地近くにある内科や精神科のクリニックを何か所か紹介してくれた。


 改めて教えてもらった番号に電話をかけると、早速、内科クリニックに月曜日に受診が決まった。電話を切るとおれは本当にほっとして、まだ受診はこれからにもかかわらずどこか気分が軽くなったようだった。会社に月曜日は休む電話を入れ、改めて母に言った。


「ありがとう」

「なんであなたがお礼なんか言うの」

「嫌な気分にさせたかなって思ったんだよ。あ、忘れないようにカレンダーに書いとくからな」

「もー、いくらなんでもそんなこと忘れないのに」


 朝に挑んだのが良かったのかもしれない。

 おれはカレンダーに大きく病院受診と書き記し、事あるごとに冗談めいて「月曜は病院だからな」と伝えつつ月曜日を待った。



「ねぇ、ゆうちゃん」


 月曜の朝を迎えた。すでに職場へは連絡をいれて休みをもらっている。仕事のない月曜日とはいいものだ。ただしおれにとっては別の意味で緊張感のある勝負の月曜日だった。

 おれはいよいよ母を病院に連れて行く。そこでおそらく予想通りの告知を受ける。しかし、それが母にとっての第一歩なのだ。むしろ、不思議な期待感すらあった。


 ところが――深刻そうな表情で母がおれの部屋をノックしてきたことで、不穏な予感が一瞬にして身体の隅々に行き渡ったのを感じた。


「今日の病院、行くのやめようと思って」


 身体が感じ取った予知は的中した。緊張に顔を強張らせた母は、おれの反応を避けるようにすぐに扉を閉めてしまう。もちろん、すぐにおれは飛び起きた。昨日の夜まではご機嫌で「行く」と言っていたのだ。


「冗談だろ? 昨日まであんなに乗り気だったのに」


 リビングへ逃げ戻る母を追いかけた。


「でも、そんなに困った事もないし、どこも悪くないし」


「ちょっと検査してもらうだけじゃないか。何もなければそれでいいし、問題が見つかったら直してもらえばいい。母さんも自分でそう言ってただろ。“なにもなければ安心だ”って――」


 すると突然、母はその背中にグッと力をいれた。


「わかってるから!」


 そしておれの方へと振り向いた。血相がかわっている。


「ちゃんとわかってるから! 今日行くって予約してたでしょう!? ちゃんと覚えてるから!」そして何かを探すように――すがるようにカレンダーを指さして続ける。「ほら! 月曜日に病院って! ちゃんと書いておいたんだから! 忘れないように! 本当は行くつもりだったのよ!」


 母は、さも自分が自発的に行くつもりだったかような言い方をしたので、なんだかおれは無性に腹が立った。


「それを書いたのはおれだろ!」


「私が書いたじゃない! でも病院なんて行かなくても大丈夫なの!」


 どういう理屈だよ――

 ふと、怒りの赤色が頭頂部の頂点から溢れそうな事に気付いた。これを越えてしまったら、この怒りはおれ自身の手を動かすだろう。しかしそれを自覚した瞬間、幸いにも、途端におれは冷静になった。一方で返す言葉も失った。


「病院なんて行かなくても大丈夫だから!」


 そう繰り返す母に、おれは何も言えなくなった。

 一体、なにがいけなかったんだろうな――

 憤る母を前に溜息を吐いてみるが、母にしたらそれも気に障ったようだ。


 ……もう今日はだめだ。離れよう。


 そしておれは自分の部屋に戻り、不意に生じた予定のない休日の発生に気付く。仕方がない。せっかくだ。有効活用しよう。そしておれは布団に潜り込み、二度寝の態勢に移行した。



 ところが―――

 それはしばらく時間が経ってからのことだった。


「ねぇ、ゆうちゃん」


 おれが寝ていると、母が部屋のドアをコンコンと叩いてから開けた。先ほどの怒りの様子とは一転、言葉の雰囲気は穏やかだった。というよりも、むしろどこか気を遣っている風すらある。謝りにでも来たのだろうか。


「今日、なにか予定があったような気がしたんだけど……。ちょっと忘れちゃって」


 母が何か言っている。

 しかしおれはもうすでに二度寝の休止態勢だった。睡魔が頭をボーっとさせているので、母の言葉一つ一つを繋げて理解する作業がとても億劫だった。


 「今日?」と声を吐くのがやっとな具合だ。


 だいたいさっきはあんなに怒っておいて、よくもまぁそんな控えめな声色を出して演じられるものだ。それよりもおれは眠いんだ。母に背を向けるように寝返りする。


 さらに母の声が聞こえた。


「そう。今日。なにかしなきゃいけない気がするんだけど……。ゆうちゃん、なにか心当たりないかしら」


「さっき病院に行くって――」その話で大喧嘩したよな。


 そこまできっかり言うつもりだったが、眠いおれの言葉は途中で息絶える。また、母が続きを遮ったこともその理由だった。


「ああ! そうだった!」母の声がうるさくなる。「それ! 思い出した!」


 ああそうかい――

 嫌な事でもすぐに忘れられる都合のいい頭でなによりだと恨病うらやましい気持ちになる。思い出してくれてなによりだ。とはいえ思い出したにしては妙に声のトーンが明るかった。おれの中ではイライラ虫が眠気という甘いお菓子をむしゃむしゃ食べ始め、この心地のいい夢心地から追放されてしまいそうだというのに。


「今日は病院を予約していたんだっけ。あれ、でもどこの病院だった覚えてる?」


「近くの内科だろ……」


「え? あ……ああ、そうだったわね!」


 絶対覚えていないのに取り繕う母。


「じゃあちょっと行ってくるから、いい子に留守番しててね」


 ふざけて言っているのか、それともトランス後遺症の人は昔の自分に戻るというアレなのか――いずれにせよ母は扉を閉めて自室へと戻っていった。


 再び部屋が静かになって、ようやくおれはじっくり睡魔と戯れる時間を取り戻す。このままもう一呼吸、大きく吸い込んだら本格的な睡眠と安らぎが待っているだろう。


“じゃあ、ちょっと

 ……どこに?



 思わず、おれは飛び起きた。


「母さん! マジか!」


 年甲斐もなく若い頃の言葉が飛び出してくる。なにか幸福が舞い降りて来たかのように、どこかうれしい気持ちでおれは母を追って部屋を出た。

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