第4話 ゾンビ予防特集

 不忍池から事務所までのわずかな帰り道の中、おれは先日の母の混乱と徘徊のことを赤堀あかほりに打ち明けた。


「……そんなことがあったんですね」


 事務所は池から歩いて徒歩五分ほどの場所にある。赤堀は深く考え込むような表情で、何度も頷きながら聞いてくれた。上昇するエレベーターの中で腕時計を確認すると昼休みも残り五分しかなく、おれたちは急いでトイレで歯を磨いてからデスクに戻った。


「聞いてくれてありがとな」


「先輩も、話してくれてありがとうございます」


 事務所内での別れ際に、赤堀は言った。


「家族がゾンビかもとか、ゾンビになったとか、そういう話を人にするってめっちゃ勇気いりますよね。……だって、ゾンビですよ。みんな引きますよ。なのにおれらってちゃんと打ち明け合って……、偉いっすよね」


 子供っぽく笑ってデスクへと戻る赤堀。

 それは他でもないお前の勇気のおかげだよ――と、おれはその背中を見つめていた。ゾンビ禍の時、おれはずっと赤堀のそれに救われてきた。そしてまた、彼は導いてくれようとしているのかもしれない。



「ただいま」


 自宅のスチール製のドアを開ける。重いドアだ。さらには母が混乱したあの日以降の――、どうしても無視できない緊張が、その扉をさらに重くさせている。


『お父さん、お帰り』

『パパ! 遅い!』


 ふと、そんな昔の光景を思い出してしまう。扉を開けても、明るく温かい光景は今はもうない。現実は、暗い廊下の先からリビングの薄暗い灯りを零している。


「ただいま」


 それは返事のようでもあった。

 リビングへ上がると、母が料理を作っていた。二人分の料理だ。おれに気付いた母は「おかえりなさい」といつもの笑顔をみせてくれる。ここまで料理ができあがっていたら、風呂は後にして、先に母との時間を過ごすことにする。


 夕飯はおれの好きなチンジャオロースだった。

 そしてテーブルの隅に小さな皿が三つ、控えめにご飯が盛り付けられている。仏様用だ。おれはそれを、父と妻と息子の写真が置いてある我が家なりの仏壇に供え、線香に火をつけて手を合わせる。相変わらず眩しい三人の笑顔だった。すべてが落ち着いて合同葬儀を開いた時、ゾンビがいなくなった世界で精一杯幸せに人生を全うしてやるとおれは彼らに誓っていた。


「なんかね。最近、私、よくわからなくなっちゃって」


 席について、母と二人で夕食を食べる。いつもの母の味だ。そんな母がポツリと言った。


「わからなくなったって、なにが?」


「うーん」


 頭を傾けて悩む素振りの母。今日は耳の調子は良いようだった。


「まだ警察に言われたこと気にしてんのかよ。料理もちゃんと作れてるし、大丈夫だよ」


「うーん」


 母は困りながらも笑顔を見せ、しかし言葉は続かない。そのまま会話も広がらないので、おれはテレビをつけてみる。NHKの健康科学番組で“ゾンビ症予防特集”がやっていた。ちょうどVTRだった。


 血液中を流れるのっぺりとした赤血球などと一緒に、細かい塵のような――トゲトゲした紫色のオウウィルスの粒子が細かいCGで描かれている。おれたちが知っている急性ショック症状としての発症トランスは、このトゲトゲが急激かつ大量に身体に流れ込み、一気に細胞に寄生した場合――つまり噛まれた時に最も起こりやすいと女性ナレーターが語る。


 対して慢性型は、はじめは少量のオウウィルスが時間をかけて徐々に細胞を蝕み、やがて増殖して機能障害を引き起こし、気付いた時にはもう脳をはじめとした細胞が腐食したり委縮したりと器質的な変化に至っている――すなわちトランスしている――というものらしい。


 映像がスタジオに戻ると、アナウンサーと司会が脳の模型を囲んでさらに解説をはじめた。

 急性であれ慢性であれ、オウウィルスの特性として前頭側頭部を主に蝕む傾向があるそうだ。脳のその部分が機能障害を起こすと、人は攻撃的になり、また反社会的であったり欲に忠実な行動を起こしたり、感情の制御がきかなくなったりする。さらにウィルスに感染した細胞が分泌するとされる神経物質により、特に噛みつき衝動が増強されるそうだ。そしてその衝動は、本人にとって心を許せる相手や魅力を感じる人にほど向けられる。


 思えばおれの妻も息子も、赤堀には目もくれず一直線におれを狙ってきていた。生々しい右手の感触が思い起こされる。苦悩の末に突き刺したナイフの感触だ。大切な人から狙われ、そしてその相手を殺さざるを得ないというその残酷さは、ウィルスなりに自身の生き残りをかけ人間の弱点をついてきた結果なのだろうか。


 番組は続いている。

 現在流通している抗ウィルス剤はそこまで万能ではなく、少なくとも体内に侵入したウィルスすべてを死滅させることはできないという。また、人によって様々な臓器の機能障害や異常行動を引き起こす副作用も指摘されていることから、日常的に予防薬として服用することは現実的ではないそうだ。


 さらにおれは昼間の赤堀の言葉を思い出した。“すでに破壊された身体の一部は、薬では治すことができない”というものだ。


 番組も同じことを語った。

 脳も身体も一部なのだ。例えば切断された腕の復元などは現在の医療・科学技術をもってしても到底できないように、脳の失われた部分を再生させることも同様にできず、たとえ抗ウィルス剤で感染の進行を阻止したところで、そこまでに生じた障害はその後も背負っていくことになる。それは世間ではトランス後遺症と呼ばるものだが、それがどういうことかというと、結局のところその人は元に戻らずゾンビとして生き続けるということだ。


 現在の日本において“重篤なトランス後遺症を負った人を殺す”という選択は、ゾンビ禍時代の価値観が色濃く残っていることもあり、一般的かつ社会的な対処法だ。


 ゾンビになったら治らない。最悪、家族はその人を殺す決断が求められる。

 では、これから自分たちはどうすればいいのか。


 番組は、オウウィルスを自分たちの身体の免疫によって倒す方法を提案していた。簡単に言うとそれは“健康な身体づくり”であり、メタボや生活習慣病の予防とさして変わらない内容だ。適度な睡眠。健康的な食事。運動。ストレスのない生活――


 そしてそのための方法論がいくつか紹介され、出演者たちは満足いった表情でガッテンガッテンと手元のボタンを叩いていた。番組が終わる。チャンネルをそのままにしていると、ゾンビによる事故等の報道がはじまった。今日は高速道路の逆走があったらしい。家族は本人のゾンビトランスを認知し鍵を取り上げていたが、それでもどこかから鍵を見つけ出し車を運転してしまったそうだ。


「怖いわねぇ。私も気を付けないと。絶対にゾンビになんてなりたくないからね」


 母はそう言いながら食器を片付けはじめた。鼻歌を歌いながらご機嫌な様子だ。食器を拭いて冷蔵庫を開け、丁寧に食器を重ねていく。母は、自身のその異常な行動に気付いていないようだった。さらに食器が重ねられる。おれは心の底で驚きつつも、ご機嫌な母にそれを言うとまた取り乱してしまうのではないかと危惧し、何も言うことができなかった。


 しばらくして「なんで冷蔵庫に空の食器を置いてるの!」と、部屋で休んでいたおれに文句を言いに来た。


「母さんが自分でしまったんだろ!」


「そんなバカなことするわけないじゃない!」

 バタンと扉を閉めてリビングへ戻っていく。


 母に対し、おれはどうすればいいのだろう――

 指摘することが正解なのか、それとも間違いなのか。おれは、自分で判断することができなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る